Boys, be ambitious.
Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,
not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.
「青年」というと、明治から大正の時代になっても、
昭和の時代になってもこの言葉は有名である。
いくつかの言葉の一番普及しておるのが、
札幌の農学校創設当時の名士であったクラーク先生である。
ところがほとんどの人が、クラークさんが残した言葉というと、
例の「Boys, be ambitious」という、これしか知らない。
これは非常にいい言葉であるが、
ambitionというとだいたい野心と訳されておるものだから、
人によっては「Boys, be ambitious」……野心的であれ、
というのは少し弊害がありませんか、語弊がありませんか、
とよく訝(いぶか)る。
それに対して、いや、ambitiousというのは何でもいい、
野心・覇気満々としておるのがいいんだと、
若い時からしょぼしょぼしているなんて何ができるかと、
共鳴する者もある。
しかし思慮深い者は、どうもこれは青年を誤りやすいと評する。
これは彼が始終いうた、その言葉の全文をあきらかにすれば一切解決する。
ところがすべては忘れられてしまって、その冒頭の一句だけが残っておる。
そこで、そこに彼が始終力説した言葉を出しておきました。
それは「Boys, be ambitious」、ただそれだけじゃないんだ。
「Be ambisious not for money」、金銭に対するアンビシャスじゃない。
あるいはまた「selfish aggrandizement」、利己的な……何というか、
grandというのは大きいという意味だから、自分を大きくみせようとする、
虚栄だな。利己的な人とでも訳するか。てらい、奢りといったようなもの、
そういうもののためにアンビシャスになるというんじゃない。
「not for that evanescent thing」、虚しきものごと、
「which men call fame」、世の人々の名誉と称する、
その実虚しきことのためではない。
それではどういうアンビシャスかというと、
「Be ambitious for the attainment」、あらゆることの到達、達成、
「that a man ought to be」、
人間というものはかくあらねばならんという、あらゆること。
いわば人となり、人となる道徳、人となる道というものを達成する、
達成しようとする熱望、熱情、決意。そういうアンビシャスである。
これで初めてわかるね。
もっと一言(いちごん)にしていうならば、人の道、人たる道というものを
達成せんとする大望を持てと、こういうことなんです。
これで誰にでもわかる。誰も首肯する。