ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

・・・コミュの11/25【依頼】『歌う白骨』11/25【解決】『歌う白骨』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
お忙しいところ恐れ入りますが、ずっと再読したい本があります。

1970年前後に読んだ、コーネル・ウールリッチの『歌う白骨』
児童書で、確か推理小説orSFの全集に入っていたと思います。
アイリッシュ名義でも探してみましたが、見あたりませんでした。

内容は若い女性が死んだのに、ある方法で生かし続けられ、結局は死んでしまうというものでした。題名は違うかも知れませんが、作者はウールリッチで間違いないと思います。よろしくお願いいたします。

コメント(5)

『歌う白骨』ポプラ社から出ていたそうですが、今は絶版らしく、復刊ドットコムでも復刊希望が出されています。

すみません。詳細は分かりませんが、タイトルが同じなので、多分こちらだと思います
reichiiさん

間違いなくウイリアム・アイリッシュが
ウールリッチのペンネームで出した「Jane Brown’s Body」
の名前で出ております、子供向けの翻訳で歌う白骨と訳されてます。


『歌う白骨』
「ジェーン・ブラウンの体」 Jane Brown's Body 1938
 訳矢野徹
ポプラ社 ジュニア世界ミステリー8 1968

偏執な科学者が、人里離れた研究所で死者を蘇らした。
そこに飛行機事故を起こしたセスナのパイロットが助けを
求めたことから始まるラブサスペンス。
同時収録は「死者からの花束」


そして
砂糖とダイヤモンド―コーネル・ウールリッチ傑作短篇集〈1〉 白亜書房 2002-09-30出版


「踊りつづける死」という題で訳されてるのも同じ話のはずです。

●コーネル・ウールリッチ

1903年にニューヨークで生まれ、少年時代はメキシコですごした。1921年にコロンビア大学入学し、ジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学はやめてしまう。

1926年には、最初の小説Cover Chargeを出版した。当初は普通小説の作家であった。

1931年には、Cover Chargeを映画化したプロデューサーの娘と結婚するが、この結婚は3週間しか続かなかった。この後は、住居を持たず、母と共にホテルを点々とする暮らしを続けた。

1934年から推理小説の短編をパルプマガジン向けに書き始め、しだいにその数を増やしていった。1940年の『黒衣の花嫁』から長編も書くようになり、サスペンス小説作家として地位を高めていった。

1940年代後半から母が重病となり、出版される小説は、しだいに減っていった。1957年には母が死に、元々厭人的であった性格が、さらにひどくなった。その後、糖尿病やアルコール中毒に苦しめられ、糖尿病により壊疽した足などは、医者に見せたときには手遅れで、切断するしかない状態であった。1968年に死亡するが、遺族はいなく、葬儀への参列者は5人だけだった。

ニューヨークで生まれ、ニューヨークで死んだので、生粋のニューヨーカーと言っていいでしょう。少年時代に父親に連れられて10数年間メキシコと中米で過ごしていますし、ハリウッドでも少しの間生活していますが、生涯の大半をニューヨークで過ごしています。作品もニューヨークを舞台にしたものが多く、ニューヨークの様々な表情を我々に見せてくれています。

 1907年にニューヨークを離れた時には両親と一緒だったウールリッチですが、母親は離婚して先に一人で帰ってしまうのです。離婚の時の話し合いで子供の時期は父親と暮らすという約束だったようです。1918年に父親と別れて、ニューヨークに戻った彼が住んだのは西113丁目239番地の、母親の父、つまり彼には祖父の家でした。この時、ウールリッチは15才。ニューヨークを離れたのは4才の時ですから、ニューヨークの記憶は殆どなかったでしょうから、ここから彼のニューヨーク生活が始まったと言っていいでしょう。両親の離婚、そして、父親との荒んだ生活で傷を負った少年だったと思います。

 ウールリッチを語る時、誰もが母親のクレア・アタリー・ターラーのことに言及しますが父親については触れません。これは彼が父親については殆ど語っていないからなのです。我々は去年日本語版が出たネヴィンズの伝記で、ようやく父親のジェネロ・ハプリー・ウールリッチについて知ることが出来たわけです。それによると、先祖はイギリス人でカナダに移住し、さらにメキシコに移ったようです。伝記の「訳者あとがき」にはネヴィンズは伝記を書いたあとも調査を続けていて、こういう事実も明らかになったと書いています。

 『ジェネロは1901年ないしは1902年、ニューヨーク・シテイの地下鉄建設工事に従事していたあいだにクレアと知り合って結婚したらしい。ジェネロ はデイーブ・ブルーの瞳をもつ、とてもハンサムな男だった。しかし、おそろしく寡黙で、誰も笑った顔を見たことがなかった。故郷を離れたニューヨークでの生活に満足していなかったらしく、クレアと結婚したのちなかば強引にメキシコに戻り、そのはてに結婚生活が破綻したようである。』

 ニューヨークで生まれた育ったお嬢さん育ちのクレアが、「楽天的で冒険心旺盛、ほれっぽく、女性にもてる」(伝記の中のネヴィンズの文章)、地下鉄工事の労働者に恋をして結婚したということのようです。二人がニューヨークで生活していたら結婚生活も長続きしたでしょうが、ダム工事や炭坑での生活は彼女には耐えられなかったのでしょう。一人息子を置いて、実家に帰ったのです。

 ウールリッチは父親のことを殆ど書いていません。自伝には父親の名前さえ記していませんが、それだけ傷は深かったと言えるでしょう。自伝には他にハリウッドでの生活、特に結婚生活のことにも触れていません。この二つが彼の生涯の傷だったからです。いつも言うことですが、自伝は何を書いてあるかではなく、何を書かなかったかを読む必要があります。結局、彼は両親の結婚の傷を背負わされて一生を送ったのではないでしょうか。

 ニューヨークに戻った彼は祖父の屋敷で、祖父、叔母、母親、そして使用人達と暮らしていました。大学はその家のすぐ近くのコロンビア大学に入りました。地図で見ると、歩いても五分とかからない距離です。そして、1926年22才の時に書いた「カヴァー・チャージ」が売れて、作家デビューします。1920年にフィッツジェラルドが「楽園のこちら側」でデビューして売れっ子になったのが23才だったので、ウールリッチの方が若かったのです。

  『ウールリッチは小説が刊行されるとすぐに大学を中退し、冴えない学生の身分に別れを告げ、都会の歓楽と陽気な音楽の夢、そして、第二のF・スコット・フィッツジェラルドと呼ばれる名声を追い求めていく。』

 これはネヴィンズの「コーネル・ウールリッチの生涯」の第1章の最後の文章です。ボニ&リヴライト社が大学生の持ち込み原稿を出版したのは、フィッツジェラルドの作品が売れて、その出版社スクリブナーズが儲かっていたからなのです。ですから、第2のフィッツジェラルドを求めていたのは、実は出版社の方なのです。ボニ&リヴライト社についてはリリアン・ヘルマンが若い時に働いていたり、ヴァン・ダインの「ベンスン殺人事件」の出版を断った会社だと「ヴァン・ダイン編6」で書きました。

つまり、出版社は作品の出来よりも売れ行きが第2のフィッツジェラルドであって欲しかったわけです。勿論、ウールリッチの方も、それを意識して書いています。現在は手に入りにくい作品なので、私は読んでいませんが、ネヴィンズは「敬愛する作家の模倣の域を出ていない」と伝記の中で評しています。さらにこう書いています。

  『しかし、フィッツジェラルドの影が随所にちらつくこの小説にも、ウールリッチ自身の人生が投影された箇所、あるいは後年のサスペンス小説の主題を予見させる箇所がささやかながら顔をのぞかせている。』

 この後、ネヴィンズはこの作品とそのあとの作品の内容を詳しく紹介しています。今日ではまず読むことの出来ない初期の、これらの作品の内容を知ることが出来るだけでも、この伝記は価値があると思います。 この時代つまり、「第2のフィッツジェラルドを目指した」頃の作品は長編5、短編14ありますが、翻訳があって今でも簡単に読めるのは長編の1929年作の「タイムズ・スクエア」と、短編の1930年作の「ソーダ・ファウンテン」だけです。

 追われる者の不安や孤独を描くことを得意としており、その作風はサスペンス派に分類することができる。哀愁味が溢れる美しい文体から、“サスペンスの詩人”と呼ばれている。

ストーリー的には、期限内に事件を解決しなければ死んでしまうというタイム・リミットを設定したものや、自分は無実なのに誰も自分の言うことを信じてくれないという状況を描いたものが多い。

論理的な推理を中心に据えた本格推理とは一線を画する。

長編の代表作である1942年の『幻の女』は、江戸川乱歩の、新しい探偵小説であり、すぐに訳すべきである、という評価によって、日本で圧倒的な知名度を持っている。

短編の代表作である1942年の『裏窓』はアルフレッド・ヒッチコック監督により映画化された。

映画を本格的に学ぼうとする者が必ず読む本の筆頭にサドゥールの「世界映画全史」があります。これは映画の発明から実用化し、ドキュメンタリーからフィクションへの過程の歴史を知ることが出来る本です。その中のアメリカ編の実用化の段階に入った時期の項に一人の男の名前・ジェームズ・スチュアート・ブラックトンがあります。

 『ブラックトンは大新聞イヴニング・ワールドの風刺画家として世に出た人物
  だった。』(「世界映画全史」より)

 『若いブラックトンは動く写真に熱狂したので、映画を仕事とするようになり、
  1896年11月に友人の一人アルバート・E・スミスと協力して、エディスン
  が売り出した一台を225ドルで買った。だが、この若者たちは市場に出
  回っている映画に満足できず、早速映写機を撮影用に改造して、ヴァイ
  タグラフと名付けてみた。』(同上)

 この文章の中の「エディスン」は発明王のあのエジソンのことです。彼には「映画の父」という肩書きもあるのです。ブラックトンはヴァイタグラフ社を設立し、大儲けします。

  『1908年、ヴァイタグラフ社は二大ライヴァル会社のどちらよりも景気が
   よかった。すでにヨーロッパに幾つか支店を開設していた。』
                (同上)

 後年、ヴァイタグラフ社は後続のワーナー・ブラザーズに買収され姿を消しますが、映画の歴史には先駆者としてその名前を残しています。

 ブラックトンの二度目の妻はヴァイタグラフ社の女優だった女性で、その娘がグロリアで、ウールリッチが結婚した唯一の女性です。ウールリッチは1929年から1931年にかけてハリウッドに来ていて、映画界の大物ブラックトンの娘と知り合ったわけです。彼が何故ハリウッドにいたかと言えば、2作目の長編「リッツの子供たち」が映画化されることになり、招かれて行ったわけです。二人のデイトの様子をネヴィンズは当時の記事から見つけて来て、紹介しています。アメリカは上流階級の人々のゴシップが好きな国民ですので、この記事も映画界の大物の娘のゴシップなのでしょう。

 『ふたりが郊外をドライヴする際、車はウールリッチの高級なロードスターだが、
  運転席でハンドルを握るのはグロリアだった。ウールリッチはその隣に少し
  離れて静かに座っている。海辺でも、太平洋のうねる波頭に飛び込み、銀
  の筋をつくって沖合まで泳いでいくのはグロリアで、そのあいだウールリッチ
  は砂浜に残り、派手なビーチ・パラソルの陰でぼんやりと待っている。』

 さらに、ナイトクラブでも彼女はパートナーを替えて踊り続けているのに、彼はじっと座って、そんな彼女を見ていたと書いています。二人の関係がよく分かる文章です。このような記事になるのも、彼女がハリウッドの大物の娘だからなのです。彼はブラックトンの娘のデイトの相手の若手作家に過ぎないのです。この記事での疑問は、車が彼のものだという件です。彼はニューヨークからハリウッドに行く時に列車で行ったと伝記には明記してあります。ウールリッチは生涯運転が出来なくて、一度も運転したことがなかった筈ですから、ハリウッドに行ってから、車を買ったとは思えないのです。このロードスターはブラックトン家のものだったのではないでしょうか。

 『ウールリッチとグロリアは1930年12月6日の土曜日、ロサンゼルスの南東
  約40マイルの街サンタ・アナで、市判事の立ち会いのもと結婚式をあげた。』

 が、この結婚は3ヶ月しか続かなかったし、ウールリッチは彼女の父親ブラックトンとは一度しか会ってないとネヴィンズは書いています。

 ウールリッチがハリウッドに行った目的の映画「リッツの子供たち」(この映画は日本でも「歓楽地帯」というタイトルで上映されています。新宿・武蔵野館で1929年9月12日から9月18日まで、スタンバーグの「サンダーボルト」との二本立てで公開されています)ですが、この映画にはクレジットにウールリッチの名前はないとネヴィンズは伝えています。この映画だけでなく、3年間のハリウッド滞在中に彼の名前は一度もスクリーン・クレジットに登場していないというのです。

 この事実に着目したネヴィンズはこれまでの定説を覆し、物議を醸し出すようなことを発言をしています。彼のもう一つの名前、ウィリアム・アイリッシュは1940年の「幻の女」で初めて使ったとされていました。ところが、ネヴィンズはアイリッシュという名前はこのハリウッド滞在時にすでに存在していたのではないかと問題提起しているのです。

 ウールリッチの作品を映画化したのはファースト・ナショナルという会社ですが、この当時、この会社にはベンジャミン・クリスチャンという北欧出身の監督がいて、1928年の「妖怪屋敷」、1929年の「悪魔の足跡」、「ダイヤモンド事件」の3作品にダイアログ・ライターとして、ウィリアム・アイリッシュという名前の人物がいると指摘しているのです。無声映画ですので、台詞は字幕で表示するしかないわけですが、それを作るのがダイアログ・ライターです。3年間ハリウッドにいて、一度もウールリッチという名前が映画の上に残っていないのは、アイリッシュという名前を使っていたからではないかという推理なのです。

 『ウールリッチがファースト・ナショナルで働いていたのと同時期に、同じスタジオの監督がポー風メロドラマを撮るにあたって、15年後ウールリッチの最も有名なペンネームとなる名を持つ男と関わっていたのは偶然だろうか。』

 でも、この文章をよく読んで下さい。ネヴィンズはウールリッチがウィリアム・アイリッシュと名乗っていたとは断定していないのです。「偶然だろうか」と可能性を指摘して結んでいるだけです。問題はこれからです。これを読んだ人間の誰かが、この時、ウィリアム・アイリッシュという名前を使っていたのはウールリッチだったに違いないと断定するでしょう。そして、それが活字になった時には新しい定説に変わって行くでしょう。その流れを見つめて行くのはミステリより面白いでしょう。



[主な作品]
[編集] 長編小説
1926年 Cover Charge
1927年 Children of the Ritz
1929年 Times Square
1930年 A Young Man's Heart
1931年 The Time of Her Life
1932年 マンハッタン・ラブソング (Manhattan Love Song)
ここより前は普通小説と思われる。

1940年 黒衣の花嫁 (The Bride Wore Black)
1941年 黒いカーテン (The Black Curtain)
1942年 黒いアリバイ (The Black Alibi)
1942年 幻の女 (Phantom Lady)(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1943年 黒い天使 (The Black Angel)
1944年 恐怖の冥路 (The Black Path of Fear)
1944年 暁の死線 (Deadline at Dawn)(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1945年 夜は千の目をもつ (Night Has a Thousand Eyes)(ジョージ・ホプリー名義)
1947年 暗闇へのワルツ (Waltz into Darkness)(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1948年 死者との結婚 (I Married a Dead Man)(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1948年 喪服のランデヴー (Rendezvous in Black)
1950年 野性の花嫁 (Savage Bride)
1950年 恐怖 (Fright)(ジョージ・ホプリー名義)
1951年 死刑執行人のセレナーデ (Strangler's Serenade)(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1958年 聖アンセルム923号室 (Hotel Room)
1959年 死はわが踊り手 (Death is My Dancing Partner)
1960年 運命の宝石 (The Doom Stone)
1987年 夜の闇の中へ (Into the Night)(遺稿をローレンス・ブロックが補綴したもの)

[短編集]
1956年 悪夢 (Nightmare)
1981年 今夜の私は危険よ (The Fantastic Stories of Cornel Woolrich)

[短編集](日本で編まれたもの)
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブック
1955年 妄執の影(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1956年 睡眠口座
1961年 ぎろちん
1963年 自殺室
1965年 わたしが死んだ夜
1971年 もう探偵はごめん
創元推理文庫(アイリッシュ短編集1〜6)
1972年 晩餐後の物語(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1972年 死の第三ラウンド(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1973年 裏窓(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1974年 シルエット(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1975年 わたしが死んだ夜(ウィリアム・アイリッシュ名義)
1977年 ニューヨーク・ブルース(ウィリアム・アイリッシュ名義)
集英社文庫
1997年 ホテル探偵ストライカー
晶文社
1976年 さらばニューヨーク(ウィリアム・アイリッシュ名義)
新樹社
1999年 見えない死
白亜書房(コーネル・ウールリッチ傑作短篇集1〜5、別巻)
2002年 砂糖とダイヤモンド
2002年 踊り子探偵
2003年 シンデレラとギャング
2003年 マネキンさん今晩は
2003年 耳飾り
2003年 非常階段

《映画化》
アイリッシュの作品は数多く映画化されている。以下に主なものを挙げる。

裏窓(アルフレッド・ヒッチコック監督)
黒衣の花嫁(フランソワ・トリュフォー監督)
暗くなるまでこの恋を(フランソワ・トリュフォー監督)
黒い天使(ロイ・ウィリアム・ニール監督)
幻の女(ロバート・シオドマック監督)
ポワゾン(マイケル・クリストファー監督)

写真左 コーネル・ウールリッチの生涯
写真中 コーネル・ウールリッチ傑作短篇集〈1〉
写真右 1938年のパルプマガジンである
    All-American Fiction の表紙
    (『歌う白骨』はこの雑誌に載っていたものの翻訳です。)
    
>「づか』様
早速に教えていただきありがとうございます。
ポプラ社か偕成社だと思っていたので、まさにその本だと思います。

私も後で復刊希望出してみます。

> LD 様
ご教示ありがとうございます。
読んだ本は絶版とのことなので、「踊りつづける死」を読みます。また、詳細にウールリッチに関して教えていただき感激です。プリントアウトして、大事にとっておきます。

伝記もとても面白そうなので、購入できるようなら是非読んでみたいと思います。
これからもどちらのコミュでもよろしくお願いいたします。
reichiiさんが喜んでくれたのはこのくだりだったんですね。
このときから結構時間がたっていたんですね。
懐かしいとともに最近はあまり情報を載せても反応が少ないのでだんだんくどくは書かなくなってるのに気がついた。
横入りごめんぐださいm(__)m。復刊ドットコムで「歌う白骨」の希望を出している者です。

>砂糖とダイヤモンド―コーネル・ウールリッチ傑作短篇集〈1〉 白亜書房 2002-09-30出版に「踊りつづける死」

新宿区立図書館にあったのでワクワクしながら借りてみました。残念ながら「歌う白骨」とは別物でした…。でも、この本に収録されている短編も、大変愉しめたので、教えていただけて良かったです(^_^)ノ。
同好の皆様にお知らせまで。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

・・・ 更新情報

・・・のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング