ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

三国志 孫乾 麋竺 簡雍  蜀伝八コミュの麋竺のことを語ろう!

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 演義、正史、ゲーム、漫画そのほか自由に!

 個人的には『三国志大戦』の絵は、正史準拠っぽくて好きです。『剛毅なお坊ちゃん』って感じで。
(描いた人が『ヴィンランド・サガ』の人とは知らなかった)

 三国志あまり知らない友人達が口をそろえて
「なんでこんなに泣きそうな顔なんですか?」
と聞いてきます。
 そりゃ、毎回あんな苦労させられりゃあ、毎回泣きたいでしょうよ。

以下はベルベルさんご投稿を転載。ありがとうございます。

〔麋竺傳〕
 麋竺字子仲、東海[月句]人也。祖世貨殖、僮客萬人、貲産鉅億。後徐州牧陶謙辟爲別駕從事。謙卒、竺奉謙遺命、迎先主於小沛。建安元年、呂布乘先主之出拒袁術、襲下[ヒ]、虜先主妻子。先主轉軍廣陵海西、竺於是進妹於先主爲夫人、奴客二千、金銀貨幣以助軍資。于時困匱、頼此復振。後曹公表竺領贏郡太守、竺弟芳爲彭城相、皆去官、随先主周旋。先主將適荊州、遣竺先與劉表相聞、以竺爲左將軍從事中郎。益州既平、拜爲安漢將軍、班在軍師將軍之右。竺雍容敦雅、而幹[カク]非所長。是以侍之以上賓之禮、未嘗有所統御。然賞賜優寵、無與爲比。
 芳爲南郡太守、與關羽共事、而私好攜貳、叛迎孫權、羽因覆敗。竺面縛請罪、先主慰諭以兄弟罪不相及、崇待如初。竺慚恚發病、歳餘卒。子威、官至虎賁中郎將。威子照、虎騎監。自竺至照、皆便弓馬、善射御云。

〔注一〕
捜神記曰、竺嘗從洛歸、未達家數十里、路傍見一婦人、從竺求寄載。行可能數里、婦謝去、謂竺曰、「我天使也、當往燒東海麋竺家、感君見載、故以相語。」竺困私請之、婦曰、「不可得不燒。如此、君可馳去、我當緩行、日中火當發。」竺乃還家、遽出財物、日中而火大發。

〔注二〕
曹公集載公表曰、「泰山郡界廣遠、舊多輕悍、權時之宜、可分五縣爲贏郡、揀選清廉以爲守將。偏將軍麋竺、素履忠貞、文武昭烈、請以竺領贏郡太守、撫慰吏民。」


麋竺伝
 麋竺は字を子仲といい、東海郡[月句]県の人である。先祖は代々利殖につとめ、小作一万人をかかえ、資産は莫大だった。後年徐州の牧の陶謙が招聘して別駕従事に任命した。陶謙が亡くなると、麋竺は陶謙の遺命を奉じて、小沛から先主を迎え入れた。建安元年、呂布は先主が袁術防禦に出撃した隙につけこみ、下[ヒ]を襲撃し、先主の妻子を捕虜にした。先主は軍を広陵郡の海西に移動させた。麋竺はそのとき妹を先主の夫人として差しあげ、奴僕二千人、金銀貨幣を提供して軍費を助けた。当時困窮していたが、このおかげでふたたび勢いを盛りかえした。後に曹公が上奏して麋竺を贏郡太守に、弟の麋芳を彭城の相につけたが、いずれも官位を去り、先主に従って転々とした。先主は荊州におもむかんとして、先に麋竺をやって劉表に挨拶させ、麋竺を左将軍従事中郎に任じた。益州が平定されたのち、安漢将軍に任命されたが、席次は軍師将軍の上位にあった。麋竺はおだやかで誠実な男であったが、人を統率するのは不得手であった。そのため上賓の礼をもって待遇されはしたが、一度も軍を統御することはなかった。しかし、彼に匹敵するほどの恩賞や寵愛を受けた者はいなかった。
 麋芳は南郡の太守となって、関羽とともに事にあたっていたが、個人的感情から仲違いし、反逆して孫権を迎え入れた。関羽はそのために敗北したのである。麋竺はみずから後手に縛って処罰を乞うたが、先主は兄弟の罪に連座することはないと諭し、初めと同様厚遇した。麋竺は恥と怒りのために発病し、一年余りで亡くなった。子の麋威は虎賁中郎将にまでなった。麋威の子の麋照は虎騎監となった。麋竺から麋照まで、みな弓と馬が達者で、巧みに射、御したという。

〔注一〕
『捜神記』にいう。麋竺はかつて洛からの帰途、家の手前数十里の所で、路傍に一人の婦人を見かけた。彼女は麋竺に車に載せてくれと頼んだ。数里ほど行くと、婦人は礼をいって立ち去ったが、麋竺に向かって、「私は天の使いです。いま東海の麋竺の家を焼きに行くところでしたが、あなたが車に載せてくれたのに感謝して、お話するのです。」と言った。麋竺はそこで内密に彼女に頼んだが、婦人は、「焼かないわけにはいかないのです。だからあなたは馬を走らせて行ってください。私はゆっくり参りますから。真昼に火事が起こるはずです。」と言う。麋竺はそこで家に帰り、あわてて財宝を持ち出すと、真昼に大火が発生した。

〔注二〕
『曹公集』に掲載されている曹公の表にいう。「泰山郡の領域は広大でして、古くから軽はずみな乱暴者が多い所です。一時的な処置として、五県を分離して贏郡を立て、清廉な官吏を厳選して守将とするのがよろしいかと存じます。偏将軍の麋竺は、平素から誠実さを守り、文武ともに明らかでありますので、麋竺を贏郡太守に任命して、官民を慰撫させるようにお願い申しあげます。」

コメント(27)


 ・武侯祠には存在しない。
 (当然原因は麋芳のことでしょうね…)
なんとー!
確かにあれは蜀の黒歴史・・・

子や孫はほとんど出てくることないですよね・・・
さっぱり知りませんでした。
 ♪ベルベルさん

  おおおおおおおお思い出したーーーーー!
 そうでしたよ!私が花関索伝を読まない理由は
 ソレでしたーーーーーーーーーーーーッ!

  私も麋姓の人居ないかなーって、いつか
 中国本土に行ったら探そうかなって思ってます。
 麋姓は他の時代ではあまり聞きませんよね。
 ♪かんべーさん
 麋芳や士仁の像は縛られた姿で外にあるらしくて、
観光客がみんな唾ひっかけて行くらしい…!
 セガのアーケードゲーム『三国志大戦2』の続編『3』では
麋竺がスターターキットに入ってます!バンザーイ!!!!!
イラストもチェンジして、ちょっと老けてしまいました(爆)。
しかも役割は『軍師』らしいです!
今までは文官も武官もごちゃまぜで戦場で戦ってましたが
軍師役が出て、今後はちょっと変わってくるみたいです。
 ♪さくらこ

 今回も『泣きそうな感じ』なんですな。
 孫乾や簡雍はどうなってるんだろう。
 ♪ベルベルさん

 何と!そっそれはぜひ訪問したいです…。
(こんなこと言えるのもこのコミュならでは)
 ベルベルさんよくご存知ですねぇ。
孫権の墓はよく写真は見るんですけどね。
12月13日より『三国志大戦3』が稼動しました!
 「麋竺、華麗なる軍師デビュタント」ですよ!
もちろんウチの軍師はビジクさんですよ〜

どもり口調とちょいとサルっぽい顔が印象的w

今LV11です。
 ♪ベルベルさん
 
  おっ、お疲れ様ですっ…!正史原文書き出しとはっ!
 やっぱmixiならではだよなぁ〜!本当にお疲れ様でした。
 TOPの分の意訳もちょっと進みそうです。

 ♪かんべーさん

  あの騎兵な幸村誠版麋竺の「これからが勝負だぜぇ。」
 の自信満々な声とは正反対の、演義を超えたオドオドっぷりに
 「何があったの!?」と聞きたいくらいです。
 まー幸村先生が今までに無い、正史向けな麋竺像を描きあげたと
 私は考えてるんですが…。
 結構おじさんですよねー。晩年まであんな苦労してるのかしら(涙)。
 
 ♪ベルベルさん(遅レスすいません)

  けっ、携帯って………!
 文字コードまで調べたノォォォォッ!?
 本当にお疲れ様でした。
 ♪ベルベルさん

 あーりがとうー!
良いお仕事ありがとうございます!
PCでログインしたら麋竺のトピックTOPに転載させてください。
糜姓は、…
糜信という人物が三国時代の魏に居て、学者さんだったようです。
正史にも演義にも出てきません。中国語で書かれた姓についての辞典に
載っていただけです。
この人物と一緒に、糜竺兄弟について記述があるだけでした。

他にも、水滸伝にちょい役で糜姓の人物が居たと記憶しています。
(名前が思い出せません)
ほうほうなるほど。
太守で春秋に注ですか。
今、手元に前述の姓の辞典がないのが残念です。

昔調べたんですが、確か、…
糜の字の持つ本来の意味は「農業」をさすとかで、古代の狩猟による
不安定な生活が主だった大昔に、安定した食料の生産によって富を得るとか…
そんな意味合いの文字らしいんです。
富を得る…
小作一万を思い出しましたよ(笑

ログインすると、残り13件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

三国志 孫乾 麋竺 簡雍  蜀伝八 更新情報

三国志 孫乾 麋竺 簡雍  蜀伝八のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング