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〜小説投稿コミュ〜コミュのバラの屋敷

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 二十歳になる前日、彼は言った。
 ――もう二度と、ここに来てはいけないよ。
 彼の言い分によると、私は年を取り過ぎたらしい。本当ならばもう少し早く言うべきことだったのだという。
 翌日、彼の家は跡形もなく無くなっていた。


▽▲

 走っていた。ガチャガチャと、赤いランドセルの中で教科書と筆箱が大騒ぎを起こしていた。
 手の中には赤いバラの花。茎はなく、頭をもぎ取るように花だけを引き千切ってある。
 手のひらには無数の小さな傷。花を摘んだ時に、棘に引っ掻かれたのだ。
 だけど、痛みを気にしている余裕はない。一刻も早く逃げなければならなかった。
 それはバラの屋敷。魔女が住んでいる。――と、梨花は思っている。
 古い造りで、まるで小屋のように小さく、二階がない。いわゆる平屋で、黒ずんだ木の壁にはぎっしりと蔦がはっている。
 小さな窓は一つだけ、やはり蔦で覆われていて、曇りガラスから覗ける家の中は不気味に暗い。
 家に対して庭は広い。特に前庭には綺麗なバラが無秩序に咲き乱れている。
 手入れをしているとは思えない。実際、梨花はその姿を見たことがなかった。
 眠り姫のお城のみたいに、バラは小さな家を覆い隠している。
 家と庭を囲うように柵があって、黒く錆びた鉄のそれにも蔦が巻き付いている。
 その花は柵からわずかはみ出すように咲いていた。
 柵の中は魔女の結界がはってある。だけど、柵からはみ出たその花には魔女の力は及んでいない。
 そうと気付いた梨花は誘惑されるようにその花に手を伸ばした。
 ブツン。引き千切った時、花が上げた悲鳴に梨花は身を竦めた。魔女が気付いてしまう。
 小さな窓を見やった。人影が過ぎった気がして、梨花は慌てて駆けだした。
 風。梨花の肩を押すような向かい風。魔女が梨花を引き戻そうと魔法を使っているのだとしか思えなかった。
 必死で逃げて、自分の家まで逃げ切ると、梨花は大急ぎで冷凍庫の扉を開いた。
 バラの花を中に投げ込むと、音を立てて扉を閉める。息が切れていた。
 恐ろしい魔女の顔が目の前に見えた気がして、ゾッとする。
 魔女がバラを盗まれたことを忘れるまで、隠していようと思ったのだ。
 凍らせてしまえば、バラも魔女を呼ぶことはできないだろう。
 だけど梨花は、綺麗なバラを見ることのできない矛盾に気が付いて重く息を吐いた。
 綺麗だから欲しいと思ったのに、冷凍庫で凍らせていてはそれを眺めることができない。
 それに魔女は執念深い。けして泥棒を忘れたりしないだろう。梨花を捕らえるまで追い続け、手酷い仕返しを考えることに楽しさを見出しているに違いなかった。
 許して貰うにはどうしたらいいだろうか。逃げられないと悟って梨花は冷蔵庫の中からバラを取り出した。
 魔女も元は人間なのだ。心から謝れば許してくれるかもしれない。梨花はひんやりと冷えた花を両手で包むようにして、魔女の家に引き戻った。
 門は梨花の胸くらいの高さ。鉄柵に紛れるようにあって、探すのに時間を有した。
 押し開くと気味の悪い音が響き、巻き付いていた蔦がブツブツと切れた。
 ――きっと魔女はこの門からは出入りしないのだ。
 梨花はそっと庭に足を踏み入れた。
 カサリ、と足下で草が笑う。見下ろすと、伸びきった草花はあらゆる方角を向いていた。
 スカートを引かれて振り向けば、バラの刺が引っかかっていた。
 進路を塞ぐように生えた植木を押し退け、梨花は玄関へと進んだ。
「すみません」
 インターフォンが見あたらず、扉を拳で叩いた。最初は遠慮がちに恐る恐る。何度か叩いても返事がないので、最後には思い切り力を込めていた。
 ギィ、と扉が啼いて開く。魔女がついに姿を現した。
 背の高い青年。年齢は分からない。初めは老人かと思った。真っ白い髪をしていた。
 目は細く、横に切れていて、目尻に皺がないことから彼がまだ若いのだと分かる。
 スッと通った鼻筋。薄い唇。絵本の中の魔女とはまるで違う容姿に、梨花は瞳を大きくした。
「何か?」
 細い声。聞き逃してしまうところだった。
「バラの花を……」
 梨花は手のひらを広げて、青年に花を見せた。彼は眉を寄せる。困惑した空気が伝わってきて、梨花は俯いた。
 ふっ、と笑いが漏れる。驚いて見上げると、柔らかい笑みと目が合った。
「それは君にあげるよ。――さあ、中に入って。せっかく来たのだからお茶を飲んでいくといいよ」
 なぜか断れなかった。


▽▲
 
 バラの屋敷。――そう梨花が呼ぶ程その家は大きくはない。
 だが、魔女が棲んでいると梨花が思い込んだくらいには、その家は不思議だった。
 家の中に入ると、だだ広い部屋が広がっている。
 天井まである大きな窓から差し込む光は、電気など必要ないほどに明るい。
 部屋のあちらこちらに絵画が立て掛けられており、それらが未完成であることは側に転がっている絵筆が物語っている。
 中央にはベッドほどの大きさの白い台。梨花と同じ年くらいの子どもが服も着ずに座っていて、ギョッとする。
 だが、すぐにその子が生きていないことに気付く。片足が無かった。作りかけの人形だったのだ。
 梨花が部屋の様子に驚いている間に、青年は奥の部屋からティーセットを運んできた。
 そちらの部屋と手前の部屋の仕切りは白いカーテンのみで、どうやらそちらにはキッチンがあるようだ。
 部屋はもう一つある。白いカーテンの隣に焦げ茶色の木の扉がひっそりとあるのが見えた。
 外観からは想像できない広さである。やはり魔女なのだ、と梨花は思った。
 ――いや、魔法使いだ。
 青年の出現によって恐ろしい魔女の姿はすっかり払拭されてしまったが、魔法の存在は否定しきれずにいた。
 どう考えても、この部屋の広さはおかしい。窓だって、外から見た時はこんなに大きくはなかった。
 テーブルがないので、彼はティーセットを白い台の上に乗せた。
 それまでそこを占領していた人形を抱き上げて、壁際で息を潜めていた揺り椅子に座らせた。
「そこに座って」
 指し示されたのは台の上。ティーセットの横だ。彼は梨花がそこに座ったのを確認すると、カップに紅茶を注いだ。
 ティーセットを挟んで並ぶように座る。
 カップを手渡され、両手で包むように受け取ると、柔らかく伝わる暖かさを楽しんだ。
 一口飲む。甘い香りが口の中に広がった。
「バラが好きなの?」
「綺麗なものが好きなの」
「僕もだよ」
「それなら、もっと手入れをしたら?」
「手入れ?」
「お庭のことよ」
 無秩序に咲いている前庭のバラのことを言うと、彼は眉を寄せた。
「あれはあれでいいんだよ」
 自分の意見を彼に押し付けるつもりがなかったので、梨花は口を閉ざした。
 ――彼の庭だ。彼がいいのなら、いいのだろう。
 紅茶を啜る。甘さが舌に染みた。
「君はバラ以外に何を綺麗だと感じるの?」
 難しい質問だと、梨花は首を傾げた。そうね、と言って、部屋を見渡した。
 大きな窓。そこから見える景色は、やはり荒れた庭。雑草としか言えない草花が自分のスペースを争うように生えている。
 広いだけの飾り気のない部屋だ。物が少ない。だけど、それは梨花にとって好ましかった。
「この部屋好きよ。窓から差し込む光が綺麗。物がゴチャゴチャしてなくていいわね。――だけど、筆はちゃんと片付けた方がいいわよ」
 絵画の前に転がっている絵筆を指した。
「絵、見てもいい?」
 彼が頷いたのを確認して、梨花は台から降りた。壁に立て掛けてある絵画に歩み寄り、しゃがむようにして見た。
 子どもの絵。梨花と同じ年くらいの女の子が絵の中で生きていた。
 別の絵では別の子が。だけど、全員女の子で、まるでそこにいるかのように描かれていた。
「綺麗ね。――でも、どの子もみんな笑っていないのね」
「笑ってくれなかったからね」
「モデルがいるの?」
「いるよ」
「笑ってって、頼めばよかったのに」
「頼んだけど、聞いてくれなかったんだ。僕の声が聞こえないらしくて」
「なぜ聞こえないの?」
 そう尋ねてから、そうかと梨花は思う。彼の澄んだ声は、気を付けていなければ聞き逃してしまいそうになるくらいに細い。
 音量が小さいというわけではなく、存在感が薄いのだ。耳が声として認識してくれず、空気の音として扱ってしまうくらいの声なのだ。
「私なら、あなたの声、聞こえるのにね」
 残念そうに言うと、彼は淡く微笑んだ。
「それなら君がモデルになってくれる?」
「いいわよ」
 即答した。何となく予想していたことだった。
 

▽▲

「そろそろ時間だよ」
 時計がないのにどうして分かるのだろうと、梨花はよく思う。大きな窓からは変わらず白く明るい光が注ぎ込んでいる。
 梨花は白い台から降りた。壁際に放ったランドセルを手に持つと、またね、と言って玄関に向かった。
 玄関と言っても、欧米の家のように靴のまま部屋の中を歩き回る家なので、下駄箱なんてものはない。灰色のマットが床に敷いてあるだけ。
 扉を引き開くと、いつも梨花は目を大きくする。外はとっぷりと暮れていた。
 部屋の中を振り返る。窓から注がれている白い光。不思議に思いながらも、扉を閉めた。
 夜道を駆けるようにして梨花は家に帰った。
 彼と出会ってから数ヶ月。毎日彼の家に通っている。
 彼は梨花を白い台の上に座らせると、薄茶色の木のイーゼルを台の前に持って来て、白いキャンバスをイーゼルに立て掛けた。
 キャンバスの上を木炭が滑る。黒い細い線が幾重にも描かれた。
 油絵の具の匂いが部屋中に蔓延するようになったのは、それからしばらく経ってから。
 薄い青色が画面に広がっていく。それから、黄色。赤。
 一枚目の絵が完成したのは、描き始めてから半年後のことだった。
 絵の中で楽しげに笑う自分の姿を見て、梨花は満足そうに彼に振り返った。彼は感慨深そうな表情をしていた。
「どうしたの?」
「絵の中の君が笑っているから……」
「気に入らない?」
「そうではなくて、君がモデルなら、完璧な人形が作れるかも知れないと思ったんだ」
「完璧な人形?」
 首を傾げると、彼は揺り椅子を指差した。
 片足のない人形。今にも泣きそうな顔でそこに座っていた。
「いいわよ。またモデルになってあげても」
「本当に?――だけど、人形を作るには絵を描くよりも時間がかかるんだ」
「構わないわ」
 彼のこの家に通うことが楽しくなっていた。この部屋も居心地が良い。
 むしろ、ここに居られる理由ができたことに嬉しさを覚えた。
 バラの蔦に守られた家。ここは異空間だ。外の世界から隔離された空間。
 数日前、梨花を不安にさせる事件が起きた。クラスメイトの女の子がいなくなってしまったのだ。
 遊びに出掛けたきり、家に帰ってこなかったらしい。
 道ばたに置き去りにされた赤いランドセル。誘拐されたのだという話も出たが、犯人からのそれらしき要求はない。
 まるで煙のように消えてしまった女の子。梨花も他のクラスメイトたちも皆、恐怖した。
 だけど、ここは安全。ここは外の世界とは無関係な世界だから。
 梨花は彼の家に行くと、まず壁際にランドセルを置き、上着を脱ぐ。下着姿になると、白い台の上に腰を降ろした。
 彼が運んできた紅茶とクッキーを口に入れながら、彼の作業を見守る。
 彼は白い大きな紙を床に広げ、梨花をスケッチし始めた。時折、梨花の腕や脚を取り、メジャーで長さを測る。そうして、ブツブツと口の中で何かを呟きながら鉛筆を紙の上で滑らせた。
 スケッチを終えると、次は白い粘土を運んで来、梨花の見ている前でこね出した。
 紙粘土だろうかと訊ねると、石粉粘土だという答えが返ってきた。違いが分からなかったので、ふ〜ん、と軽く鼻を鳴らせた。
 頭ができて、胴体ができて、脚ができた時、梨花は首を傾げた。作り始めてから一年が過ぎていた。
「本当に時間がかかるのね」
「君は動くからね。よく話すし、よく食べる」
「じっとしているつもりでいるんだけど?」
「君以外のモデルはもっとずっと静かだよ」
「少しも動かない?」
「少しもね」
 梨花は毎日ここに来ている。いったいいつの間に彼は梨花以外のモデルと会っているのだろう?
 ――梨花が学校に行っている間に?
 だけど、この部屋には梨花以外の誰かを描いた絵なんて置いていないし、人形だって、梨花をモデルにして作っている物と揺り椅子を占領している物だけだ。
 腑に落ちない表情を浮かべていると、彼は薄く笑った。


▽▲
 
「君。――もしかして、腕、伸びた?」
 できあがった腕と梨花の腕を見比べて、彼は言った。
「腕だけが伸びたわけではないわ。背も伸びたの」
 ほら、と足を真っ直ぐに伸ばせてみせると、彼は眉間に皺を寄せた。
「顔付きも変わったみたいだ」
「そうかしら?」
 ため息。
「最近、あの赤い鞄を持ってこないね」
「ランドセルのこと?」
「それにいつも同じ服を着ている」
「言わなかったかしら? 小学校は卒業したの。これは中学校の制服よ」
 もう一度、ため息。
「作り直さないと」
 彼は短すぎる腕を放ると、大きな白い紙を持ってきて、床に広げた。
「最初から?」
「そう、最初から。僕は君を作りたいんだ」
 梨花は言葉なく頷いた。彼の思うままにさせてやろうと思った。
 翌日、梨花は近所の小学生がいなくなったという話を学校の教室で聞いた。
 以前の事件と同じように、赤いランドセルだけを置いて、女の子が消えてしまったのだという。
 ――怖い。
 外の世界はなんて恐ろしいことが起きるのだろう。梨花はバラに守られた家に急いだ。
 窓から注がれた白い光。外観からは予想できない広い部屋。
 そこはバラの屋敷。魔法に満ちている。――と、梨花は安心していた。
 その日、何気なく見やった白いカーテンの脇で、梨花の目は静止した。キッチンとの仕切りに使っているカーテンの脇に扉がある。
 この家に通い始めてから数年が経つが、その奥の部屋に入ったことは未だに一度もなかった。
 その扉が薄く開いている。わずかな隙間は暗い。濃い闇の中に何かを見出すことはできなかった。
「――あなたは知っているかしら? また小学生の女の子が消えちゃったの」
 更に半年の月日が流れた。梨花は試すように彼に尋ねた。
 彼は小さく首を振る。
「さあね。興味がないよ、そんなこと」
「そう?」
 カーテンの脇の扉に目を向ける。薄く開いている扉は、以前それに気付いた時よりも、もう少し大きく開いているように思う。
「あの部屋には何があるの?」
「君はようやくあの部屋について聞いたね。――あの部屋にはね、僕が閉じ込めておきたいと思うものを閉じ込めてあるんだよ」
「閉じ込めておきたい? 閉じ込めなければいけないようなもの?」
「逃げてしまうからね」
「生き物なの?」
 低めた声で訊ねると、彼は目を逸らして何も答えなかった。
 それからしばらくして再び同様の事件が起きた。そしてその日も扉は薄く開いていた。
 以前よりもほんの少し大きく開いている扉。梨花は恐る恐る歩み寄って、その隙間からそっと中を覗き込んだ。
 暗闇。黒い絵の具を溶かしたかのように、部屋の中は真っ暗だった。
 だが、やがて闇に眼が慣れると、何かがそこにいるのが分かる。
 人。――いや、子どもだ。一人、二人、三人……。何十人もの子どもが折り重なるようにその部屋の中に詰め込まれていた。
「これは何?」
 青ざめて訊ねると、彼は薄く笑った。
「よく見てごらんよ」
 すうっと扉を開く。部屋の中に光が差し込み、その子どもたちが人形であることが分かった。
キラリと輝いて見えたのは、確かに無機的な反射で、それはガラスの瞳。
 梨花は両腕を腰に当てた。
「こんな風に詰め込むなんて、この人形たちが可哀想だわ」
 無造作に、まるでいらない物のように詰め込まれていた人形たち。ある人形は片腕がなく、ある人形は顔がなかった。胴から下がないものや、逆に脚しかないものもある。
「――だから、壊れてしまうのよ」
 頬を膨らませて言うと、彼は首を横に振った。
「違うよ。壊れたわけではないよ。元から、ないんだ」
「ない?」
「未完成だから」
 梨花は怪訝な顔をする。
「どうして完成させないの?」
「途中で、違うと気が付くんだ」
「何が違うの?」
「僕が作りたいのは完璧な人形だ。作っている途中でその人形が完璧になり得ないことに気が付いてしまうんだよ」
 グッと胸が締め付けられた。それではやはりこの人形たちは彼にとっていらない物なのだ。
「以前、あなたが作っていた私の人形のパーツもこの部屋の中にある?」
 梨花が成長する度に、彼は梨花の手足を測り直し、人形の手足を新たに作り直していた。
「――まるで、この部屋は人形の墓場ね」
 最後に一瞥して梨花は部屋の扉を閉めた。ちらりと視界の端に、小学校の時にクラスメイトだった女の子によく似た人形が見えたような気がした。
 

▽▲

 梨花が指先でクッキーを摘み上げた時、彼はようやく気が付いて、眉を寄せた。
「君、いつもと違う服を着ているね」
「中学校は卒業したの。これは高校の制服なのよ」
「体付きが変わったね。――丸みが出てきた」
「でもね、胸はちっとも大きくならないのよ」
 同級生たちの女らしさを口に出すと、彼は顔をあからさまに顰めた。
「そんな風にならなくともいいよ。胸なんか大きくなくていいし、化粧なんかしなくていい」
「そんなことを言っても、胸はともかく、お化粧はしなければならない時が来るわ」
「――ああ、そうだね。君は成長するからね」
 ついと顔を背けると、それっきり彼は無口になってしまった。
 その日、また一人、小学生の女の子が消えた。
「最近、あの人形を見かけないんだけど?」
 ずっと揺り椅子を占領していた片足の人形が見あたらない。その代わり、別の人形が揺り椅子に腰を降ろしていた。
「あの人形はあの部屋だよ」
 指し示されたのは例の部屋。梨花はちらりと目を向けて、気を滅入らせた。
 代わりに座っている人形は、髪をお下げにした可愛らしい女の子で、片足がなかった。
「この人形も片足がないの?」
「ないからそこに座っているんだよ」
「どういう意味?」
 梨花は首を傾げた。彼は微笑む。
「足がなければ逃げられないだろう?」
「足があっても人形は逃げないわ。――それに、あなた。いったいいつの間にこの人形を作ったの? 私の人形はちっとも完成しないのに」
 彼が梨花をモデルにしている人形以外の人形を制作している姿を見たことがなかった。
 これまでの付き合いで、彼の人形制作には途轍もなく時間を必要とすることをよく知っていた。
 だからこそ、いったいいつの間に、と思うのだ。
「久しぶりに良い出来だけど、やっぱりその子も完璧ではないんだ」
 残念そうに言った彼と揺り椅子の人形を見比べる。人形は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「どうしてこの人形はこんなにも悲しそうな顔をしているの?」
「僕のことが嫌いなんだ」
「嫌い? なぜ?」
「嫌われるようなことをしたからかな?」
 梨花は彼の手の中にある人形を見やった。梨花をモデルに作っている人形。
 今のところその人形は仄かな笑みを浮かべている。
「私の人形もあの部屋に入れる?」
「たぶん君のは大丈夫だ」
「ちゃんと両足を作ってくれる?」
「その前に、他のパーツもちゃんと作らないと」
 彼はメジャーを取り出した。新しい白い紙を床に広げる。また最初から作り直すつもりなのだろう。
 18にもなると、背も伸びなくなり、一時期太った身体もスマートになった。
 最後に測定してから二年が経ち、作り上げられた人形のパーツそれぞれに彼は肌色を塗っていた。
 梨花は下着姿で白い台の上に乗った。胡座をかくと、指を組んで頭の上に持っていく。そうして、上へ上へと伸び上がった。
 幼い頃は広いと思った台も、今ではそれほどでもない。部屋は相変わらずだだ広く、生活感のない様子だけれど、この十数年で増えた絵画があちらこちらに転がっている。
 彼は梨花の成長に気付く度に、梨花を描いた。
 人形に比べて、絵の方にはそれなりに自信があるらしく、人形の墓場のような部屋は絵画にはなかった。
 絵の中の梨花は常に柔らかく微笑んでいる。
 人形の唇に朱が入れられる。その様子を眺めていた梨花はハッとする。人形が笑っていない。
 自分そっくりの人形の顔。冷たく無表情に天井を見上げている。
 彼は絵筆を止め、梨花に振り返った。
「君も僕のこと嫌いになった?」
「そんなことないわ」
「以前みたいに笑わなくなったね」
「笑っているわよ?」
「確かに笑っているね。――だけど、以前とは違う」
「違うって?」
 彼は押し黙った。そして、零すように言葉を口にする。
「君はもう子どもではいられないんだね」


▽▲

 もうすぐ完成するんだ、と彼が言ったのは昨日のこと。
 梨花はヒールの高いブーツをカツカツ鳴らせて、バラの屋敷に向かっていた。
 外観は小屋のように小さなその家は、中に入ると屋敷と言っても相応しいだけの広さがあることが分かる。
 ただし、部屋数は少ない。彼の制作部屋と人形の墓場、そして、キッチンだ。
 ベッドのような台が制作部屋の中央に置いてあって、壁際には何枚もの絵画。後はガランと何もない。
 タンスとか本棚とか、豊かに生活するために必要な物が一切なかった。
 そう言えば、彼はいつも黒い服を着ている。壁も床に白いこの部屋に、彼だけが黒く、異質だ。
 十数年も踏みならしたおかげで前庭から玄関まで道ができている。
 扉も前ほど大きな悲鳴を上げたりはしない。静かな音で開くと、梨花は部屋の中を覗き込んだ。
 白い空間の中、黒はすぐに目に入ってくる。彼が中央の台の上に身を屈めていた。
 彼の身体の下には少女。台の上に仰向けで横たわっている。
 梨花はハッと息を呑み込んだ。彼の唇は少女のそれと重なっていた。
 身動きが取れなくなる。呼吸を忘れるほどの衝撃を受けて、梨花はその場に座り込んだ。
 彼が振り返った。
 ――どうして?
 得体の知れない感情が胸をざわつかせた。ゆっくりと彼が歩み寄ってくる。
「気持ち悪い?」
 静かな問いに返すべき言葉が出ない。
 気持ちが悪いと、彼に対してわずかにも思っているのかもしれない。
そして同時に、裏切られた、と。
 差し出された手に捕まって立ち上がると、梨花は台の方へと目を向けた。
 そこに横たわる少女は、梨花の出現にも関わらず、ピクリとも動かない。それもそのはず。彼女は梨花をモデルに彼が作った人形だった。
「どうしてあんなことをしたの?」
 台に近寄ると、人形を見下ろした。眼を見開いた顔は無表情。
 長い髪は扇状に広がり、布をまったく身に着けていない肢体をわずかばかり隠している。
「君が好きなんだ」
「でも、人形は何も答えてくれないわよ?」
「それでいいんだよ」
「本当に? ――なぜ?」
 彼の作った人形は瞬きさえしない。唇を動かすことも、言葉を発することもできない。
「私もあなたが好きなのに?」
 自分なら彼の想いに応えてあげられるのに。微笑んであげることも、愛を語ることもできるのに。
 彼はゆっくりと頭を左右に振った。
「――だけど、君は老いていくから」
 ぐっと、息が詰まった。心臓を鷲掴みにされたようだった。
「人形が完成したから、私はいらない?」
「君は大きくなりすぎた。もう少し早く別れを告げるべきだった。――だけど、僕は少しでも君を見つめていたかったんだ」
「あなた、自分がすごく勝手なことを言っているって、自覚ある?」
「仕方がないんだ」
 彼はちらりと奥の部屋を見やった。無意識なのだろうが、その視線の動きは梨花を途轍もなく不安にさせた。
「生きている君が好きだ。キラキラと眩しくて。――初めて君がこの家に来た時、なんて綺麗な心を持った少女だろうと思ったよ」
 許可無く摘んでしまったバラの花を両手に包み、謝るために玄関の扉を叩いたあの幼い日のことだ。
「一瞬で君に心を奪われたよ。君が欲しくて堪らなくなった。君を君の家に帰す度に、胸が痛んだ。ずっと君をこの家に留めることができたらいいと思った。――だけど、君との時間はあまりにも心地良くて、その時間を止めたくはなかった」
「だから、お別れするの?」
「君にはこれからも時間を刻み続けて欲しい。――もう二度と、ここに来てはいけないよ。君の代わりにこの人形を連れて、僕は行くから」
 そう言うと、彼は台の上に横たわる人形を抱き上げ、梨花に背を向けた。
 風もない。誰の手もないのに、奥の部屋の扉が小さな響きを立てて開いた。
 その部屋の中は相変わらず暗い。彼は闇に吸い込まれるように部屋の中へと姿を消した。
 追いかけようと梨花が一歩踏み出した時、バタン、と扉が閉まった。慌てて駆け寄ったが、もはや押しても引いても扉はわずかにも動かなかった。
 翌日、いつものように彼の家に足を向けた梨花は、何もない土地を目にする。
 跡形もない。家が建っていたという痕跡すらない。あれだけ咲き乱れていたバラもなく、雑草さえも生えてなかった。
 赤らんだ土が剥き出しになった土地。梨花はしばらく立ち尽くした。
 バラの屋敷。彼が姿を消したその時から、女の子が消えるという事件も久しく耳にすることがなくなった。



【完】


最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
少しでも気に入って頂けたのなら、
http://webclap.simplecgi.com/clap.php?id=kaidoにジャンプ♪ 
(拍手です)

コメント(1)

思春期のころ夢中で読んだ文学的な少女マンガのようでした!
きれいで残酷なお話、大好きです。
するすると読み進められるのもよかったです。
でも内心、次の行ではグロくなってしまうのかな…とちょっと恐かったです(笑)
梨花ちゃんがぶじでホッとしました。

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