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聖書が教える結婚講座コミュの第20回 夫婦6戒

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こんばんは!安藤修一です。

 皆さん!今週もよろしくお願いいたします。早速、夫婦十戒
の第六戒の学びに入りたいと思います。

 と言いながら一週間前に書き始めたのですが、本論の?を書
いたとろで知的体力的に不足を感じて書けなくなってしまい、
更に一週間近くたってしまいました。まことに申し訳ありませ
ん。何とか続きを書けそうになったの再開しました。

序論 
「あなたがた夫婦は、姦淫してはならない。させてもならない
。お互いに罪を犯さなくて済むように、夫も妻も愛する努力と
愛される努力を常に怠ってはならない。」

 これが私の夫婦の第六戒です。本来のモーセの十戒の第六の
戒は、「あなたは、姦淫してはならない。」これだけの短い文
です。

 「あなたは、姦淫してはならない。」というこの短い第六の
戒めは、どのような戒めなのでしょう?それは、単に「浮気を
してはならない。」とか、「不倫をしてはいけない」という禁
止の面だけでなく、もっと積極的、肯定的な意味もあると考え
ることが出来るのです。
 では、これから《夫婦の関係を良好なものにする》為に、神
がお与えてくださったこの聖なる戒めについて、具体的な意味
をご一緒に考えていきたいと思います。

 その第六の戒めを正しく理解する為に、
(1)律法が与えられた時代背景と、
(2)戒めというものが持っている《律法の性質》
 についてお話ししてみたいと思います。初心者の方には《律
法》というような聞き慣れない言葉が出てまいりますが、第六
戒を正しく理解して頂くためには、避けて通れないと思います
ので、ちょっと我慢してお付き合い下さい。実際にやってみれ
ばたいしたことはありませんので、よろしくお願いします。き
っと、とっても良い社会勉強になると思いますよ。

本論1 第六戒を正しく理解するコツ
(1)律法が与えられた時代背景
 神様が、この十戒を与えてくださったのは、今から4,000年
ほど前のことです。場所は、アラビア半島のシナイ山です。エ
ジプトの国で奴隷だったところを、偉大な指導者モーセによっ
て脱出してきたイスラエルの民は、数は多かったがまだまだ烏
合の衆に過ぎず、世俗の民と大して変わるところがありません
でした。ですから、これから《聖なる神の民となる為に必要な
秩序》として与えられたのがこの十戒だったのです。いわば無
秩序な民に秩序を与える為に与えられたのが法律であり、戒め
だったのです。
 特に妻とは言っても、女性が《家財の一つ》ぐらいにしか考
えられていなかった当時の男社会にあって、敢えて女性の尊厳
と権利を守ろうとされた神様の命令は余りにも革新的過ぎて、
如何に神のお言葉であったとしても「はい。そうですか!」と
は受け入れがたい男どもの頑強な抵抗が予想されたのです。特
に神様の心には、表面的には自分に従っているように見せかけ
、その裏には隠された男達の偽善の夫婦生活の危険性への危惧
への思いがあったのです。

(2) 誤った律法の理解の仕方
 この「モーセの十戒」のことを、別名「律法」(りっぽう)
とも言いますが、世界中の国々の憲法や法律のもとになった《
法律の原盤》のようなものです。
 どの法律でも同じ事ですが、すべての法律には、積極的な面
(肯定的面)と消極的(否定的面)な、両方の面があります。

 たとえば、60?という道路交通法の標識がついている道路が
あったとします。皆さんならドライブ中、その60?の標識が付
いた道を何?の速度で走りますか?

 「60?と書いているんだから、全員60?で走るべきだ。60?の
ところを45?〜55?そこそこの速度で走られたらたまったもんん
じゃない。車の流れが悪くなってイライラする人が現れ、つい
には追い越す者も出て来て《ゆっくり運転》は、逆に危険な行
為だ。」と主張し、警察から捕まらない60?前後で運転する人
もいると思います。
 しかし、ある人は、「確かに標識に60?と書いてはいるもの
の、法律で許されている速度一杯を使って走るのは危険だから
、45〜55?ぐらいの速度で走るのが一般常識的だ。」と主張す
る人もいると思います。どちらが正しいのでしょう?どちらの
速度で走っても法律を守っていますから、捕まることはありま
せんね。しかし両方の間に大きな考え方の違いがあるのは理解
できますよね。どちらかが間違っているのが、解りますよね?

(3) 「目には目を!」の理解
 同様に、律法の理解(解釈)においても間違いを犯し続けて
いる人たちがいます。それは、中東のイスラエルという国のユ
ダヤ人たちです。今、中東の国イスラエルが、パレスチナ人や
民兵組織ヒズボラと戦っているのは、ニュース等でご存じです
よね?イスラエルの人たちやイスラム教の人たちが、泥沼の戦
争状態の中で、互いによく使っている言葉があります。それは
、「目には目を!」という言葉です。これは、非常に有名な言
葉ですが、どういう意味の言葉なのでしょうか?

 イスラエル人も、イスラム教の人たちも主張します。「神の
言葉である旧約聖書に『目には目を!』と書いているのだから
、もし我が国の領土に爆弾を落とされたら、敵にも爆弾を落と
し返さなければならない。《我々にはその権利がある》と、語
気を強めて主張します。本当に、そうなのでしょうか?神の言
葉である聖書は本当にそう教えているのでしょうか?答えは、
明らかに「いいえ」です。間違いなのです。お互いに間違った
考えに立っているから、両方が真の神の教えを持っているのに
、いつまでたっても和解する事が出来ないのです。

 どこが、間違っているのでしょう。『目には目を!』の言葉
は、どのように解釈されるべきなのでしょう?それは、道路交
通法の場合と全く同じなのですが、神様がモーセ対して『目に
は目を!』と教えたのは、こういう意味だったのです。 
 本来であれば、『人間は復讐はしてはならない。どんなに相
手が憎い敵であっても赦さなければならない。復讐は神である
わたしのすることである。あなたがた人間は、互いに愛し合わ
なければならない。』これが神であるわたしの本心である。と
旧約聖書は書いているのです。その復讐の行為を否定する御言
葉が、下記の2つの御言葉です。

 「『悪に報いてやろう。』と言ってはならない。主を待ち望
め。主があなたを救われる。」(箴言 20章22節)

「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめ
くときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、
すみやかに来るからだ。」
                          (
申命記 32章35節)

 これらの旧約聖書の神の教えを、新約時代の偉大な使徒パウ
ロは本当に正しく理解する事が出来ていたので、分かりやすく
このような文章に言い換えています。それは、新約聖書のロー
マ書12章19節〜21節にこう書かれています。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任
せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたし
のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたな
ら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に
燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません
。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ人へ
の手紙12章19節〜21節)

 旧約と新約で言い方は違いますが、神様のメッセージの内容
は同じです。それは、「人間は復讐をし合ってはいけない。復
讐は神であるわたしに任せなさい。あなたがたは、味方ばかり
でなく、たとえ敵であっても愛しなさい。悪に対して悪で返し
てはいけません。悪に対して善で打ち勝ちなさい。愛すること
によって、敵意も復讐心もないことを示し、愛の神を信じてい
る平和の民族がこの世に存在していることを証ししなさい。」
という教えなのです。

 ところが、神ご自身の選んだ民であるユダヤ人が、余りにも
頑固なので、神様の方が譲歩してこう言われたのです。「あな
たがたはうなじを強(こわ)くし、心を頑(かたく)なにして
、『私は、敵であるあいつをどうしても赦せない。赦す気にな
れない!』と、あくまでも復讐を主張するので、わたしは仕方
なくモーセに命じて、敢えて次のように教えることで彼らと妥
協するように許可したのだ。」その神の妥協限界点が、「目に
は目を」だったのである。

 つまり、『どんなに、あなたに復讐する権利があると仮定し
ても、神であるわたしは、相手と同じ分だけしか復讐する権利
をあなたに認めない。あなたが相手から受けた以上に、傷を相
手に与えることは、絶対に認めない。そうでなければ、果てし
なく憎しみと復讐が増大し復讐が繰り返されるだけだから。』
だから同等の復讐までなら妥協することもやむを得ない。とモ
ーセに語った。しかし、私の本心は復讐ではなく、あくまでも
赦し合いであり、愛し合うことである。だから、『目には目を
!』これが神であるわたしの最大の妥協点だったのである。で
すから、「目には目を」の神の言葉を用いて何倍もの復讐を正
当化することは不当であり、間違いなのです。
 
 《人類が赦すこと。愛し合うこと!》これが神の御心だった
のです。これが、神の偽らない本心であり、神の心からの願い
であり、神の叫びだったのです。しかし、ユダヤ人も、イスラ
ム教徒も、この愛の神の深い嘆きと赦し合って欲しいという願
いを正しく理解していません。正しく理解するどころか、大き
く誤って神の言葉を拡大解釈しています。そして、実際には『
目には目を!』どころではなく、『目には生命』まで要求して
います。二〜三人自爆テロで殺されると、それに対してイスラ
エルはその町全体に対する無差別爆撃を敢行しています。そし
て、罪のない民間人を何十人も巻き添えにして殺しています。
これでは仮に、たとえ復讐する権利があったとしても、復讐し
過ぎです。行き過ぎです。受けた傷よりも、明らかに多きな傷
を返しあっているからです。これは、神の言葉の誤った乱用で
す。間違った律法解釈です。これでは、解決できるものも、出
来なくしてしまうからです。

(4)正しい律法の解釈を、第六戒に適用する。
 夫婦十戒を学んでいる皆さんに、これらの事を話して来たの
は、これと同じ過ちを夫婦十戒に於いて犯して欲しくなかった
からです。

 つまり、確かに神様は第六戒で、夫婦に対して「姦淫しては
ならない。」と命じています。つまり、「浮気や不倫をしては
ならない。」と夫婦に命じているのです。しかし、「浮気や不
倫さえ犯さなければ」、あとは何をやってもいいのでしょうか
?何をやっても許されるのでしょうか?それではユダヤ人と同
じ偽善です。
 たとえば、夫婦が仲良く出来なくても、互いに口をきかなく
ても、たとえ毎日のように夫婦喧嘩をしていても、憎しみあっ
ていても、一心同体の夫婦に成長できなくても構わないのでし
ょうか?神はそんな夫婦でも「浮気や不倫さえ犯さなければ」
それで良い。と言われる御方なのでしょうか?そんなことで、
この第六戒の戒めを守っていると言えるのでしょうか?そんな
ふうに解釈して良いのでしょうか?とんでもありません。答え
は「いいえ」です。良い訳がありません。神はこの戒めを通し
て、もっともっと夫婦が赦し合い、愛し合うことによって一心
同体の夫婦になり、幸せになって欲しくて「あなたは、姦淫し
てはならない。」と命じられたのです。

 これはちょうど「60?と書いているんだから、全員60?で走行
しなければならない。」これが法律というものだ。と主張して
いるのと同じ間違いをしているのです。文字通りに消極的なこ
とを守ってさえいればよかった訳ではないのです。もっと積極
的に愛し合う夫婦になって欲しくて「あなたは、姦淫してはな
らない。」と命じられたのです。
 ですから先ほどの道路交通法の時速60?走行の本当の答え
は、「最高で60?までは出しても良いが、全員必ず60?出さなけ
ればならない。」という教えの法律ではないのです。この文字
に厳格にこだわり過ぎる過ちのことを、難しい神学用語では「
字句拘泥主義」と呼んでいるのです。


本論2 第六戒の真の目的
 今まで、律法の《正しい理解の仕方》を学びながら、「夫婦
第六戒について」お話ししてまいりましたが、今度は神が与え
た《律法の目的》について学びながら、「第六戒の真の目的」
についてお話したいと思います。

 先ほどから、神が《烏合の衆に過ぎなかったユダヤ人》の為
に律法を与えられた。と言ってきましたが、神様は何の為に律
法を与えられたのでしょう。あなたは、どう思いますか?人間
を救うためだったと思われますか?
 すなわち、「人間にしっかりと律法を守らせ、秩序を保たせ
ることにより、彼らを幸せに暮らさせるためだ。」と考えられ
ますか?
 もし、そう考えられたとしたら、あなたは間違って律法を用
いていることになります。神は律法を守らせることによって、
人間を幸せにさせようと考えられたのではありません。逆なの
です。
 もちろん、第六戒だけでなく、どの戒めでも出来るだけ守る
ように努力することは大切です。しかし、良く考えてみて欲し
いのです。神の律法や戒めを《完全に守れる》人は、この世に
いるのでしょうか?

 それを知るには、律法が与えられた真の目的を知らなければ
なりません。神が律法や戒めを与えられた真の目的は、いかに
人間が神の律法を守ることの出来ない無力で愛のない堕落した
存在であるかを、嫌と言うほど理解させるために戒めを与えら
れたのです。
 言い換えれば、神は人間を愛に於いて打ちのめし、愛に於い
て謙遜にさせ、自分は《人を愛する力》を神様から戴かなけれ
ば、自分の妻一人さえも愛せない無力な人間であることに気づ
かせるために、敢えて誰一人完全に守ることの出来ない完全な
律法を与えられたのです。

 ところが、人間は、《良い教えが人を救ってくれる》と勘違
いしているのです。その証拠に、私たちの家の中のカレンダー
の余白部分や、壁にさがっている額縁などの中、また、色紙や
掛け軸の中に家訓や人生訓などが書かれているのをご覧になっ
たことがありますね。たとえばですが、私たちの家の中に一つ
や二つは、星野富弘さんの色紙とか相田みつおさんの言葉とか
、思いっきり良い言葉が教訓として書かれているのを発見する
ことが出来ますね。
 私が酒田の在郷にある親戚の家に行った時に、家内と一緒に
見た額の思い出があります。その額の中には、二つの骸骨の絵
が転がっていて、その傍にこのような名文が書いてありました
。『喧嘩しないで暮らそうじゃないか!やがて二人はこの姿。

 私たち夫婦はその額を見上げながら、身につまされる思いが
して、「本当だナー!喧嘩なんかしちゃいけないなー」と、い
やに納得させられて、夫婦共に反省しきりで帰って来ました。
ところが現実には、家に帰って来て何時間もしないのに、また
ぶつかり合ったりするのです。

 こんな訳で、良い教えであればあるほど、良い教えは人間を
救わずに、『なぜ、お前は完全な良い教えを守らないのだ?』
と言って責めるのです。良い教えである律法や戒めは、人を救
うことが出来ないのです。逆に罪に定め断罪するのです。良い
教えは決して救いにはならないのです。

 ところが、ユダヤ人たちは、自分たちは神様から律法を与え
られたから特別な民だ。その律法を完全に守っているから、神
の救いなど要らない。救い主など必要ない。と言って今から2000
年前に神が遣わした救い主イエスキリストを十字架に付けて殺
したのです。これは、正しいことでしょうか?救い主イエス.
キリストを必要としない人などこの世に一人もいないのです。
もちろん、信じるか信じないかは自由ですし、必要を感じるか
どうかも自由です。ただ、この世の理屈として、《人は律法の
良い教えを守れない。》という事実と、その守れない辛い現実
から私たち人間を解放し救ってくれる救い主が必要なことだけ
は理屈として理解して頂きたいと思います。

 このユダヤ人の過ちが理解できますか?守れもしない律法を
『守っている!』と2000年以上も主張し続けているのです。こ
の過ちにいち早く気付くことこそ、即座に争いを止めさせ、和
解を成り立たせ、神が望まれている愛し合う世界を実現するこ
とになるのです。この過ちにさえ気付けば、お互いに同じ神を
信じている者たちなのですから、憎しみを乗り越え、復讐に終
止符を打ち、永遠に中東問題を解決する為の夢のようなの大き
な秘訣であることを悟るべきなのです。

 これと同じ過ちを、わたしたちは夫婦十戒の第六戒でしては
ならないのです。よろしいですか夫婦が互いに姦淫を犯さない
ように努力することは当然のことですが、姦淫の罪を完全に犯
さない人間、この戒めを完全に守れる人間などこの世に一人も
存在していないのです。全ての人間が守る努力をしていながら
、同時に例外なく姦淫の罪を犯しているのです。
 それでも、『そんなことはない。私は、妻に対して真実に愛
を表し、浮気も不倫もしたことがない。妻以外の女性に対して
心を奪われることさえもない。』と言われる方がおられるかも
知れません。

 しかし、イエスさまは、そのような無意識のうちに偽善に陥
っている人に対して、こう言われました。
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞い
ています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも
情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したの
です。」(マタイ 5章27〜28節)

 神の律法には、『姦淫してはならない。』と書いてあるが、
神の律法は、行為としての姦淫さえしなければ、自分は神の律
法を守っていると考えてはいけない。神の律法は、そんな表面
的な行為だけを求めているのではない。むしろ、心の中まで完
全に守ることを要求しているのである。だから、「人間の男で
自分の妻以外の女性に対して、一度も情欲の目で見ることのな
かった男など一人もいる訳がないのです。」だから、全人類が
罪人なのです。誰一人、神の律法を戒めを完全に守れる人間な
どいないからである。

 更にイエスさまは、より解からせるために厳しく、こう言わ
れました。
「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。
』と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不
貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです
。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すの
です。」(マタイ 5章31〜32節)

 「離婚状を妻に出してやれば、妻と離婚にしてよい。」と、
モーセは律法で教えたかも知れないが、しかし、わたしイエス
はあなたがたに厳しく命じる。「離婚状を妻に出すことが結婚
の誓いを破って良い理由にはならない。また離婚を正当化する
理由にもならない。だから私は、妻が不貞(不倫)の罪を犯す
以外の、男の身勝手な理由で妻を離婚した男は全員、《姦淫を
犯してはならない。》という神の律法を破ったのだと知ってお
きなさい。また同様の理由で、離婚経験のある女性と再婚した
男もまた同じく姦淫の罪を犯したことになることをわきまえる
べきである。」と。
 
 つまり、「神の律法や戒めを完全に守れる人間は一人もいな
い。」とイエス様は断言されたのです。ですから、私たちは全
員、神の戒めを破っている罪人なのであり、他人の罪を責めれ
るような資格のある人は、この世にイエス様以外にはいないこ
とをするべきなのである。

本論? この戒めを与えられた神様の深い愛の心を探る。
 最後に、考えても恐ろしい事ですが、もし姦淫してしまった
らどうなるのでしょう。この恐ろしい答えを、聖書の中から考
えてみたいと思います。
 このような御言葉があります。
「遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちを
あさるからだ。」
「女と姦通する者は思慮にかけている。これを行なう者は自分
自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去
ることができない。嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復
讐するとき、彼を容赦しないからだ。彼はどんな償い物も受け
つけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。」
                        (箴言6
章26、32〜35節)
 
 この言葉の意味は、「他人の妻と姦淫を犯すことが、いかに
恐ろしい結果をもたらすかを考慮に入れることが出来る《知恵
ある人》なら絶対にそんな馬鹿なことはしないであろう。何故
なら、何がしかの金で買える遊女なら、金を支払うことで解決
できるが、自分の妻から裏切られた夫の場合はそうはいかない
。真実な自分の心が裏切られた事に逆上しているので、妻に対
して《赦せない!》という心で怒っているばかりでなく、自分
の妻に対してそのような恥ずべき誘惑をした男に対しては、男
としてのメンツや自尊心や誇りまでズタズタにされたという思
いがあるので、恐ろしいまでの嫉妬に狂い、彼の嫉妬心は、ど
のような謝罪の言葉や莫大な償い物をもってしても、癒すこと
も治めることも出来ないほどだからである。その彼の復讐の憤
りは、相手の生命を奪うまで和らぐことがないほど強烈なもの
だからである。」という意味である。

 旧約聖書を通して、この天地宇宙を造られた神様ご自身が多
くの民族の中から《夫が自分の妻》を一人だけ選ぶように「イ
スラエルの民を選び」、その夫であるご自分と《神聖な契約=
旧い約束》を固く結んでおきながら、その契約を破って自分を
裏切り、他の男性器のバアル神などの神々を拝み《偶像礼拝》
という「神に対する姦淫の罪を犯した」イスラエルの民に対し
て、自分は嫉妬心に狂い、何をしでかすか分からない恐ろしい
ほどまでに愛に狂う神であることを証詞されたことが、何度も
何度も何千年という長い歴史の中で証しされているのである。
それが旧約聖書である。その代表的な言葉の一つがこれである
。神の妬みの愛については、数え切れないほど多く書いてある


「彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらう
べきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、
彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々
、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ
。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをし
た神を忘れてしまった。」(申命記 32章16〜18節)

 神がいかに人間を愛しておられ、絶対に姦淫を犯すことを許
さないほど真実な愛で愛しておられ、裏切られた時には、妬み
の愛の故に、滅ぼし尽くそうとされるほど愛に狂われる一途な
愛の御方であるかが分かって頂いたところで、いよいよ姦淫に
対する神様の本心を聖書の中から見つけ出してみましょう。こ
のような言葉を見つけることが出来ます。



 神様は誰に対しても、ただ単に姦淫を犯すことを禁じておら
れるだけではありません。むしろ逆で、積極的に愛に生きるこ
と。互いに姦淫の思いを心に抱かなくて済むように、互いに神
から戴いた配偶者に対して、結婚後も夢中になることを命じて
いるのです。互いに愛する努力と愛される努力をすることを命
じている箇所が、次の聖句です。

「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸か
ら。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。
それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人の
ものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若
い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。
その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中にな
れ。わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、見知
らぬ女の胸を抱くのか。」(箴言 5:15節〜20節)

 「あなたの水ため」「あなたの井戸」「あなたの泉」… こ
れは、妻の性器を表している言葉です。
 「を自分だけのものにせよ。あなたの若い時の妻と喜び楽し
め。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあ
なたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。わが子よ。あな
たはどうして他国の女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くの
か。」
 この少々エロティックな、お薦めの言葉が何と神様の本心を
余すところなく表しておられる箇所なのです。「あなたは真意
な結婚の愛に生きなさい。結婚相手の愛とあたな専用の女性の
身体に夢中になりなさい。」というこの言葉こそ、何とこの天
地を造られた神様の本音なのです。「本当の神の御心は、汚れ
た愛に生きることはやめなさい。しかし、本当の愛、真実の愛
に生き、真実の愛によって生かされる素晴らしさを味わいなさ
い。」と熱く語っておられるのです。

 また、この第六の戒めは、 既婚者だけを対象にした戒めで
はありません。まだ結婚していない独身の君も、この守れない
戒めを守らなければならないのです。ですから、心を汚すよう
なマスターベーションに頼らずに、「私の弱さを知っておられ
るまことの神の子なるイエス様よ!どうぞ私に、あなたが永遠
の昔から用意しておいてくださった、私にふさわしい配偶者を
お与えください。と叫ぶべきなのです。私たちの神は私たちの
弱さに同情できないような御方ではないからです。必ず、あな
た専用の相手を見つけ出して下さるでしょう。

結論
 結論として、夫婦共に、相手を責めれる資格のあるような人
は一人もいないのですまた、「姦淫してはならない。」という
第六戒を守れる人も一人もいないのです。全人類が第六戒を守
れない罪人の集まりなのです。これが、この世の偽らない厳し
い現実なのですから、この現実を知っておられる神によって結
び合わされた夫婦らしく、「姦淫してはならない。」と相手に
要求を突き付ける前に、自らが相手に姦淫を犯さなくても済む
ように努力してあげなければならないのです。何故なら、相手
には、「姦淫してはならない。」と、強く要求したところで、
所詮はじめからその戒めを守るだけの力がない。」という事が
、この講義を通してハッキリと分かったからです。解かった以
上は、意味なく責めたり、要求したりするよりも、どうしたら
互いに弱さを持つ者として、互いを理解し合い、互いに最高の
ベストパートナーとなれるかを考えあい、率直に話し合うこと
が大事なのではないでしょうか。
 
「あなたがた夫婦は、姦淫してはならない。させてもならない
。お互いに罪を犯さなくて済むように、夫も妻も愛する努力と
愛される努力を常に怠ってはならない。」
                          (夫
婦十戒の第六戒)

 最後の最後として、この姦淫の思いは、恐ろしいほど魅力的
で、一見、真実な愛のようにも見える時もあるのですが、実は
愛ではなく、人生の車輪を焼いてしまいかねない罪なのです。
他のどんな罪よりも《心も体も汚してしまう》恐ろしい罪なの
です。悪魔の誘惑に負けることがありませんように。大事な人
生を無駄にすることがありませんようにイエス.キリストの御
名によって祈ります。アーメン!

受講者の皆様一人一人に、神様の祝福と守りがありますように

                   2007.2.7 PM10:00
                        安藤 修



追伸:天地宇宙を作られた神は私たちが思っているような禁欲的なお方ではないのです!

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