ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

マディ綱島 & WaterBluesBandコミュのBiography-序章

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
オイラの音楽部屋の机から懐かしいものが出てきた。今はなき武蔵小杉にあった居酒屋ライブハウス「くし勝」の2003年5,6月のスケジュール表である。
一番頭の5月30日に 『マディ*s Night』マディ綱島&Water Blues Band と書かれている。

そう、この2003年5月30日のライブが「マディ綱島&Water Blues Band」という名称を冠した初ライブだったのである。あまりに懐かしかったので、覚えているうちにこのバンドのBiographyを少しずつ書いていこうと思いたった。



序章<In The Bigginings:黎明期>
確か2000年かその前年頃から、オイラ(マディ)は綱島の「スピリット」というお店で演奏を始めていた。当初は毎週木曜日の夜に村尾さん(ジャズ詞大全の作者)の弟子ピアニストの金盛章二(現在はカナダ在住)がソロピアノでジャズを弾いていて、そこに地元で同じ村尾ファミリー(?)であったオイラがギターを持ってそれに参加するようになった。

このデュオは後にいろんな人が参加し始めて、月に一度の綱島「スピリット」のジャズセッションへと発展していった。金盛氏はその後カナダに移住することになって、このセッションリーダーをオイラが引き継ぐことになった。今のウォーターブルースバンドのメンバーはこのセッションと、同じ「スピリット」で日曜日に行われていたもう一つの河原厚子さんがリーダーをしていたボーカルセッション(オイラも何度か参加した)で出合った人たちなのである。

同じ頃、オイラは学芸大学のジャズバー「A-Train」の宮住氏のセッションなどで作曲家の岡本朗氏と知り合いになっていた。その岡本氏はしばらくすると武蔵小杉で居酒屋ライブハウス「くし勝」をオープンした。オイラはそこのセッションにも参加するようになった(オイラはこの頃までは、やたらいろんな店のセッションに参加してた)。やがて岡本氏からセッションではなく、ステージをやらないかという話になり、「ブルースをやってくれ」というオファーがあった。それで「くし勝」で演奏するために当時、綱島のセッションによく参加していたベースの古川君に声をかけたのである。これがウォーターブルースバンドの始まりであり、ネーミングはブルースの大御所"マディ・ウォーターズ"をもじって岡本氏が考えたものである。

さらに烏田君にバンディロ(だったかな?)、宮田君にブルースハープを持って遊びにおいで!と声をかけた。その日はジャズとブルースのスタンダード(英語曲とインスト)だけで3ステージをこなした。この二人は遅れてやってきて何曲か参加した。まだ、今のようなオリジナルを後にやることになるとは思ってもいない頃であった。上の左のスケジュール表にはラテンの黒田さん、フォークのりーだー、ジプシー系のモルカの名前も見える。他にはジャズやフュージョンであり、オイラの位置づけが「ブルース」であったのだ。

その後すぐに、「くし勝」は騒音の問題で閉店してしまった。岡本氏は出演者たちと仲が良くなっており、ソレを惜しんだ出演者たちを集めてライブを企画することになった。複数のバンドが出演するイベント「俺に歌わせろ(略称:オレうた)」の始まりである。このイベントの記念すべき第一回目は大塚の「エスペトブラジル」で開催された。2003年12月6日のことであった。

このときは古川クン、烏田クン、宮田クンに加えて、やはり綱島セッションで知り合ったピアニストの二階堂さんに声をかけた。ドラムのない店だったこともあり烏田クンは参加できず(烏田クン自身もその日都合が悪かったんだったか?)ドラムレスの4人編成でトップバッターでブルースとジャズのスタンダードを中心に演奏した。そのときのイラスト(byバウロンのオサムさん)が中の絵、右がそのときの写真。このようにして今のウォーターブルースバンドの形が出来あがったのである。

つづく…

質問や感想があったら遠慮なくどうぞ。

コメント(5)

あっ、私が初めて参加した「オレうた」!!
オサムさんのイラストで私の楽器が『エレクトーン』になってるんですよねあせあせ
確かに初期はブルースバンドだった。ような気もする。。
私は、初めて綱島SPIRITのセッションに行った時のことが印象的で、よく覚えています。
セッションやってるのは知っていたけど、なかなか行く機会が無くて、でもその日は仕事帰りに何だかすごく演奏したりなかった気分になっていて、急に思い立って行ったんですよ。
聴くだけでもいいや、と思っていたのが、すぐに一緒にどうぞ、って言ってくれてマディさんやkogawaさんと演奏して・・・それが発端で、今の活動にずっとつながっているんですよね。
ちなみにこの頃やっていた曲(歌もの)は
 Georia On My Mind
 Nothing But The Blues
 Stormy Monday Blues
 Black Coffee
 Gee Baby I Aint Good To You
 Come Rain Or Come Shine
 Nobody Knows You When You Down And Out
 …
といったあたりのブルース系ジャズやブルースのスタンダードだったと記憶しています。オイラのコード譜や歌詞カードのファイルの日付で思い出しました。
〜というか、この当時オイラはボーカリストではなかったので歌える曲は限られてました。

その前のくし勝ではこれに加えて、"root66"や"All Of Me"といった歌ものスタンダードとこのときにセッションでよくやっていた"In a sentimental mood","Round midnight","Whisper Not"などのブルージーなジャズのインスト曲をタクサン入れてやったと記憶しています。
つづき

『オレうた』のイベントが以降半年に一回のペースで実施されることになる。第二回目の『オレうた2』は当時は六本木にあった「音楽室」(現在は青山に移転)で 2004年7月3日(土)に実施された。上はそのときのイラスト(by オサムさん)
六本木の音楽室もまたドラムセットのないライブハウスであり、烏田クンは参加せず、ドラムレスパターンでの演奏であった。この時点でも第一回目と同様にジャズやブルースのスタンダードを中心に演奏がなされた。

このようにマディバンドという名前では、2003年5月以降半年おきにライブ活動がなされていたが、イベントが行われるたびにこのメンバーが集まってジャズやブルーススタンダードをやるという形であり、それぞれのメンバーはそれぞれに別のバンドやいろんなセッションに参加しているような状態であった。

オイラもまた月に一度の綱島セッションに人が集まってくるようになった時期であり、そちらに力を入れていた。この頃、後に"One More Booker's"のCD作りを手伝ってくれた小野塚豊氏や永山綾子嬢が綱島セッションに参加して知り合うこととなった。綱島セッションはその後しばらくして、お店のライブ中断の方針に合わせる形で中止となっってしまう。

この時期、岡本氏からスタンダードばかりではなくオリジナルもやったらどうかという話があり、『オレうた2』のイベントが終わった2004年の夏ごろから、オイラは創作活動に入った。このバンドの雰囲気で日本語のブルースをやるというコンセプトであったが、当時はオイラは作詞するのが苦手であり、岡本氏から作詞家としてkissme(スミ)さんを紹介してもらっていた。

こうしてその9月頃には最初のオリジナルソング「ブッカーズを俺に」が完成した。さらにすぐその後に「忘れじの電気ブラン」が完成した。これは「ブッカーズを俺に」の3拍子の派生的にできた別作品であり、作詞はオイラ自身が書き上げて完成させた。いずれも『オレうた』の参加メンバーによる飲み会をネタに想像を膨らませて作られた作品であった。さらにその年の終わり頃には宮田クンが作詞した「一人ぼっちのクリスマス」「夏草」に曲をつけて書き上げた。

こうしたオリジナルソング作りと岡本氏によるアレンジが2004年の後半に集中して行われ、六本木から青山に移転したばかりの「音楽室」にて翌2005年1月22日に行われる「オレうた3」でライブ発表することを標準に入れてリハが行われた。このライブが新しいコンセプトをもって発展するマディバンドのファーストステップとなった。 (「夏草」のアレンジはこのライブに間に合わず、次回に持ち越された。)

つづく… 第一章<マディバンド・ミュージックの幕開け>は別トピックで書きます。
 ↑
14行目
×中止となっってしまう。
○中止となってしまう。

後ろから4行目
×を標準に入れてリハが行われた。
○を照準に入れてリハが行われた。

結構、誤字脱字してるね〜。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

マディ綱島 & WaterBluesBand 更新情報

マディ綱島 & WaterBluesBandのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング