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米国、南NJ州クリスチャン教会コミュの言い伝えについての議論。

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言い伝えについての議論。
マタイ15:1-20.

イエスの名声が広まるにつれて、エルサレムの宗教的な指導者たちは、これを放置しておくことができませんでした。彼らはパリサイ人や律法学者を派遣して、イエスの言動を調査し、弾圧しょうとしました。彼らは<イエスの弟子たちが、パンを食べる時に手を洗っていないと非難した>。(15:2)

これは衛生的な意味で手を洗わないことをとがめたのではなく、ユダヤ人のしきたりとして、パンを食べる前には手を洗うという宗教的儀式を行わなければならないと定められていたのに、弟子たちはそれを守っていないと非難したのです。これに対して、イエスは先祖からの言い伝えは真に権威あるものではなく、神から与えられた律法こそが真に守るべき権威のあるものだと主張しました。

もともと<言い伝え>は、人間が律法を拡大解釈したものであって、神から直接与えられたものではない。それなのに律法学者やパリサイ人は言い伝えを厳守しようとするあまり、根本にある律法を犯していたのです。(15:3)

イエスはその一例として<父と母を敬いなさい。>と<父や母をののしる者は、死刑に処せられる>(出エジプト20:12,21:17)と言う律法の規定を引用しています。これらは父母を敬うべきことを教えています。ところが、言い伝えによれば、父母を扶養するために、<差し上げられる物>(15:5)も、神に<供え物>としてささげると誓いをするなら、父母には与えることができず、神にささげなければならなかったのです。

神に供え物としてささげるというのは、いかにも敬虔そうに聞え、立派に見えるかもしれませんが、その美名に隠れて、両親を扶養する義務を怠る者さえいたのです。このように、言い伝えを重んじるあまり、本来の律法の精神を無にしてしまうなら、言い伝えは無意味なのです。(15:6)

律法学者やパリサイ人がしていることは、結局、イザヤが預言したように、口先では神を敬いながら、心は神から遠くはなれていることを示すものでした。(15:8-9,イザヤ29:13)。イエスは、神によって定められた律法には権威を認めましが、先祖たちの言い伝えによる伝承には、権威を認めなかったのです。

この点は私たちも気を付けることです。キリスト教の伝統の中で、聖書を拡大解釈した、<礼拝には背広を着て、ネクタイを締めなければならない>とか、<長髪やひげを伸ばすのはキリスト者らしくない>等々がそうです。聖書の本質的な精神を愚かにするなら、律法学者やパリサイ人と同じ誤りに陥るのではないでしょうか。

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