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・・・コミュの◎700人参加記念の作家紹介その11ベケットとジョイス

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双月 さんのリクエストは
ベケットとジョイス という事でした。

演劇好きな方ならばかなり詳しく知っていると思いますし、
色んな本に書かれていますのでさわりだけです。


『ゴドーを待ちながら』で知られたベケット

『ゴドーを待ちながら』は二幕劇。木が一本しかない舞台で、二人の浮浪者がゴドーを待ち続けている。だが二人はゴドーに会ったことはない。待ちながら、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにもう二人別の人物が通りかかり、さらにとりとめのない会話と遊戯が続く。一日の終わり、少年がやってきて、ゴドーが今日は来ないと告げる。二人はもう一日待とう、明日ゴドーがこなければ首を吊ろう、という。同じことがまた翌日繰り返され、芝居はそこで終わる。

20言語以上に翻訳された。同作品は不条理劇の傑作と目されるようになり、現在もなお、世界各地で公演され続けている。

○サミュエル・ベケット(Samuel Beckett)
1906年4月13日 - 1989年12月22日)は、アイルランド出身のフランスの劇作家、小説家、詩人。不条理演劇を代表する作家の一人。20世紀フランスを代表する劇作家としても知られている。1969年にはノーベル文学賞を受賞している。

1906年の4月13日、アイルランドのフォックスロックに住む裕福な中流家庭の次男として誕生。イエス・キリストが磔刑を受けたとされる日だったため、これを忌避し戸籍上の誕生日は3月13日。

1923年から1927年にかけて、ダブリンのトリニティカレッジで、英語、フランス語、イタリア語などを学ぶ。その後1928年から2年ほどの間、パリの高等師範学校で教師の職を得て過ごす。ベケットはパリでジェイムズ・ジョイスと知り合い、深い影響を受けた。ベケットはジョイスの書く断片の口述筆記や複写なども手伝ったが、それらはジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)の中に含まれている。

1930年、トリニティカレッジの3年間の講師職を得て、ベケットはアイルランドに戻った。しかし2年も経たないうちに辞職し、著述業をしつつヨーロッパを転々とする。そして1937年、パリに定住した。

1938年1月、通りを歩いている最中に、見知らぬ売春斡旋者の男に突然刺されるという事件が発生した。ナイフは心臓をかすめたが、ベケットは自力で病院に駆け込んだ。意識を取り戻した時には、ジェームス・ジョイスが主治医と共におり、介抱の仕方を習っている最中だったという。のち、加害者は裁判でベケットに謝罪し、なぜそのようなことをしたのかわからないと語った。

入院中、訪問客の一人であったスザンヌ・デシェヴォー・ドュメニルと深い仲になり、交際を始めた。後年、スザンヌはベケットの仕事を助け、時にはジャーナリズムや批判者から守る役割もした。1961年に二人は結婚する。

1939年、第二次世界大戦が勃発。1940年にはナチス・ドイツがフランスに侵攻し、パリを占領した。

大戦中、ベケットはフランスのレジスタンスグループに加入。ナチスに対する抵抗運動に参加する。しかしゲシュタポの捜査が身辺に迫り、友人が逮捕されたことを受けて小説家ナタリー・サロートの自宅の屋根裏に長期間かくまわれ、同じくゲシュタポから隠れていたサロートの父親と同居生活を過ごした。

その後パリを脱出。田園地帯を数ヶ月放浪の後、ルーション地方の農村に2年半もの間潜伏した。その期間、ベケットは小説『ワット』(1953年)を書いた。

戦後はパリに戻り、執筆活動を再開。50年代に入ると三部作の小説『モロイ』(1951年)、『マロウンは死ぬ』(1951年)、『名付けえぬもの』(1953年)を発表した。

1952年には、現代演劇に多大な影響を及ぼすことになる戯曲『ゴドーを待ちながら』を発表。同戯曲は翌年、ロジェ・ブランの演出によって、パリの小さな前衛演劇の劇場であるテアトル・ド・バビロン(Thétre de Babylone)で初演された。

1959年、ベケットは母校のトリニティ・カレッジより名誉博士号を授与された。1961年、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと共にフォルメントール賞を受賞。そして1969年10月、ノーベル文学賞を受賞する。文学や戯曲の分野で、新しい表現方法を切り開いたことがその理由だった。

1989年12月22日に死去。彼の妻スザンヌがこの世を去った5ヶ月後のことだった。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬された。墓石は磨き上げた花崗岩の板で、表面には「Samuel Beckett 1906-1989」という文字と、彼に先立って世を去った妻スザンヌについての同様の記述がシンプルに刻まれている。墓石のそばには1本の木がぽつんと立っている。


以下にベケットの作品を挙げる。ベケットは主にフランス語か英語で執筆をし、後に自身で英語やフランス語への翻訳を行っている。年度の後に仏とある場合はフランス語版の、英とある場合は英語版の発表・出版年を意味する。邦題は、主に白水社の『ベケット戯曲全集』などの出版物を参考にしている。

*戯曲
『エウレテリア(自由)』 - Eleuth ria(1947年 出版は1995年)
『ゴドーを待ちながら』 - En attendant Godot(1952年 仏)、Waiting for Godot(1955年 英)
『勝負の終わり』 - Fin de partie(1957年 仏)、Endgame(1958年 英)
『クラップの最後のテープ』 - Krapp's Last Tape(1958年)
『しあわせな日々』 - Happy Days(1961年 英)、Oh les beaux jours(1963年 仏)

*小説
『並には勝る女たちの夢』 - Dream of Fair to Middling Women(1932年)、処女小説
『マーフィー』 - Murphy(1938年)
『ワット』 - Watt(1943年執筆、1953年出版)
三部作
『モロイ』 - Molloy(1951年)
『マロウンは死ぬ』 - Malone Meurt(1951年 仏)、Malone Dies(1956年 英)
『名付けえぬもの』 - L’Innomable(1953年 仏)、The Unnamable(英)


********  *********
○ジェイムズ・スタニスロース・アロイジアス・ジョイス
(James Augustine Aloysius Joyce 1882年2月2日 – 1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。

ジェイムズ・ジョイスは1882年にダブリンの南のラスガーという富裕な地域で没落してゆく中流のカトリック家庭に、10人兄弟の長男として生まれた(他にも2人兄弟がいたが腸チフスで亡くなっている)。

ジェイムズ・ジョイス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%82%B9

に詳しくその生涯が載っております。

○ジョイス記念館
ジョイス記念館マーテロー・タワーはダブリンの南の郊外、サンディコーヴに建つ。これはその昔、ナポレオンの侵略に備えて湾岸警備のために英国が各地に建造した要塞の一つであり、これをその後地元の富豪が購入し、改装した。若き日のジョイスは友人(塔の持ち主オリバー・セント=ジョン=ゴガティ)を訪ねてこの塔に滞在したことがあり、その時の経験は『ユリシーズ』の第一章でスティーヴン・ディーダラスがバック・マリガンと口論するシーンの元ネタとなる

*そして700人記念で取り上げた作家の全てがこれで終わりです。かなり適当でしたが書き込んでくださった方の大体を乗せることが出来ました。
次は1000人になったときにまた何か考えます。
(多分そこまではいかないでしょうが・・・・)

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