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究極の「生きる意味と目的」の答コミュの意識と本質、そして実在

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 はじめに、極東・中東・近東にわたる広大なアジア文化圏に古来展開された広範な東洋哲学の
中から「意識と本質」に焦点を当てて考察した、井筒俊彦著『意識と本質ー精神的東洋を索めてー』
の要点を、以下のコメントNo.1〜No.4に翻案して掲載してみます。

 なおこのトピは、カキコ自由です。活発な討論をお待ちしています。

コメント(4)

 我々は日常経験的なこの世界に存在する種々様々な事物を五官を通して認識し、夫々を
分節して夫々に名前をつけている(夫々の事物は一つ一つが名を持っている。花は花、山は山、
水は水、という風に)。
 つまり人間は、内外界に「黒々として薄気味悪い巨大な塊り」でしかない「存在」に、
いろいろの符牒をつけて事物を作り出し、個々別々のものとして規定している(分節する)。
老子的な言い方をすれば、無(即ち「無名」)がいろいろの名前を得て有(即ち「有名」)に
転成するのである。「名無し、天地の初め。名有り、万物の母」である。
 そして名のあるところには必ず何らかの形で一つの「本質」を持つ、より正確に言えば、
きまった一つの「本質」的実体を持っているかのように見える、ということである。
 ところで思惟対象あるいは認識対象の「本質」をきわめるということが西洋哲学伝統の
主流の一部となって現在に至っているが、東洋哲学に於いてはこの本質探求の道が人間意識
の階層的構造(簡単には表層意識と深層意識)と関連させて、本質的実体の存在を「無」と
する系統と「有」とする系統に分かれた。

1.まず大乗仏教から。
 ご存知のように大乗仏教は因縁生起説を採り、本質を認めない本質否定である。
 日常世界に姿を見せるすべての事物は固定した実体なく、ただ妄念に随える虚構に過ぎ
ないという本質虚妄説である。つまりすべての語は本来、仮に立てられてあだなる名前に
過ぎず、本当は何もないところに何かがあるようにわれわれの意識が妄想して出したもの、
我々の目の曇りゆえに虚空に現れた幻影の如きものに過ぎないという。
 一切のものを本来無自性と信じ、そう見えるように意識を変成させる為に修行をするの
である。

2.禅では更に一歩を進めて、存在の究極的真相を体認するために坐禅という修道、精神
鍛錬の道を編み出し完成させた。
 坐禅で観想状態が深まると、意識の深層が次第に活発に働き出し、そしてそれと同時に
凝結していた表層意識もだんだんに溶け出し、相互に浸透し合い、遂に最後には全く万物
が一つに帰してしまう「一者」の次元が体認されるのである。
 あるがままの存在の塊りを、言語の分節機能を停止させ、そのまま丸ごとじかに対象把握
する、言語脱落、本質脱落の世界となる。
 「山は山である」→「山は山ではない」
 「水、水を見る」の境位となる。
 経験的世界のあらゆる存在物が本来、無「本質」なのだと思い定められるように修行する
ことが、禅者の向上道への第一歩なのである。

3.老荘の反「本質」主義もこの系統に属す。
 しかしながら他方、東洋哲学の伝統の中にはこれらと全く正反対の「本質」実在性を
全面的に肯定する強力な思想潮流があると筒井は言います。
 つまり本質を、存在する事物の実在性の中核として認める「本質」肯定の立場です。
 日本の例で見るとたとえば、

1.本居宣長の「物のあはれ」
 個物としての具体的存在者、つまり個的実在性の中核に身を置き、事物の概念的把握に
対立した即物的思考法をとる。

2.芭蕉
 個物の個的実在把握を「物に入りて」「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」と
門弟に教えた芭蕉は、普遍的本質を個物の個的実在性として直観すべきことを説いた。

 東洋哲学の他系統としては、

1.宗学(中国宋代の儒者達の理学)
 存在界の事物には必ずそれぞれに「本質」が潜んでいるという揺るがしがたい確信を持ち、
格物窮理を唱え「静坐」の観法で深層意識で事物の真相を見る。

2.普遍的本質を濃厚な象徴性を帯びた元型、アーキタイプとして捉える系統。

3.孔子の「正名論」。 普遍的本質を理知的に認知する系統。

 こうして、意識という主観に軸足を置き検証方法を持たない、両極端を含む東洋哲学を
井筒の好著で見る限りでは、本質実体の実在性を「無」と捉えようが、「有」と把握しよう
が、どうでもいいんだよということになりそうです。所詮は、「いわしの頭も信心から」で、
口角泡を飛ばして議論することではない。要は本人が、他人に迷惑をかけない限り、
元気が出るような思い込みでいいという解釈になりそうです。
 何故こうなるのでしょうか?

 次に、「想像の現象学」を研究したガストン・バシュラールの『空間の詩学』(1957)を
読んでみましょう。次の文章が目に入ります。

・詩的夢想においては魂は緊張を解き、静かにしかも活発に目覚めている。
・夢想家が「曲線は暖かい」と書くことができるのは詩的事実である。
・「角は冷たく曲線は暖かい」と言ってはいけないか。
  (そういえば、「シクラメンの香り」という歌の文句があったっけ)
・人間的価値を確証するものは経験と思想だけではない。夢想には人間の深部を指示する
 価値がある。夢想には自己に対する価値附与作用という特権さえもある。
・想像力はたえず空想し、新しいイメージで自己を豊かにする。

「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」(西行)という和歌も
あります。
 ジャン・ジャック・ルソーにも、こんな言葉があるようです。
「現実の世界には限界があるが、イマジネーションの世界は無限である。」
 想像、空想、夢想、叙情、メルヘンなどは人の心を動かす大きな要素のようです。死後
の世界での修業を夢想した稲盛和夫や大学教官の肩書きをフルに活用して「ウソでも構わ
ない」と公言してはばからないペテン師の飯田史彦達を思い出します。
 しかしながら、人類のこれまでの長い知的探究の努力の結果集積された膨大な知的財産
を目の前にした21世紀の今日、それらを無視してありもせぬことの思い込みだけでいいの
でしょうか、心から納得できるのでしょうか、という疑問が当然ながら湧いてきます。
 認識対象の事物の本質的実体把握・理解の方法には、意識(主観)の操作による方法の他
に、対象そのものを調べる方法があります。「見る」から「知る」への転換です。
 アリストテレスの「すべての人間は生まれつき知ることを欲する」が代表する古代ギリシャ
の精神が、イスラーム科学を経て西欧で花開いた自然科学のことです。
 実験、観察、観測を武器にした分析的方法を駆使し、徹底した実証性・検証性・再現性
を重視し、永遠不変の絶対的、普遍的、因果律的真理を追求した結果の客観的・合理的
知識体系です(したがって、個人的主観の入る余地なく、「それでも地球は回っている」
事実のことです)。
 その体系は、自然を構成する究極の実体である素粒子の極小の世界から、極大の宇宙ま
での体系的理解にすばらしい成果をあげてきました。累積的に増加した知見により人類の
自然理解は格段に深まり、その応用は人類の豊かな生活と幸福に大きく貢献しています。
何しろ月まで人間を運び込みましたからね。(人間の悪い利用で弊害も随伴していますが)。

 対する東洋哲学の意識変性方法がもたらした成果はどうでしょうか。
 心身の癒し、回復には効用があるようですが、外界に働きかけることをしない思考だけ
では、自然についての具体的知見は何一つ得られず、利用できる技術の収得もなく、生活
状態は何の変化もなく昔のまま。
 たとえ悩みから開放されることがあっても、その結果はゴロゴロしているだけの優良
健康児が増えるだけで、庶民の働きにタカルだけの生活は依然として変わらず。

 俗っぽく大まかに意訳した『木を見る西洋人、森を見る東洋人』(ニスベット著、ダイヤ
モンド社刊)では、「東洋と西洋の考え方は異なっているだけで優劣はない」としています
が、とんでもないこと。歴史の判定は明白です。月とすっぽん、雲泥の差です。
 その結果、現実の日常生活の場である現代社会を規定するのは、科学的知見と科学技術
になっています。国民の教育もその線に沿って行われています。現に読売新聞(05/2/12)に、
「知の世紀といわれる21世紀を生き抜くには」という見出しが躍っていました。
 日常生活に要請される思考方法に背馳した考え方では、日常生活が満足に送れないばか
りか心底からスッキリした問題解決ができないのではないでしょうか。現代社会に立ち向
かい生き抜くためには、科学的知見に立ち確かな事実に基盤を置く問題解決の道を模索す
べきでしょう。
 その観点から言えば、中国の指導者達がほとんど(全部?)理系出身なのはうなずけます。
それに引き替えて日本では全部が逆に文系ばかりです。そして国民の側でも、「科学技術
に関心を持つ国民の割合」調査結果によると、アメリカ約58%の半分にも満たない約28%に
過ぎず、調査した国の中では13位の惨状でした。(続く)
 こういう風潮を現すかのように、最近のグローバルスタンダード導入による競争激化や
雇用の不安定などに疲れた人達が、科学を一種の宗教呼ばわりをして無視し、つじつまの
合わない理屈をつけて、以下のような検証不能の妄想の「見えない世界」へ逃避し、自己
満足に陥る傾向が顕著になってきています。

・依然として神仏の存在を信じる(これだけ神仏の不在を証明する災難が多発しているのに)
・精神世界、スピリチュアル、退行催眠、オカルト・・・(何を言っても許される?)。
・トランスパーソナル(「人生に起こることはすべて意味がある」と言うが犯罪被害者達にとって
 その死にどんな意味があるというのか?死者の無念を思うとき腹が立つ)
・死後の世界(姿かたちがなく思考ができないのに、どうやって親を選んで生まれてくるの?
 そして又餓死、幼児虐待、育児放棄などをどう納得する?)
・ヘミシンク(個人の脳内現象にすぎないのに大騒ぎしている)

 21世紀を元気に生き抜くには、好むと好まざるにかかわらず科学的思考と科学的技術の理解
は必須です。折角縁あって21世紀に生を受けたのですから、人類の知的財産を活用した、
21世紀にふさわしく時代に耐えられる「人生の意味・目的」の探究に努めたいものです。
 自分で言うのもなんですが、この解明と広報こそ我が使命と感ずる今日この頃です。それ
故、現在の日本の残念な潮流に逆らって孤軍奮闘しながら、「同学の士よ、この指止まれ」
と呼びかけている次第です。
 宇宙科学、分子生物学、脳科学、進化論、バイオメトリー・・・。
そして無いものは無いと耐える勇気。(終)

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