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・・・コミュの◎500人突破記念 その2・武者小路実篤

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その1で取り上げたレイ・ブラッドベリに続きまして、トピにぴくっと反応してくれて書き込み第一号でNo.8no坪ちゃんの依頼の武者小路実篤を取り上げてみましょう。

 さて、武者小路実篤といえば誰でも知ってる作家でたとえ読んだ事が無いといっても何らかの形で(例えば学校の教科書など)文章には触れていると思われますし、大学で専攻された方のいらっしゃるでしょうし、物凄く取り上げにくいのですが、ここでは軽くこんなものですといった背景と作品をとりあげましょう。

  ●ここでもお願いなんですが、見た方はなにかたとえ一言でもいいので書き込んで頂ける嬉しいのですが、例えば武者小路実篤に対しても思い出とか、どんな時に読んだとか、何でも結構です。そして、お薦めがあればお願いします。


●武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ)

1885年5月12日 - 1976年4月9日
東京都千代田区生まれの小説家。父は子爵・武者小路実世。仲間からは「武者」という愛称で呼ばれた。位階は従三位。文化勲章受章。授与された称号には名誉都民などがある。日本芸術院会員。

室町時代以来の公卿の家系である武者小路家に、子爵・武者小路実世の第8子として生まれた。2歳の時に父親が死去。子供時代は作文が苦手であった。

学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、1906年に東京帝国大学哲学科に入学。1907年、学習院の時代から同級生であった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年、回覧雑誌「望野」を創刊。1910年には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。これに因んで白樺派と呼ばれる。トルストイに傾倒した。また、白樺派の思想的な支柱であった。

自らも40歳頃から絵筆をとり、人々に親しまれている独特の画風で、多くの作品を描きました。
実篤はその生涯を通じて、文学はもとより、美術、演劇、思想と幅広い分野で活動し、語り尽くせぬ業績を残したのです。


理想的な調和社会(ユートピア)の実現を目指して、1918年に宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」http://www5a.biglobe.ne.jp/~atarasi/を建設したが、1938年にダム建設により村の大半が水没したため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。両村は現存する(村民になるには年齢は原則として40歳以下の年齢制限がある)。

1951年に文化勲章受章。

《作品》

●幸福者   新潮文庫   
清廉で欲がなく、贅沢をせず、一文もお金を持たず、集まってきた弟子たちに食を与えられながら、教えを説いていた師。1人の弟子が師との生活を回想する。

友情  新潮文庫  
脚本家の野島は、友人である新進作家の大宮のいとこの杉子を熱愛する。しかし杉子は野島をふり、大宮と結婚を決める。

●若き日の思い出  新潮文庫 
裕福な家庭の宮津と友人となった野島は、宮津の妹の正子を好きになる。正子が自分に好意を持ってくれていると野島は思っているが、宮津の家には同じ学校の友人である田坂や前島、学者を目指している正子の家庭教師といった恋のライバルがいて、嫉妬を覚える。

●愛と死  新潮文庫 
小説家の野々村は、友人の妹夏子と洋行の後に結婚することを誓うが、帰ってきたときに夏子は死んでいた。

●棘まで美し  新潮文庫 
絵を教えている主人公の画家の弟子には、紳士で金持ちで、画家としてすでに力量のある大野と、母子家庭で貧しく、気難しいが、天賦の才能がある竹谷がいた。遠い親戚の吉村貞子が一緒に絵を習うようになって、大野と竹谷は貞子を愛するようになる。3人の恋愛の行く末を主人公の画家の先生がはらはらしながら見守っていく。


●真理先生  新潮文庫  
真理先生のもとには、多くの男女の弟子たちが集まってくる。その中の一人、馬鹿一は画家をめざしているが、石の絵ばかりを書いている。僕や弟子たちは人間の絵を書くように、杉子をモデルとして馬鹿一に勧める・・・

●幸福な家族  新潮文庫 
ドイツ語の先生の佐田正之助は、野菜や果物の油絵に夢中。息子の正蔵の友人の川上は、正之助の絵に美点を見出す。娘の綾子は、父の絵のモデルに不幸な境遇にある千津子を推薦し、千津子は佐田家に通うようになる。正蔵は千津子を好きになり、綾子は川上を好きになって・・・


●お目出たき人  新潮文庫  
自分の近所に住んでいて、話はしたことはないが互いに顔と名前は知っている主人公と鶴。主人公は、鶴に片思いし、将来の妻になる人だと相手を理想化する。

☆実篤年譜

1885年(明治18年)
5月12日
東京市麹町区元園町1-38(現:東京都千代田区一番町19-4)に生まれる。父・子爵武者小路実世(さねよ)、母・秋子(なるこ)(勘解由小路(かでのこうじ)家出身)の8番目の末子。

1887年(明治20年)2歳
10月
父・実世死去、享年35歳。

1891年(明治24年)6歳
9月
学習院初等学科入学。朗読と数学が良く、体操、音楽、習字、図画、作文が苦手。

1895年(明治28年)10歳
この年より、三浦半島金田に移住した叔父・勘解由小路(かでのこうじ)資承(すけこと)のもとに、毎年夏訪れる。

1902年(明治35年)17歳
9月
中等学科6年に進む。志賀直哉と同級になり、親しくなる。

1903年(明治36年)18歳
9月
学習院高等学科に進む。この頃から、トルストイに強くひかれ、また聖書、仏典をしきりに読む。

1904年(明治37年)19歳
3月
短編「初恋」のお貞さんが帰郷、うちあけぬままの失恋が文学へ傾斜させる。

1906年(明治39年)21歳
7月
学習院高等学科を卒業、9月 東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修に入学。

1907年(明治40年)22歳
4月14日
志賀直哉・正親町公和(おおぎまちきんかず)・木下利玄(としはる)と文学研究会《十四日会》をつくり、毎月創作を批評しあう。また、美術への関心も深める。

1908年(明治41年)23歳
4月
処女作品集『荒野』を自費出版。

1910年(明治43年)25歳
4月
志賀直哉、有島武郎、有島生馬、、柳宗悦らと『白樺』を創刊。

1911年(明治44年)26歳
12月22日、白樺同人からロダンへ浮世絵30枚を送り、その御礼に贈られたブロンズ彫刻3点が届く。
岸田劉生が訪問、交友が始まる。

1913年(大正2年)28歳
2月
竹尾房子と結婚。

1914年(大正3年)29歳
5月
生家を出て、麹町区下二番町58に家を借りる。

1915年(大正4年)30歳
3月
戯曲「その妹」を『白樺』に発表。この数年、神奈川県鵠沼や東京で度々転居。

1916年(大正5年)31歳
12月
我孫子(東葛飾郡富勢村根戸字船戸1090)に転居。我孫子には志賀直哉・柳宗悦が住む。

1917年(大正6年)32歳
10月
『白樺』10月号で日本最初の西洋近代美術の美術館設立を提唱。

1918年(大正7年)33歳
5月〜7月
『白樺』と『大阪毎日新聞』などで新しき村の創設を提唱。7月 雑誌『新しき村』を創刊。
11月
宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村大字石河内(いしかわち)字城に「新しき村」を創設。

1919年(大正8年)34歳
この年、農作業、建築の手伝い、資材の運搬などの仕事を村の青年たちとともに分担した。
1月
小説「幸福者」を『白樺』に5回連載(〜6月)。
10月
小説「友情」を『大阪毎日新聞』に48回連載(〜12月)。

1921年(大正10年)36歳
3月
「白樺美術館第一回展覧会」を開催。セザンヌ「風景」、ゴッホ「向日葵」等が公開。
7月
自伝小説「或る男」を『改造』に19回連載(〜大正12年11月)。

1922年(大正11年)37歳
この年、房子と離婚。前年新しき村に入村した飯河(いごう)安子と結婚。

1923年(大正12年)38歳
9月1日
関東大震災。母は無事だったが生家が焼失。『白樺』は終刊となる。
12月
長女・新子誕生。この頃から、熱心に絵(鉛筆素描、墨画淡彩)描き始める。

1925年(大正14年)40歳
2月
次女・妙子誕生。
9月にドイツのレクラム文庫にならい日本最初の文庫本「村の本」を新しき村印刷所より刊行。 12月
新しき村を離村、志賀直哉が住む奈良に移る。以後、村外会員として村の活動を支えた。

1926年(大正15年)41歳
1月
戯曲「愛慾」を『改造』に発表。7月 「愛慾」が築地小劇場で上演される。

1927年(昭和2年)42歳
2月
東京府南葛飾郡小岩村(現葛飾区)に転居。4月 『大調和』を創刊(〜昭和3年10月)。
9月
“最初にかいた油絵”と記す「南瓜」を描く。以後、油絵もさかんに描くようになる。

1928年(昭和3年)43歳
11月
母・秋子(なるこ)死去。三女・辰子誕生。個人雑誌『獨立人』を創刊(〜昭和5年6月)。

1929年(昭和4年)44歳
2月
最初の個展を日本橋・丸善で開催。
12月
神田猿楽町に実篤個人経営の美術品販売と出版の店『日向堂』を開設。岸田劉生死去。

1930年(昭和5年)45歳
この前後の数年、雑誌からの執筆依頼がほとんどなく、みずから“失業時代”という。また、この時期、内外の偉人の評伝を多く執筆した。

1936年(昭和11年)51歳
4月27日
横浜から欧米旅行に出発。各地で美術館と画家を歴訪。12月12日帰国。

1938年(昭和13年)53歳
11月
『人生論』を岩波新書のために書き下ろしで岩波書店より出版。
12月
宮崎県営の水力発電所建設のため、新しき村の耕地の一部が水没することになり宮崎を訪問。

1939年(昭和14年)54歳
7月
小説「愛と死」を『日本評論』に発表。
9月
埼玉県入間郡毛呂山(もろやま)町葛貫(つづらぬき)に東の村(新しき村)を創設。

1940年(昭和15年)55歳
9月
三鷹市牟礼490に転居。

1945年(昭和20年)60歳
8月16日
終戦を疎開先の秋田県稲住温泉で一日遅れで知り、この日と翌日は原稿も画もかかなかった。9月、帰京。
10月
小説「愚者の夢」を脱稿。

1946年(昭和21年)61歳
7月
公職追放令G項該当者に指名され、貴族院議員、芸術院会員を辞任。

1948年(昭和23年)63歳
3月
新しき村を財団法人とし、実篤は理事長となる。
7月
志賀直哉、長与善郎、安倍能成らと共に『心』を創刊(〜昭和56年8月)。

1949年(昭和24年)64歳
1月
小説「真理先生」を『心』に22回連載(〜昭和25年12月)。
12月
「武者小路実篤個展」を日本橋・壷中居で開催。以後、昭和50年まで毎年開催。

1951年(昭和26年)66歳
8月
公職追放解除。
11月
文化勲章を受章。

1953年(昭和28年)68歳
この頃、三鷹の家には娘たちの三家族が同居、孫7人を含む総勢15人のにぎやかな生活であった。

1955年(昭和30年)70歳
12月
妻・安子と二人で、調布市入間町荻野468(現:若葉町1-23-20)の新居に移る。

1958年(昭和33年)73歳
11月
「新しき村40周年記念祭」を九段会館で開催。この年、新しき村は経済的自活を達成。

1962年(昭和37年)77歳
4月
「大調和展」の復活第一回展を上野・東京都美術館で開催。実篤は会長となり、以後、毎年出品。

1963年(昭和38年)78歳
4月
実篤原作のNHK連続テレビ小説「あかつき」が1年間、放映。

1965年(昭和40年)80歳
5月
東京都より名誉都民称号を贈られる。文壇画壇・出版界有志の発起による満80歳祝賀会が、上野精養軒で開催される。

80歳を機に、以後、書画への署名を常用漢字に改め、満年齢を書き添えることとする。

1967年(昭和42年)82歳
1月
小説「一人の男」を『新潮』に45回連載(〜昭和45年12月)。
3月
「私の美術遍歴」を『うえの』に79回連載(〜昭和50年3月)。

1968年(昭和43年)83歳
11月
新しき村50周年祭を文京公会堂で開催。自作の詩を朗読する。

1970年(昭和45年)85歳
1月
詩「平気で生きている」を、5月 詩「人間を愛する」など、この頃から、毎号『心』に詩を発表。

1971年(昭和46年)86歳
10月
志賀直哉死去。
11月
「或る老画家」50枚を『新潮』に発表、これが小説としての最後の作品。

1974年(昭和49年)89歳
12月
「蔬菜図」(油彩)を描く、最後の油絵となった。

1976年(昭和51)
2月
安子死去、享年75歳。
4月9日
死去、享年90歳。5月16日 新しき村大愛堂に遺骨を安置。
8月
実篤記念のため、自宅の土地・家屋・美術品・愛蔵品を公的なものとする旨の、安子生前の遺言に従い、調布市・東京都・三鷹市・新しき村にそれぞれ寄贈された。


●武者小路実篤記念館

昭和60年10月に開館。実篤が晩年の20年間を過ごした邸宅は、 「実篤公園」として昭和53年から一般公開されてきましたが、 記念館は実篤没後、遺族から寄贈された資料を中心に展示、公開するとともに、 関係資料の収集、保存、研究などを行うことを目的として、 公園の隣接地に設置されたものです。  文学、芸術、思想など日本の歴史に大きな足跡を残した武者小路実篤の業績の数々を、 わかりやすく紹介しています。 また、現在、所蔵している資料を多くの愛好者に公開するため、 月ごとにテーマを決めて展示替えを行うほか、 春・秋には特別展、講演会などを開催しています。 なお、観覧室は自由に利用できます。

●実篤公園

実篤が、昭和30年から死去する昭和51年まで住んだ屋敷跡を調布市が記念公園として開園したものです。 公園は約 1,500坪で、園内は木立の中に湧水と大小の池があり、 武蔵野の面影を色濃く残しています。 四季折々に様々な花が楽しめ、小規模ながら秋の紅葉は特にすばらしく、散策には絶好です。

所在地 : 調布市若葉町 1−23
電 話 : 03−3326−0648
開 園 : 9時〜16時(閉門は17時/月曜休園)
入園料 : 大人200円 小・中学生100円




コメント(11)

高校時代に従兄弟がくれた何冊かを読みました。
最近は見かけなくなりましたが、彼の一言と野菜の書かれた色紙をよくみかけました。
僕は『友情』は、割り切りが良すぎる気がしてあまり好きになれなかった覚えがありますね。
僕だったらもっと悩みそうな気がします。
僕はむしろ実篤の詩が好きです。
原田宗典が「生きる気概に満ち溢れている」と評していましたが、
実際読んでいると力の湧いてくる力強い詩ばかりです。
新潮文庫『武者小路実篤詩集』などが出ています。

ちなみに彼の詩は後年、詩人・荒川洋治により、
「彼の詩は自分が詩だと思っているから詩である、という気の毒なものだが、
実は我々のやっていることもそれと変わらないのではないか」
と、当時の詩壇を痛烈に批判した際に引用されていました。
どの詩かは忘れましたが。
というか関係あるようで無いですね、この話。
すみません。
ついでに以前自分の日記で挙げた、実篤の詩を。

進め、進め        武者小路実篤

自分達は後悔なんかしていられない、
したいことが多すぎる
進め、進め。

麦が出来そこなった!
それもいいだろう
あとの為になる
進め、進め。

家が焼けた!
それもいいだろう
新しい家がたつ
進め、進め。

人がぬけました
仕方がない、
更にいい人が入るだろう、
進め、進め。

何をしたらいいのかわからない!
しなければならないことを
片っぱしからしろ、忠実に。
進め、進め!

こんな歩き方でもいいのか。
いいのだ。
一歩でも一寸でも、信じる道を
進め、進め。

神がよしと見た道は
まちがいのない道だ
進め、進め。

兄弟姉妹の
幸福を祈って
進め、進め。

つい足をすべらした、
かまわない、
過ちを再びするな
進め、進め。

後悔なんかしていられない、
したいことが多すぎる、
進め、進め。
『愛と死』がとても好きだったので、続いて『友情』を読んだのですが、こちらはあまり好きになれなかった記憶が……。
『幸福な家族』も読んだはずなのですが……う〜ん、詳細を忘れています。
色々再読したくなってきました。

読む前はかなり堅苦しい文章を想像していましたが、読むととても温かみもある物語ですよね。
家族や恋人の微笑ましいやりとりも素敵です。
>真悠さん
>まわさん
詩いいですね。
武者小路、読み直してみます。
記憶にあるのは「友情」と「愛と死」でしょうか?
読んだ動機が思い出せないです。
でも、今回拝見しても知らないことがたくさんありますね。
楽しいです。

あと、真悠さんに紹介して頂いた詩は素敵ですね。
元気がでます。
高校の寮時代、「友情」を同級生と貸しあって、いろいろ話をしたことを思い出し、今再読中です。
本を読み返すって、次々新たな発見があっていいですねぇ
私も とりあえず本棚の奥にあった「友情」を出してきました。
確か中学生の頃 兄の書棚をさぐり 何かないかとたまたま手にとった本。
今は思い出せないですが 読み進めながら 昔 感じたことに触れたいと思います。

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