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聖書が教える結婚講座コミュの特別特集 お正月

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こんばんは!安藤修一です。
 夫婦十戒の第四回目を心待ちにし、期待して方々には本当に
申し訳ないのですが、突然、今日がお正月の7日であることを
思いだし、突然ではありますが、「お正月特集号を書くことに
させて致しました。」来週からは決してこのような途中下車し
ませんので、今回だけ我慢してお付き合いください。
 でも、今回これから書こうと思っていることは決して皆さん
をがっかりさせることはないと思いますし、「本当に必要な話
だった。」と言って頂けると信じていますので忍耐して読んで
みてください。

説教題 「真のお正月の迎え方」
聖 書  出エジプト記12章1節〜15節  
 
序論
 昨年末、世界中で新年を祝おうとする人々のカウントダウン
の映像がテレビから流れておりましたが、もし、どんなに光り
輝くページェントで新年をお祝いしたとしても、ただ古い年が
過ぎ去り、新しい次の年が来ただけだとすれば、いったい新年
の何が目出度いというのでしょう?
 そんな気持ちを込めて、有名な一休さんは、「門松は冥土の
旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」とお正月を歌
ったそうですが、本当にそう思いませんか?
 もし、ただ古い年が終わり、新しい年に年号が変わっただけ
なら、一休禅師ではありませんが、「一歩天国に近づいてしま
った。」というだけのことで、目出度い事のようにも思うが、
寿命が一年縮まっただけのことで、自分にとってはお正月が単
純に目出度い事とは思えない複雑な気持ちになる、と歌ったの
です。

 5千円札と「武士道」という著書で有名な新渡戸稲造がこん
なことを言っています。正確な言葉は忘れてしまいましたがこ
んな言葉でした。「昨年はあれが出来なかった。しかし、今年
はそれがやれるようになった。昨年までは、悪い癖が直らなか
った。しかし、今年はそれが改まった。というように、年を取
ると共に少しずつでも成長したり良い方に改まったというよう
な年の取り方でなく、意味のない年の取り方、越年の仕方であ
るなら、それは《単に馬齢を加えた。》に過ぎない。」と。

本論
 皆さん!どう思いますか?皆さんは、一休さんや新渡戸稲造
の言うような意味で、本当の正月を迎えていますか?本当にお
目出度い年の取り方をしておられますか?

 では、ここから《本来のお正月の迎え方》についてお話しを
させて頂きたいと思います。
 世界で一番早く暦が出来たのは何処だと思いますか?メソポ
タミヤ文明の栄えた地方と考えられています。つまり、一年と
いう暦に従った生活を始めたり、お正月を祝うという行事は、
中東やバビロンから出発し、ヨーロッパや中国に伝播し、そし
て、日本に伝わってきた。ということです。

 もっと簡単に言うと、「お正月のルーツは何処か?そのお正
月を定めた目的は何か?それらを、旧約聖書の中に見ることが
出来る。」と私は言いたいのです。

  では皆さん。ちょっと長いですが、聖書を持っている方は
是非、開いて出エジプト記12章1〜15節を読んでみましょう。
持っていない方のために、そこから私が重要だと思う所を大胆
に抜粋して抜き書きしてみます。

 「主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。 『
この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年
の最初の月(正月)とせよ。』…イスラエルの全会衆に告げて
言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭
を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。…その夜、
その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れない
パンと苦菜を添えて食べなければならない。…その頭も足も内
臓も火で焼かなければならない。…この日は、あなたがたにと
って記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとし
て祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければ
ならない。」

 読んでみてどう思われたでしょうか?何か分かったこと、感
じたことはありましたか?直観的の強い人なら、もう分かった
かも知れません。それは、神様が「本来のお正月とはこのよう
なものだ!」と、この中で教えているということです。そして
、その神様が教える《お正月の正しい迎え方》とは、

 「苦菜」という植物と羊の「頭、足、内臓」を食べなければ
正月は来なかった。という教えです。つまり、

 「苦菜を食べる行為。」=これは、《苦い思い出》というこ
とで昨年の嫌な事々や自分が犯した悪い事を反省し、悔い改め
懺悔して、すっきりした気持ちになることを意味しています。
 イスラエル人がこのお正月を祝った時は、エジプトでファラ
オの奴隷だったのです。そのファラオに奴隷として仕える《苦
い思い》が、今晩脱出する訳ですから、明日からは《苦い思い
出》に変わる訳です。それで苦い思い出として、教訓として生
涯忘れない為に苦菜を食べたのです。
 同様に私たちも現代の世俗のファラオである悪魔によって、
酒、タバコ、麻薬、それからパチンコ、賭博、汚れた性癖、い
じめ、陰口、裁き、非難、自殺、等の様々な悪癖の奴隷、とな
って辛く苦い日々を過ごしているのではないでしょうか?私た
ちも、この「自分をも他人をも愛せない!」という奴隷の日々
から脱出しなければならないのではないでしょうか?

 「傷のない羊の《頭》と《足》と《内臓》を焼いて食べる行
為」=これは、私たちの、《頭の中の過去の記憶が新しくなる
。》《ヤクザが足を洗うように、悪かった行ないが改まって良
い行いが出来るようになる。》《胸や腹につかえていた嫌な思
いや感情や罪責感に苛まされる思いが消え去って新しい心で一
年を始めることが出来る精神状態に癒される。》という意味な
のです。これが本当の正月なのです。

 つまり、去年の思い出を今年に引っ張ってきているようでは
、本当の意味で、その人には《新年を祝えるようなお正月はま
だ来ていない。》ということです。精神的、内面的な意味で、
去年と何にも変わっていない自分なら、その人はお正月を祝え
るような目出度い存在にはなっていない。ということなのです
。心に赦せない人への憎しみや腹の立つ感情や嫌な記憶がそっ
くり残っているようでは、《お正月を迎えたとは言えない。》
何にも目出度くない。ということなのです。
 それらの全てが、傷のない羊の状態、つまり、記憶、行ない
、思いが新品に生まれ変わって新しくなった時こそ、本物のお
正月なのだということです。

 どう思われたでしょうか?イスラエルの人々が《神から体験
させられた新年、お正月》というものは、私たちが普段、毎年
のように何気なく紅白歌合戦を半分ぐらい見て、眠ったら新し
い年が来ていた。いつの間にか、古い年が過ぎ去って新しい年
になっていた。平成という年号が一つ新しくなった。というよ
うに、決して黙っていても来るようなものでななかったという
ことです。

 ここまでのお話しは、完全に一般的な知識としてのお話しで
したが、この段落の17行だけは宗教としてのキリスト教の講話
です。
 つまり、本物の羊の《頭と足と内臓》を食べることによって
「新しい心の人にされる。」という救いの儀式は、旧約時代に
於ける救われる方法だったのです。
 現代は新約時代ですから、動物の羊ではなく、クリスマスの
日に《神が人となった》と言われる「神の小羊」であるイエス
.キリストを救い主と信じて仰ぐならば、傷のない神の小羊で
あるイエス様から、本当に《記憶と行為と思い》を新品にして
頂くことが出来るのです。
 また、旧約時代のように一時的にではなく、永遠的に新品の
心を与えられ、毎日がお正月のように目出度い存在に生まれ変
わり、生きたまま天国の民とされる。これがキリスト教だとい
うことです。本当に、そうなりたいと思ったらイエスさまを信
じてみてください。私はたった一日で別の人間に変えられた。
という体験をしています。牧師ですから、嘘なんか言うはずは
ありません。こうなって初めて『パッピー・ニュー・イヤー!
』と叫べるのではないでしょうか!(ここまでが宗教の話し)

 最後に、この講座を学んでいてくださるクリスチャンの方々
のために《神の民の正月の迎え方》について短くお話しして筆
を置くことにします。イエスさまを信じていない方も、参考に
してくだされば嬉しいです。

 神様は、モーセという預言者を用いてこのように語られたこ
とがありました。
 「なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとして
いる地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではない
からである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、
自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたが
たが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地
であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求めら
れる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、
絶えずその上に目を留めておられる地である。」
                      (申命記 11
章10節〜12節)

 この意味は、神様がクリスチャンにたちに与えようとしてい
る一年は、世の中の人たちのように、「水や肥料をやればやっ
ただけ、その努力に応じて報われる」という《因果応報の世界
》ではない。原因がなければ結果がない世界ではない。努力も
ある程度は必要だが、基本的にクリスチャンの一年は、努力に
よって生きる世界ではなく、神の恵によって生かされる世界で
ある。勝ち取る一年ではなく、神が与えようとしている一年を
受ける一年である。

 あたがたがは、何ごとも起こらないようなフラットな平穏無
事な生活を願うかも知れない。また、努力によって実った青々
とした農地を思い描くかも知れない。しかし、神であるわたし
が、あなたがたに与えようとしている一年は、《山と谷の地》
である。「絶頂」があったかと思うと「どん底」も味わわなけ
ればならない。そんな一年なのである。しかし、心配は要らな
い。年の初めから年の終わりまで、創造主であるわたしがしっ
かりと支配し、目を留めているからである。天の恵みで満ちた
世界である。聖霊によって導かれる世界である。失敗も成功も
ない世界であり、全てが有益な世界である。
 だから、神の民の正月の迎え方は、神を信じていない人たち
のような、展望で始まり、反省で終わるようなものではいけな
い。信頼で始まり、委ねるで終わるべきなのである。

 神は、時間というものに制限されないお方であり、束縛や縛
られるということがない。だから時間も一年も必要ない。しか
し、神は人間のために時間と暦を備えてくれた。
 罪に陥らないとき、人間は時間を支配することが出来ていた
ので、けじめをつけるのに時間は非常に良いものであった。時
間の世界に対して「よし」と神は言われた。
 ところが、罪を犯してから時間というものは、けじめがつけ
れなくなり、時間が人間を支配するようになった。人間を縛り
、追いまくられ、時間にこき使われ、ついには《時間にけじめ
をつけられてしまう死》というものが入り込んできた。いわば
時間の奴隷である。
 そんな私たちに、イエスキリストは「だから、あすのための
心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその
日その日に、十分あります。」(マタイ 6:34)と言われた。
 つまり、神の民は時間にけじめをつけれなくてはいけない。
と注意されたのである。主は私たちの弱さを知っておられ、時
間的けじめをつけれないのは神の存在を知らない異邦人であり
、神の民は時間を上手に使う者でなければいけない。
 時間は神の民に与えられた賜物であり、人間の役に立つよう
にと与えられた、いわば人間に使える奉仕者である。だから、
昨日を今日に、去年を今年に持ち込んではならない。

おまけ《ここからは雑学》
1 日本の新年の始まり
 日本の新年はなぜ1月1日なのだろうか?実は西暦が採用され
てヨーロッパの新年が使われている。昔はというと、初めて暦
が作られたのが推古天皇の604年、百済を通じて伝わった中国
の元嘉暦が採用されたのが始まり。それ以降江戸時代まで、中
国の暦をだいたいそのまま使っていたので、中国と同じ太陰太
陽暦立春で立春年初なのである。
 つまり日本ではずうっと、立春を含む月、あるいは立春の近
くの新月の日が年初だったのである。

2 【お正月という言葉】
 言葉自体は、中国から伝わったもので、正は「正す、改める
」という意味を持ち、「年が改まった最初の月」という意味が
あります。日本書記にも出てくる、日本古来の正月の呼び名は
「睦月」ですが、睦には仲良く親しみ合うという意味があり、
家族が、仲良く新年を迎える月であることを表しています。

3 【お正月の起源】
 農耕民族として生活していた日本人が、新しい年の「五穀豊
穣」と「子孫繁栄」を願って、家を守って下さる「年神様」を
お迎えするための農耕儀礼だったそうです。
 年神様とは、大年神(おおとしのかみ〉と言う、農耕に豊穣
をもたらす
神様です。
 他にも、「太年神」や「年神(歳神)」とも書かれ、「とし
」とは穀物、稲を意味するため、穀物の守護神だったのが、後
に「五穀豊穣」を祈る神となったと考えられてます。
 大年神は、お正月に家々に迎えてお祀りする紳様で、歳徳神
は(としとくじん)とも言われ、お正月様・恵方神〈えほうが
み)・年殿(としどん)などと呼んでいる地方もあり、田の神
と同一神であるという信仰の地方もも多くあります。

《おはらい》
 神道の考えでは、「人間は本来は善であり、清浄である。と
ころが、悪霊によって汚されるから病気や不幸が起こる。だか
ら神官から祝詞をあげていただき穢れが落とされ人は元の姿に
なり、明るく暮らせる。」と考える。

 除夜の鐘は、神道ではなく、お寺で鳴らしている鐘の音であ
るが、人間にまとわりつく百八つの煩悩を払うという除夜の鐘
を鳴らすのも、善である人間にそのような人間を駄目にする悪
い霊をお払いするというような意味合いを持ってならしている


 そのような中にあって、クリスチャンはお祓いで自分の問題
が解決するとは思っていない。何故なら、自分の本質が善では
なく悪であることを経験からも神の言葉から学んでいるからで
ある。善である自分の周りに悪がある事が問題なのではなく、
自分の中に善が住んでいないことが問題なのであり、自分自身
が悪である事が問題なのである。この存在的な悪はお祓いなど
で消えるものではないことを悟るべきである。



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