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地球環境を守ろう!コミュの新型インフルエンザ騒ぎを考えよう。

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最近のインフルエンザの過剰な報道に疑問を感じています。
たとえば、

1、新型インフルエンザは本当に危険なのか。
2、扇情的な報道によって過剰な防御が強いられていないだろうか。それは正しい防御なのか。
3、一見、科学的な裏づけがあるように見えて、実はそうではないのではないか。
4、ワクチン摂取による健康被害が過小評価されていないだろうか。

などといった点についてです。

ウィキペディアによれば、平年の季節性インフルエンザよりも危険性は薄いようです。↓
『世界全体では重症急性呼吸器症候群(SARS)のような高い死亡率は示してはいない。2009年9月30日の報道では、致死率は季節性インフルエンザ並みかそれ以下の0.045%と分析されている。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/2009%E5%B9%B4%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%9A%84%E6%B5%81%E8%A1%8C
にもかかわらず、『WHOの緊急委員会は4月27日の会合で世界的流行の警戒水準(下の節を参照)をフェーズ3からフェーズ4に引き上げることを決定。さらに4月29日には、各国の専門家らによるWHOの電話会議でフェーズ5への引き上げを決定、チャン事務局長が記者会見で発表』するなど、実質の評価を無視した過剰な対策に傾倒しがちな状況となっています。


私は、この騒ぎには何らかの政治的意図があるのではないかと感じています。
政治的意図とは、国民に対し健康不安をたきつけ、「新型インフルエンザによる健康被害を守る」という名目での巨額の財政出資を可能にしているのではないかというものです。
「地球が寒冷化しつつある」という現実を無視した地球温暖化政策や、エネルギー効率の点でまだまだ実用化に疑問のある自然エネルギーへの転換を叫ぶ動きなど、同様の意図で推進されている分野があるように感じています。
これらの一連の騒動には、アメリカに端を発した経済崩壊が表面化するのを、を何とか食い止めようとする世界各国の思惑、それに同調する日本政府の思惑があるのではないかと感じます。
私の推測が正しければ、この新型インフルエンザ騒ぎは、ワクチン摂取のリスクを国民に押し付け、国家主導で国民の健康を危険にさらす、許すべきではない政策であるといえます。

とはいえ、現在のところ、私も完全な確信を持っているわけではなく、多くの方の情報提供やご意見などによって、私の主張を検証していただければと考えています。
皆さんの意見をお聞かせください。

以下に、私が推論の参考にした資料をいくつか示します。↓

コメント(532)

(続き)
>たとえばプラナリアは人間に比べると、非常に単純な目しか持ちません。あるいは、犬や豚も、色盲です。人間の目に比べて、数割引きの能力しか持たない生物は身近にもたくさんいます。

その手の主張は、もううんざりするほど聞かされていますので、それに反論するのは時間の無駄だと感じます。
ただ言えるのは、いくら大声を上げて「目は、単純な生物から人間までにさまざまな過程を経て、高度化してきた」と言ったからといって、それが漸進的に能力を獲得してきたという証拠は一切ないということです。
私は、それよりもいっそう筋が通るという理由で、「生命エネルギー進化説」を紹介したわけです。これは、私独自の説かもしれませんし、もしかしたら、どこかの研究者が既に提唱しているかもしれません。
コメント76でテレビ番組の紹介をしたのは、「人体を取り巻く電界」、つまり、これまでのダーウィン主義者が決して考慮してこなかった要素、それも科学的に認められた要素を、進化研究にも取り入れるべきではないか、ということを述べたかったからです。
頑迷で蒙昧な古典科学者たちは、東洋医学ではポピュラーな、「ツボ」とか「経絡」と言ったものを一切認めてきませんでした。
しかし、この「人体を取り巻く電界」はその存在を強力に示唆するものです。そしておそらく、この電界研究が進めば、キルリアン写真の科学性も近々単純に棄却などできない状況になるものと考えます。なぜ、このような科学的な新たな知見を進化論の分野では取り入れないのか?というのが、私の問題提起です。
リサーチプログラムを紹介したのも、ドーキンスの理論よりも、私の理論のほうがうまく説明できているのならば、うまく説明できている理論を採用すべきだという、規範に立ち返っていただきたいという理由からです。



>つまり、貴兄の「1%の目を持つ生物、2%の目を持つ生物といったものが、一切地球上で確認されておらず、化石としても存在していない」と云う主張は絶望的に間違っています。

たとえ、0.5%の目を持つ生物が存在し、10%の目を持つ生物が存在したからといって、「1%の目を持つ生物、2%の目を持つ生物」が存在したという証拠にはなりません。
ドーキンスは、それが存在し種として繁栄していたことを固く信じていると、著書では述べています。そしてそこには「幸運」が働いていたのだと。
これは信仰です。非科学的であるという点では、創造論者と同じです。
証拠も提出できないのに間違いだと言うあなたこそ、絶望的な信者です。
(続く)
(続き)
>エントロピーを理解していない方が、鬼の首を取ったように声高に主張する、非常にポピュラーな誤解です。エントロピーは孤立系において、平均すると増大します。が、外部とのエネルギーの出入りがある地球、あるいは生物個体は、孤立系ではありません。これについてはNATROMさまが分かりやすく解説しているので、リンクを貼っておきます。 http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/entropy.html

読んでみましたが、これもほとんどへ理屈ですね。ダーウィン主義信者しか頷けない理屈ばかりです。
ここでは、「ダーウィン主義でないものは創造論主義だ」的な言い回しが、あちこちに見られますが、全く不当な気目付けです。
私は、創造論者ではありませんが、「生気エネルギー」の考察を進化に応用することによって、「創造論者の言い分も一理ある」という状況になることはあるだろうと考えます。しかしながら、そこに「人類の英知を超えた存在」を介入させる必要は感じていません。
ダーウィン主義(漸進的進化説)はもう既に棄却されるべき運命の学説です。ただ、それにすがっていたいがために、それを批判するものは全て創造論者であるかのような気め付けをしているのです。
少しだけ、紹介のページに言及しておきましょう。

ペン 「孤立系」でなければ、エントロピーの減少はありえます。例えば、個体発生。単純な受精卵から複雑な個体が発生します。進化、すなわち系統発生が熱力学第二法則に反するのなら、同様の理屈で個体発生も熱力学第二法則に反すると言えるでしょう。創造主は個体が発生するときにもその力を発揮されるのでしょうか。 』

↑生命の発生・成長が熱力学第二法則に反しているから、進化が反していてもおかしくない、という理屈ですね。
言うまでもなく、これは「生命が熱力学第二法則に反することを可能にしているのは何か?」という問いへの答えを放棄しています。
自らが放棄した謎をもって、他者を批判するなど、笑い種でしかありません。

ペン生物以外では雪の結晶。写真や現物で六角形の秩序だったパターンを、誰しも見たことはあるでしょう。雪の結晶は熱力学第二法則に違反しているのでしょうか。』

雪の結晶ができる過程には、水滴が熱エネルギーを奪われる、つまり、環境が極低温な状況で起こることです。寒い場所へ行けば、熱を奪われ、水は氷になる。これは全く当たり前で、エントロピーの減少が日常で起こっているという主張の証明にはなりません。

ペン単に冷蔵庫でもいいです。電源を抜いたとたんに熱力学第二法則に従いますが、電源が入っている限り、温度差を作り出します。』

冷蔵庫は、閉鎖された環境を作り、そこだけ熱力学第二法則に反する状況を作り出すための機械です。
機械を取り巻く広範な環境を考えれば、熱力学第二法則に全く反していません。電源を入れつづければ、必ずいつか故障して、熱力学第二法則に応じた方向にエネルギーが移行します。

というか、こんな低レベルの主張でしか、ダーウィン主義を擁護できないとは、はなはだお気の毒です。
(続く)
(続き)
>貴兄がいかなる思想信条を持とうと当方は関知いたしませんので、あしからず。陰謀論でもなんでも、ご自由に開陳なさって下さい。

あなたは信じないでしょうが、私の思想信条は、現代の最新科学の知見に則って構築されていると思っています。
「現代の最新科学の知見」は、「感情の存在」を認め、「祈りの効果」を肯定するものだと考えます。そのことは、決して創造論と同列ではありません。
量子論では、観測者の意思が観測結果を左右します。それは、その観測環境だけの特別の出来事などではないのです。むしろ、必然です。
つまり、世界には、人類の意思に答える許容範囲が存在するということです。
今や、「祈りは非科学だ」という人々のほうが、むしろ非科学だと考えます。


>最後に、進化論の掲示板のリンクも貼っておきます。ここには僕よりも詳しい方が大勢いらっしゃるので、より詳細な回答が得られるかと思います。
http://6609.teacup.com/natrom/bbs

おそらくその掲示板では、以前私を「プロトコルが云々」で追い出したコミュニティと、似たような議論が交わされているように推測します。
私にとって、それらの方々の議論は、掛け算を知らずに足し算だけで計算をしているようなものです。
「100を100回足す?そんなの100×100ですぐ出てくるじゃない?」といった歯がゆさを感じるのは目に見えていますので、申し訳ありませんが、読む気になりません。
>495
>量子論では、観測者の意思が観測結果を左右します。それは、その観測環境だけの特別の出来事などではないのです。むしろ、必然です。

気になったので

観測者の意思が観測結果を左右する、とありますが、この書き方ですと観測者の思い通りに(意識的、無意識的ともに)観測結果を変えることができるように誤解してしまいます。
おおくの現象の中から一つの結果を出す場合(水からの伝言の結晶の写真を選ぶ操作などの場合)は、観測者の意思によって結果が左右されると言っても良いと思われますが、量子論で問題にしているような「観測結果」の問題では観測者の意思・意識・感情・思念等で結果が変わるとは論じておりません。
誤解されているのでしたら今一度量子論の基礎的問題を見直してみてはいかがでしょうか。



進化に関してですが
0.5%や10%、100%の眼はあっても1%や2%の眼は確認されていません。あったかどうかはわかりません。0%の眼から100%の眼が造られた(進化した)として、必ずしも1%や2%の眼というステップは必要ではありません。この辺は「量子論」的に考えられたら答えが出るのではないかと思います。

珍しく、ぱぷーさんから全うなご意見をいただきましたので、私も真剣に回答させていただきます。
意見は2つの項目に分かれていますが、まずは進化のほうについて答えさせていただきます。

496 ぱぷーさんへ
>進化に関してですが
0.5%や10%、100%の眼はあっても1%や2%の眼は確認されていません。あったかどうかはわかりません。0%の眼から100%の眼が造られた(進化した)として、必ずしも1%や2%の眼というステップは必要ではありません。この辺は「量子論」的に考えられたら答えが出るのではないかと思います。

まさしくそのとおりですね。「量子論」的に考えれば、「1%や2%の眼」といった中間形態は考慮する必要はないのです。
しかし、漸進的進化を支持するドーキンス氏は、その存在を固く信じ、著書ではこのように述べています。↓

ペン まったく眼のない状態からヒトの眼までをつなぐ?系列の各段階を考えてみると、それらのどの?も、当の動物の生き残りと繁殖を手助けするのに十分うまくはたらいていたというのはありそうなことだろうか?その答えは明らかにノーであるという反進化論者の受け止め方が馬鹿馬鹿しいのはいま見たとおりだ。では、その答えはイエスだろうか?あまりあきらかではないが、私はイエスだと思う。』
ペン 5パーセントの視覚も、まったく視覚を欠いているのよりはましである。5パーセントの聴覚だってまったく聴覚を欠いているのよりはましである。5パーセントの飛翔能力だってまったく飛べないのよりはましである。われわれが現実に見ることができるあらゆる器官や装置は、動物空間を通り抜けた滑だらかな軌跡の産物であり、その軌跡上のあらゆる中間段階も生存と繁殖の一助になっていたと、すっかり信用することができる。』
(続く)
(続き)
>>量子論では、観測者の意思が観測結果を左右します。それは、その観測環境だけの特別の出来事などではないのです。むしろ、必然です。
>観測者の意思が観測結果を左右する、とありますが、この書き方ですと観測者の思い通りに(意識的、無意識的ともに)観測結果を変えることができるように誤解してしまいます。(後略)

この質問については、以前「水は答えを知っている」コミュにコメントした「量子論解説」をこちらで紹介させていただくことで、理解していただけるものと考えます。↓
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42436092&comm_id=42238
非常に長文ですし、専門用語もかなりありますが、私がこれまで読んだ量子論解説の中では、最もわかりやすいものです。
文中、「きくまこ」という方が何回か登場しますが、それはこの方です。↓
http://mixi.jp/view_item.pl?id=1009514&reviewer_id=5975583
レビューを読んでいただければお分かりかと思いますが、「ニセ科学キャンペーン」の中心的存在です。ミクシィに参加していらっしゃることを知り、直接議論させていただきました。
NHK教育では、この方の講義が放映されました。なぜか、ユーチューブの配信が削除されてしまいましたが、メディアはこの問題に関して非常にアンフェアであり、「ニセ科学キャンペーン」擁護の立場にあることを、丁度良い機会ですので、お知りおきいただければと思います。
(続く)
(続き)
ここから引用です。↓

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、これまでの議論の経過から強く感じたことは、「量子力学とは一体どういうものなのか」を、コミュ参加の皆さんにも知っていただく必要があるのではないかということです。
コメント59において、きくまこさんは、「「魔法」という言葉のかわりに「量子力学」という言葉を使っても、なんの説明にも理解にもならんのですよ。」と発言しておられますが、私の主張が単に、魔法という言葉の変わりに量子力学を持ち出したわけではないことを理解していただくためには、量子力学の基礎的な情報を提示する必要があると感じました。
量子力学の研究が進むにつれて、これまで常識とされてきたことが次々と覆されている状況にあり、従来の古典物理学に基づいた教育を受け、それを常識として生活する私たちにとって、量子力学はまさに「魔法」です。
しかし、ここに紹介する現象の数々は、魔法でも何でもなく、科学的に証明された事実なのです。
そのような量子力学の現象を皆さんに知っていただければ、私の主張する「水からの伝言は、量子力学に基づいた説明が可能ではないか」の理由が、お判りいただけるかと思います。
そのため、このたびのコメントは、非常に長文となっております。
しかし、「水からの伝言」に対する共感を深めるために、また、今後の生活を送る上で、因習的な常識にとらわれないためにも、非常に有用な知見であると思いますので、お付き合いいただければ幸いです。

《著書紹介》
このたびのコメントに際し、私が特に参考にさせていただいたのは、「量子進化 脳と進化の謎を量子力学が解く! ジヨンジョー・マクファデン著2003 年」というものです。
この著書の主旨である、ダーウィン進化論の量子力学的考察も、非常に興味深いものですが、特に好ましく感じたのは、非常にわかりやすく量子力学の解説が記されている点です。
難しい数式や理論などに抵抗を感じる私のような者でも比較的容易に理解することができました。
HPによると、著者のジヨンジョー・マクファデン氏は、英国サリー大学で博士号をとられ、現在分子生物学・遺伝学教授として活躍されておられる方のようです。
http://www.surrey.ac.uk/qe/
きくまこさんは、「「ニューサイエンス」系の本を何冊読んでも、量子力学については誤解こそすれ、いっさい理解できません。」と述べておられますが、マクファデン氏も教授の資格をお持ちの方ですので、一概に「ニューサイエンス」だと否定されるものではないと思います。
なお、以下に記する『』でくくられている個所は、全て本書からの引用です。
(続く)
(続き)
《量子力学とは何か》
『一九〇〇年、ブランクは黒体放射の正しいスペクトルを予想する式を導き出した。しかし、その式の意味するところはとても驚くべきものであり、プランク自身、その意味を認めたくなかった。それまでの黒体放射を説明するモデルとは、光のエネルギーが、熱せられた物体から連続的に放出されるというものであった。(中略)しかし、プランクの式では、熱せられた物体からの放射は、独立した大きさをもつ小さなかたまりで放出される場合にのみ意味をなすものであった。ブランクは、このような光のエネルギーのかたまりを量子と名づけた。』
『多くのエネルギーが与えられると、分子は瞬時に、ある回転速度から次の状能に「跳躍」し、不連続な光のスペクトルが生じる。この「量子跳躍」は、古典物理学では予想できない、量子力学に固有の特徴である。それならば、その「中間状態」では何が起こっているのだろうか? 分子はどうやって瞬時に、ある回転速度、すなわち、ある「量子状態」から別の「量子状態」へ切り替わっているのだろうか?』

20世紀初頭に発見された、古典物理学の常識と完全に反する現象は、量子力学という新たな研究分野の始まりとなりました。
きくまこさんは、コメント49において、「新しい理論や実験結果は、これまでに積み上げられた科学的知識と整合するかどうかが問われます。整合しないとすれば、それはどこかが間違っているか、さもなければこれまでの科学を覆す大発見かのどちらかです。」と述べておられますが、まさしく、量子力学は「これまでに積み上げられた科学的知識」を覆す大発見であったわけです。
これから紹介する数々の現象は、「これまでに積み上げられた科学的知識」と全く整合しなものばかりであり、そのため、発見者であるプランク自身も「その意味を認めたくなかった」わけです。


《量子の世界の不思議 その1〜量子エネルギーは跳躍する》
『デンマークの偉大な物理学者であり量子論の主たる構築者である二−ルス・ボーアは、革新的な解を提案した。原子核に束縛された電子は、もはや連続的なエネルギーをもつことは許されず、光のように不連続なエネルギー状態に量子化されているというものだ。電子は「原子核に向かって急落下」することはできない。というのも、急落下するというのは、連続的に減少するエネルギーをもっているということだからである。あるエネルギーレベルから別のエネルギーレベルに量子跳躍をすることだけが許され、各跳躍は電磁エネルギー(プランクの式によって与えられる振動数をもつ)における光子の吸収や放出と関係しなければならない。』


《光は量子である》
『アインシュタインの答は、光そのものが不連続の量子、あるいは「光子」と称されるものからなるということであった。アインシュタインは、光を波ではなく光子の流れであると考えたのだ。』
『ノーベル賞を受賞した物理学者であり、量子電磁気学(QED)というきわめて成功した理論を構築したリチャード・ファインマンは、次のように考えた。「(光を用いた)二重スリットの実験は…それ自身の中に量子力学の核心をもっている。実際のところ、この実験は唯一の謎を含んでいる…。それがどう作用するか説明しようとすれば、量子力学の基本にある奇妙さを述べることになるだろう」。』

光を用いた実験で確認される現象には、量子力学の本質が凝縮されており、光を知ることは量子力学を知ることと同等であるといえそうです。

リチャード・ファインマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
(続く)
(続き)
《量子の世界の不思議 その2〜量子は粒子と波の2つの形態を持つ》
(左図参照のこと)
『たとえば、懐中電灯やレーザーポインターから発した強い光線が、スクリーンにある一ミリメートル四方の穴を通って白い壁を照らしていると想像してみよう。この光は壁に穴の形をつくる。(中略)
スリットが〇.五ミリメートルの幅であれば壁に明確な像が再現され、この細長い光の幅は〇.五ミリメートルであり、その光の運動量は水平面ではゼロのままであることを示す。位置の不確実さは半分になる。ところが、幅を一〇分の一ミリメートル以下にまで小さくしていくと、スリットの像は同じように小さくなっていくことを拒否する。事実、スリットが小さくなればなるほど、その像はぼんやりとなりながら大きくなってしまうのだ!』
『いくつかの光子は、スリットを通過するときに左か右にそれたにちがいない。そのような光子は、水平平面の運動量もつ(運動は方向を含むため)。もはや、スリットを通過するすべての光子の運動量がゼロであるとはいえない。いま、光子の運動量は不確定であり、その不確定性は回折した像の広がりによって決まるのである。』
『光が波として考えられるときには、回折は、当然ながら波動力学の結果として現われる。しかし、光電効果や黒体放射の問題、その他の多くの実験は、明らかに光が粒子から成り立っていることを教えてくれる。』

光(量子)が、粒子であると同時に波の形態を持つことから、不確定性原理が導き出されました。↓

『ハイゼンベルクの不確定性原理は、微視的である物質の構成要素の振る舞いを考慮するときにもっとも重要となる。たとえば、電子のようなとても小さな質量をもち、したがって小さな運動量(運動量=質量×速度)をもつ粒子にとって、力の値はあらゆる作用を測定するときの正確さにきわめてきびしい制限を課す。正確な位置の情報を得ようとせず、広いすきまに光子を通したとき、不確定性原理は、運動量の測定においてきわめて高い精度を得ることを可能にする。(中略)しかし、位置の測定を絞り込んだ場合、不確定性原理は光子に運動量の幅広い不確定性をもたせることとなり、(中略)光子がせまいすきまを通ったときに方向を変えるのは、光子の測定に起因して運動量の不確定性が増加するためである。』


《量子の世界の不思議 その3〜量子の干渉効果》
次に、スリットを2つにした実験でも、古典力学では予測できない現象が確認されます。(右図参照のこと)↓

『まず、左のスリットを覆って実験を行なう。これは本質的に一つのスリットでの実験と同じ設定であり、散乱した(回折した)像が壁に見え(右と示す)。同じく右のスリットを覆えば、同様に左に散乱した細い線が見える(左と示す)。両方のスリットでは、おそらく二つの回折パターンを合わせた(右)+ (左)というものが見られると予想される。これは、ふつうの粒子(たとえば銃弾など)を発射してスリットを通過させたときに予想されるパターンである。しかし、光をスクリーンに通したとき、予想されたような足し合わせパターンは見られず、その代わり、壁には明暗の帯がくり返し現われるだろう。この像はまちがいなく、二つの独立した光線を単純に足し合わせたものではない。というのも、どちらか一方のスリットが開いているときには、明るくなっていた壁の部分が暗くなり、暗かった領域が明るくなっているからである。この明暗の帯のパターンは干渉パターンとして知られる。』
『干渉とは、波のもつ特徴である。波は、空間を伝わるとともに広がり、同時に二つの場所(スクリーンの二重スリット)を通過することができる。しかし、そこからこんどは再結合して干渉パターンをつくる。干渉は古典論的粒子の特徴ではない。古典論的粒子は空間上の場所が特定され、二つの別々の地点を通って移動することはできない。』
(続く)
(続き)
量子の世界では、同調するエネルギーが重なって効果を強めるという動きがあるようです。
しかし、これは光に限定された現象ではなく、私たちの世界にありふれた全ての物質に内在する性質です。↓

『古典的な二重スリットの実験と同じような実験が、粒子の形態をもつすべてのもの、すなわち陽子、中性子、原子、分子、イオンについて行なわれ、すべて干渉効果を示す。すべてが同じように、波と粒子の二面性を示し、すべて状態の量子の重ね合わせとして存在する可能性がある。(中略)
これらの粒子(電子、陽子、原子、分子)は、超伝導高加速器あるいは他の高エネルギー物理学実験において束の間しか存在しないような、難解な状態の物質の一部ではない。これらの粒子は、この本のぺージの材料であり、そのページを見ている眼の一部であり、見ているものを認識している脳の一部なのである。量子力学は、生命の材料を含め物質の根元的な実在性を説明しているのである。』

こういった一連の量子現象は、古典力学の観点からは全く予測できない、まさしく「魔法」のようなものです。かといって、夢や幻でもなく、確実に実在が証明されているものです。
古典力学の常識からは魔法としか思えない事柄が、量子力学にとっては不思議でもなんでもないわけです。
ですから、この地球上(宇宙全体)で確認される、古典物理では解明できなかった全ての謎は、量子力学によって解き明かされるのかもしれないのです。

また、量子的現象は、あまりに微小なレベルで確認されるため、現象を測定しようとする行為にさえ影響を受けてしまいます。↓

『ニールス・ボーアは、すべての測定は二つの関連する相補的な特性(位置と運動量など)に影響し、したがって、ある一つの特性を測定することは、もう一つの特性が不確定になる原因であることを発見した。これは、相補性原理とよばれるものである。』
『量子力学において、測定はけっして無害ではない。測定は、外部に存在する実在性を変更するのである。測定は実在性をつくり、異なる測定は異なる実在性をつくることになる。』

これは、私がコメント65で述べた「量子レベルの観測には物理的な限界があるということですよね。ですから、今日の科学理論の是非を問う場合においては、実証よりも、他の理論との整合があるか否か?という点こそが重要視されているわけです。」の根拠です。
この「測定が量子的世界にある種の変更を加える」という示唆から、次のような考察が提起されました。↓

《コペンハーゲン解釈》
『標準的な量子力学の解釈では、測定できないものは存在しないということになる。この観点からいえば、冷蔵庫の中身は、ドアを開けるまで存在すらしないということになる。量子論の初期のころ、二−ルス・ボーアは、この見方をもっとも熱心に支持した。(中略)
ボーアは「通常の物理的な意味における独立した実体は、現象と観察の作用のどちらにも帰することができない」と主張した。ボーアの影響によって、二〇世紀における長いあいだ、この観点は量子力学の標準的解釈として広く知られた。この解釈は、量子論における数多くの基礎的な発展がなされたコペンハーゲン物理学研究所でのボーアと同僚の功績によって、コペンハーゲン解釈としてよく知られている。』

映画「トイストーリー」を思い出してください。
映画では、人間が見ていないところでおもちゃが独自の世界を持ち、自分の意志を持って行動するという物語ですが、まさしくこれは、量子の世界の特徴を明確に捉えているのではないでしょうか。
私たちの意識が確認している世界はほんの一断片にしか過ぎず、それ以外の部分には、量子の揺らぎのような不確定性が宿っているということでしょう。
そしてそれは、どこか遠い世界の話ではなく、私たちの視線が届かない背後やパソコンの裏側、閉じられた本の中など、身近に存在しているわけです。
このことは、私たちが知覚しない未来などには、確定未然の状況が残されているということになり、古典力学の基礎にある「機械論的世界観」の「古典力学的で決定論的な因果関係の連鎖のみで解釈でき全体の振る舞いも予測できる」という考え方を決定的に否定するものです。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96
逆に、祈りや願いなどといった、心の作用が不確定要素に影響を与える可能性も考えられるわけであり、「水からの伝言」をニセ科学と断定できない、強い根拠がここにあると考えます。
(続く)
(続き)
《量子測定には古典力学の介入が避けられない》
『ニールス・ボーアが支持した説明では、量子の世界と測定装置の区別が強調されていた。量子的な事象を見るためには、われわれは量子的な事象を古典力学で扱う物体の大きさに拡大しなければならない。だがそれは、もし「すべての事象を古典力学の用語で説明しなければならない」とすればの話だ。われわれの認識に対する感覚および情報伝達能力は古典的な法則に基づくものだ、とボーアは指摘した。われわれは古典力学の現象によらずに、量子的事象を認識したり説明したりできないのだ。』
『現象とは、量子的物体と測定装置の相互作用なのである。独立した存在が量子的物体そのものに帰するということはない。単純にいえば、測定がなければ電子や光子といったものもない。それらは存在しないのだ。存在に対する基本的な単位は、原子や電子や光子ではなく、現象なのだ。コペンハーゲン解釈に従えば、これは物理学に関するかぎり、そうなのである。』

ここでいう測定とは、量子的出来事を古典力学の目盛りに翻訳することですが、測定装置自体も量子的世界の揺らぎから無縁ではありません。↓

『しかし、測定装置の原子と分子もまた同じ種類の基本的粒子、すなわち陽子や電子などから構成されており、それらは量子の重ね合わせ現象を示すことができる。測定装置も、状態の重ね合わせの中に存在できるのではないだろうか?』

きくまこさんは、コメント49において、「現代科学はガリレイ・ニュートン以来の長い長い時間をかけて積み上げてきたものです。その結果として、現在の科学的な知識なり見地なりがあります。また、「科学的実証」とはどういうものであるかという方法論についても同様です。」と述べていますが、測定装置さえもが量子的世界の揺らぎから無縁ではないわけですから、「科学的実証」の方法論自体も、大幅に変更を加えるべきものとなっていると考えます。
(続く)
(続き)
《シュレーディンガーの猫》
『ボーアの研究仲間であるエルヴィン・シュレーディンガーは納得がいかず、問題点を洗い出すために、ある思考実験を考え出した。いまでは有名なシュレーディンガーの猫のパラドックスは、それ以来、科学者や哲学者を魅了してきた。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB

コペンハーゲン解釈がもたらす不合理を、わかりやすく示したのが「シュレーディンガーの猫」です。
箱の中に毒ガスと共に入れられた猫の生死は、箱のふたを開けなければ誰も知ることができません。
「ふたを開ける」行為を測定と考えた場合、はこの中の猫の生死は量子的揺らぎとともにあり、確立でしか表せません。


『このように、意識をもつ観測者の存在が必要であるということは、われわれ自身が実在性の仲裁人の役割をして世界を定めている、ということのように思われる。われわれがいなければ、光子も電子も陽子も、また測定装置や生細胞、そしておそらくは猫などのもっと大きな物体でさえも、まったく存在しないか、あるいはある種のあいまいな量子的可能性として存在すると考えられる。量子測定装置には、量子的な事象を古典的な存在に翻訳する能力が与えられているとされるが、それはわれわれが観測者としてそこにいるときのみの話である。』

量子現象を理論的に突き詰めれば突き詰めるほど、「世界は観測者がいるからこそ存在する」という結論に至ることになります。
ここから、次のような世界観が提起されました。↓


《参加型の宇宙》
量子の世界では、私たちが認識しない世界は実在しないのと同様であることから、このような仮説が提起されました。↓

『物理学者ジョン・ウィーラーは、意識に依存する実在性という観点を論点の結論とし、われわれは「参加型の宇宙」に住んでいると主張している。「参加型の宇宙」では、宇宙の実在性が、実在するという意識をもつ観測者に依存しており、しかもそれは今日だけではなく、ビッグバンにまで遡るというのである!ウィーラーは、ある種の逆向きに作用する波動関数の収縮によって、観測者の存在が 「現在だけでなく、最初に戻って宇宙を認識できる『存在』にする」と提案した。この筋書きでは、最初の忠誠をもつ存在が目を開いて宇宙全体に対する波動関数を収縮し、歴史全体を実在のものにするまで、宇宙は未確定の幽霊のような状能心で存在したことになる。そこには、自身の進化を記録する地質学上の記録や化石も含まれる。』

ジョン・ウィーラー
ブラックホールの名付け親として知られ、原子爆弾を開発した「マンハッタン計画(Manhattan Project)」に加わった米物理学者
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2378732/2837127

ウィーラー氏の輝かしい経歴は、決して「ニューサイエンス」とか「オカルチスト」などと軽はずみに言い捨てることのできないものです。
そのような方が、古典的な機械論を排除し、斬新な世界観を提起しているわけですから、このことを「誠実な科学者」は真摯に受け止めるべきかと感じます。
(続く)
(続き)
《EPRパラドックス》

基本的に古典的世界観を支持する科学者であったアインシュタインは、コペンハーゲン解釈とそれに由来する世界観を受け入れることを拒み、理論的挑戦を挑みます。
しかしその結果は、コペンハーゲン解釈を棄却することができず、反証を乗り越えることで、むしろいっそう理論的価値を深めることになりました。↓

『アインシュタインもまた、コペンハーゲン解釈によって記述された参加型の実在性をかなり不愉快に思っていた。アインシュタインは、「向こう側には、われわれ人間には関係なく存在するこの巨大な世界があった」 と主張した。アインシュタインとボリス・ポドルスキーとネイサン・ローゼンが一九三五年に書いた有名な論文で、アインシュタインはボーアの見方に挑戦している。』
『逆説的であるが、アインシュタインの挑戦はコペンハーゲン解釈の立場を強力にした。アインシュタインの反論の一つ一つを、二−ルス・ボーアや研究仲間がとても効果的に反証したため、その理論はより強力になった。EPR (訳注 アインシュタイン、ホドルスキー、ローゼンの頭文字をとったもの) 論文として知られているアインシュタインらの一九二五年の論文は、ボーアにとってもっとも手ごわい試練であった。』

きくまこさんはコメント142で、EPRパラドックスについての見解を述べておられます。↓
「アインシュタインたちの間違いは、計算結果が光速を超える情報伝達を意味すると考えたことで、現在はEPR相関を使って超光速で情報を送ることはできないと結論されています。 」

私の見解では、「超光速で情報を送る」という考え方も、空間を移動するという点で古典力学的ではないかと感じます。
「スピン0の素粒子が崩壊して、二つの電子になる場合」反対方向に離れる運動の片方を測定した際に、もう片方の値が決定するのは、超光速で情報が送られた訳ではなく、ただ単に「決定された」だけなのではないでしょうか。
きくまこさんが何を思って142をコメントなさったのかは、私には判りかねますが、この現象は、古典力学の見地から見れば、完全な「魔法」ですが、量子力学的には実証された事実ということになります。

『アスペは、EPRの絡んだ光子ペアが一対の検出器に向けて放出されるようにした。一秒間に一〇〇億回も動作するランダムなスイッチが、それぞれの検出器に対して測定される偏光角度を変えた。このすばやいスイッチングによって、光子が検出器に到達するまでの時間内に、光速で移動する信号が、一方の検出器から約一〇メートル離れたもう一方の検出器にけっして移動できないようにした。信号が光よりも速く移動しないかぎり、一方の検出器は、他方の検出器が測定している角度を知ることができない。古典論的な事象は、このような環境では、粒子は独立した実在性をもつために一方の粒子にどのような測定が行なわれたかは問題にならない、つまりそれらの選択はその相棒の特性に影響するはずがない、と主張していた。だが、それらは影響するのだ。』
『アスぺの実験は、非局所的な関係が、一〇メートル離れた二つの対象物(光子) のあいだに存在することを示した。もっと最近の実験ではアスペの研究が確認され、さらに拡張された。そして、非局所性は一キロメートル以上離れたEPR粒子に対しても示されている。EPRの絡み合いは、実際に応用されるほど現実性がある。現在、それは解読できないよう暗号化された情報の伝達手段として研究されている。粒子は、ある場所から別の場所へ、EPRの絡み合いを使ってテレポートしたのである。』

量子テレポーテーション
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
(続く)
(続き)
《量子的世界観は全てがつながる世界》
『ボーアは論争に勝利したが、その勝利の代償は尋常なものではなかった。それは、われわれの経験とは独立した外側の世界がある、という客観的実在性の概念を放棄することに他ならなかった。このEPRパラドックスは、運動量というただひとつの特性によって展開されたが、この議論は、位置、エネルギー、電荷、スピン、偏光状態など、物質や放射のあらゆる特性に同様に適用できる。つまり、どれも測定がないところで客観的実在性をもつとは考えられない。だが、それなら、運動量やエネルギーや電荷のような特性の集合体以外の、物質やエネルギーやわれわれ全体の存在は何だろうか? 生体系にとって、この間題はとくに深刻である。なぜなら、コペンハーゲン解釈では、生命は測定が行なわれるまで、おそらくは聡明な観測者が到着してその状態を測定するまで、一種の量子的中間状態に置き去りにされるようだからだ (この厳密な解釈では、誰あるいは何が測定を行なっているかは定められていないのだが)。病気になるまで細菌は存在しない、などということが本当に信じられるだろうか? 人類が進化するまでは生物圏全体があらゆる可能な状態の膨大な重ね合わせとして存在したのだろうか?』

因習的な科学者の意に反して、「われわれの経験とは独立した外側の世界がある、という客観的実在性の概念」は、量子力学を誠実に受け止めた場合、刷新すべき概念となっているわけです。
この新たな概念は、宇宙や生命の始まりといった過去にまでさかのぼり、おそらくは、いまだ実現しない未来にも繋がりを求めるものとなっているようです。
ましてや、「水からの伝言」で実験に使用された、ペレットの一滴の水でさえ、「われわれの経験とは独立」には存在しないわけです。
当然、この概念に沿って思考する、あるいはこの概念を信じる行為が「不道徳である」などとは、全く論外な批判であると思われます。
[続く]
[続き]
《量子の世界はなぜ日常で確認できないのか》
きくまこさんはコメント138で「大きな物体に量子力学を適用すれば、古典力学と同じ結果になります。量子力学を使っても、古典力学と同様、巨視的な物体にはトンネル効果は起きないということです。」と述べ、大きな物体における古典力学的作用は健在であることを、強調なさっていますが、なぜ、大きな物体では量子効果が判別できないのか、その理由は以下にあります。↓

『ウエーバー棒として知られる、絶対零度近くの温度に冷却された金属の棒は、重力波を検出するために用いられる。堅いウエーバー棒が極低温になると、原子がいっせいに、すなわちコヒーレント(可干渉性)に振動しはじめる。この状態で、ウエーバー棒は量子干渉効果を示すことができる。しかし、この棒が熱せられると、棒の中の原子や分子は熱運動によって揺れたり衝突したりするため、原子の振動の位相はランダムになり、その結果、原子や分子はもはやコヒーレントに振動しなくなる。これがデコヒーレンスである。』
『カリフォルニア技術研究所のウォジエック・ズーレックは、世界全体が古典的に見えるのはデコヒーレンスのためであると主張した。電子ビームに光子で衝撃を与えることができるように、あらゆる開放された系には光子や電子や原子などの粒子が絶えず衝突している。量子系は必然的に、その環境中の無数の粒子の運命に絡まり、この絡み合いがデコヒーレンスをひき起こす。干渉効果が消えてしまうために世界は古典的に見える。環境が量子系を測定するのである。』
『しかし、この世から消えるのは 「量子らしさの証拠」、つまり干渉効果だけであることを忘れてはならない。個々の粒子は量子の重ね合わせとして、なおも存在しているのだ。ただ見えないだけである。量子の奇妙さは隠れてはいるが、まだそこにあるのだ。』
『デコヒーレンスは、なぜ大きな物体の量子の重ね合わせの証拠を見ることができないのか、を説明してくれる。シュレーディンガーの猫と同じくらいの大きさの物体は、すぐにデコヒーレンスになびいてしまうだろう。その物体の原子や分子は無数の自由度をもち、おたがいや外部環境と相互作用を行なう。』
『よく、量子効果は超低温に限られるといわれるが、これは位相に依存する現象、たとえば多数の粒子のあいだに起こる干渉のような現象についてのみ当てはまることだ。量子跳躍、量子の重ね合わせ、不確定性、測定に影響される力学などの現象はすべて、たとえ高温であっても単純な量子系において保たれている。ただ、それらの現象は検出がむずかしいだけなのだ。』

むしろ、なぜ、きくまこさんは「大きな物体」に限った発言しかしないのか、そこにこそ、この議論の核心が存在するのだといえそうです。
(続く)
(続き)
以上、量子力学がどのようなものなのか、読んでいただけた方には多少ご理解が得られたものと思います。
次に、量子論を生物学などに応用することにより、新たな科学的考察がなされている現状を紹介します。

《生物活動は量子の世界そのもの》
『電子のトンネル現象(もちろん量子現象である)は、呼吸や光合成、そして多くの酵素メカニズムにおいて電子を輸送する役割を果たしていると広く考えられている。弱い電磁場は生体系に驚くべき効果を与えることが示されてきた。』

呼吸・栄養の摂取・細胞の増殖といったほとんどの生命活動は、全て量子効果を原動力としています。
生命の謎そのものが、量子力学の謎であると言えるかもしれません。
まずは、細胞活動において典型的な量子効果である酵素作用について紹介します。↓

『第五章において、酵素は細胞内の特定の経路にそって粒子を動かすことで仕事をすることを発見した。たとえば、乳酸デヒドロゲナーゼによって触媒される反応は、酵素タンパク質にあるヒスチジンと乳酸基質分子のあいだの経路にそって陽子が動かされることで始まる。あらゆる瞬間において、陽子は基質に向かって動いているか、ヒスチジン上にとどまったままかのどちらかだ、と考えるかもしれない。しかし、陽子はハイゼンベルクの不確定性原理に従う基本的な粒子であり、つねに位置状態の重ね合わせとして存在できる量子として記述されなければならない。実際には、陽子は量子の重ね合わせとして、両方の位置(ヒスチジンに捕捉されている位置および乳酸分子にくっついている位置)を占めていなければならない。同様に、DNA分子上のある位置から別の位置への陽子の運動(互変異性)によって始まるような変異を考えたとき、量子力学は、陽子は量子の重ね合わせとして、いちどに両方の位置に存在するということを教えてくれる。』


反対に、「生命の死」によって、肉体は徐々に量子的機能を失っていきます。↓

『内部量子測定はわれわれが死んだときに失われる。細胞が量子測定を行なう能力にとって重要なのは、生細胞の環境と基本粒子が絡み合った鎖である。すべての量子コヒーレンス現象と同様、この鎖はとてもあやういもので、細胞の構造的完全性に依存している。この鎖を切れば、ランダムな熱力学運動が急速に入ってきて、量子コヒーレンスを壊してしまう。量子コヒーレンスを失った死んだ細胞は、量子測定を行なうことも、熱力学第二法則のランダム化の影響に抵抗することもできなくなる。代わりにそれは、完全に古典的な無生物の物体に変わるだろう。死とは、細胞内の量子測定を不可逆的に失うことなのだ。』


さらに、量子的世界観においては、生命と非生命との境界も厳密には設定できないもののようです。↓

『現代科学 (この本も含む) は、生命が何やら不思議なものだという概念を完全に拒絶している。したがって、つねに非生命の世界に生命の側面を見いだすことができるはずである。生命の定義をより完全なものにするために、私は次のことを付け足したい。生命とは、熱力学的崩壊に対抗してその系の状態を維持する低エントロピー状態を捕らえるために内部量子測定を用いる系である。』
(続く)
(続き)
《量子干渉は進化にもかかわった》
以前立ち上げたトピックで指摘したように、ダーウィン進化論が主張する、「一つの種から別の種への漸進的(徐々にゆっくりとした)な変化」は、あまりにもそれを裏付ける根拠に乏しく、多くの反論に全く答えることができません。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38156985&comm_id=42238
著書ではこのように述べられています。↓

『新しいタンパク質遺伝子族は、既存のタンパク賀から、ある種の突然変異の過程によってできたはずなのだが、それらの配列がダーウィン進化論による中間部分をもたず、どうやって空っぽの広大な配列空間を飛び越えたのかは謎である。分子進化は一連の小さなステップによって進行することもあるが、時にはグールドとエルドリッジが唱えた区切られた進化のように大きな跳躍をすることもあるように見える。大きな跳躍というのは、新ダーウィン進化論にとって大きな問題である。』


「このダーウィン進化論の問題を量子効果を用いて説明できないか」が、この著書の主旨です。↓

『生命の起源のシナリオは、多くの量子的事象を伴ったにちがいない。原始的な細胞から脊椎動物やわれわれ人間までの生命の出現と発達には無数の変異が伴ったはずであり、それぞれの変異が起こったかどうかは量子事象が起こったかどうかにかかっている。』


この試みは、非常に大胆で、コペンハーゲン解釈などの量子論に基づいた概念を受け入れずには、とても信じがたいものとなっています。
ですから、私もこれが真実だという見解をとるつもりはありません。
しかし、別の見方をすれば、それほどの大胆な発想を導入しなければ、生命の進化の謎を解き明かすことができないということでもあり、古典力学の概念が生命現象にそぐわないのは、もはや明白な事実であると言えそうです。
著書では、古典的な「漸進的な変化」という考えを排除し、量子効果・多宇宙・逆量子ゼノン効果などの幸運を導入して、進化を説明しています。↓


《量子多宇宙》
『標準的なコペンハーゲン解釈を選ぶ多くの物理学者は、意識をもつ観測者が測定を行なうまで、宇宙全体が可能なすべての状態の量子の重ね合わせとして存在するはずだと考えている。』
『重ね合わせを形成していた何兆という他のペプチド (重ね合わせを終止させた自己複製物質を含む) はみんな消えてしまった。だが、それらはどこに行ったのか? 通常は、デコヒーレンスを失わないための頼りとして、量子多宇宙を引き合いに出す。多世界理論においては、ペプチドの状態の重ね合わせから生じる一〇の三二乗とおりのペプチドのそれぞれに対して、創造された別個の宇宙が存在する。自己複製ペプチドは、この二〇の三二乗とおりの宇宙のうちの一つだけで実体化するのだ。
私も最初にこの多世界仮説を聞いたときには容易に信じなかったことを認めなければならない。量子事象が選択を迫られるたびに宇宙が無数の並行する宇宙に分かれるという考えは不合理であり、宇宙のたいへんな無駄遣いに思われる。いま、私はよくわからなくなっている。ただ、この仮説のすばらしい利点は、いったんこの仮説を受け入れてしまえば、量子現象の解釈がずっと簡単になるということだ。』

多宇宙
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39645685&comm_id=2055789

この著書では、進化が唯一の世界の綱渡り的な幸運から構築されたのではなく、無数に存在する世界の中で、生命誕生にまでこぎつけた幸運な世界が、今目の前に実在するものなのだ、という主張に基づいて考察されています。
(続く)
(続き)
《逆量子ゼノン効果》
これは、量子効果が単発的に起こるのではなく、最初の効果が次の効果を生み出し、次々と連なって、数段高度の跳躍をするというというもので、光と遮光レンズの実験からそのヒントを得ているようです。↓

『逆量子ゼノン効果は量子測定の特性のひとつを表わしており、これは特定の経路にそって一連の密集した測従を行なうことによって、その系をその経路にそって引っ張れるというものだ。』
『このように、生命の起源を説明する従来の理論に欠けていた重要な成分は量子測定ではないだろうか。自己複製物質が自身の量子状態を古典領域に増幅することによってその状態を測定できるということは、生命の発生にとって非常に重要だった。いったん最初の自己複製細胞が発生すれば、あとは歴史に残っているとおりだ。』


(続く)
(続き)
《心も量子で説明できる》
『オックスフォードの数学者で物理学者のロジャー・ぺンローズは、著書『皇帝の新しい心』 (一九八九年) の中で、心は量子力学的現象だと提案した。ペンローズは、意識的な動作の現象は、量子力学の大きな謎、すなわち前の章で述べた波動関数の収縮に密接に結びついていると考えている。他の多くの科学者も、意識の量子理論を選択した。アメリカの科学哲学者ダナー・ゾーハーは著書『クオンタム・セルフ』の中で、量子力学の全体論的心理学の事例を示した。ゾーハーの夫イアン・マーシャルは、意識の物理的実在性は脳内のニューロンのボース・アインシュタイン凝縮物だと提案した。さらに最近では、スコットランドの化学者グラハム・ケアンズ=スミス (生命の起源は複製する粘土無機物だと提案したことで有名) は、このアイデアを『心はなぜ進化するのか』 でとりあげた。そうして、第一二章で述べたとおり、アミット・ゴスワミとデニス・トッドは、適応変異と意識的な意志作用とは共通の量子力学的起源をもつと提案した。
量子力学には、意識の説明として魅力的な面がたくさんある。量子測定の非決定論は、ニュートンの決定論からの脱出手段、おそらくはわれわれの自由意志の居場所を与えてくれる。ハンガリー生まれの物理学者で水爆の発明者であるエドワード・テラーの言葉を借りると、「量子力学に従えば、自由意志が未来を創造する過程の一部であるという可能性をわれわれは排除できない」。量子コヒーレンスも、多様な情報を単一のコヒーレント量子系に絡ませることによって、結合の問題の克服を助けるかもしれない。ユージン・ウィグナーをはじめとする多くの物理学者は、すでに意識を量子測定における収縮作用因として採用した。もし、意識が量子力学を説明できるとすれば、量子力学も意識を説明できるかもしれない。さらに、脳に量子力学を持ち込むことによって、脳もじつは量子コンピュータなのではないかという興味をそそる可能性が生まれる。』


きくまこさんのお仲間のたざき氏のページには「現代の物理学では、原子・分子といった小さなスケールから、天体や銀河といった大きなスケールまでの、「物の世界」での出来事を、いくつかの基本的な法則にもとづいて、ほぼ完全に理解できるようになりつつあります(それでも、「人間の心」は、わからない!)」とあります。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/md/abs.html#1

しかし、上記にあるように、「心は量子力学で解明できる」と考える科学者は、それなりに多くいらっしゃるわけです。
中でも、ロジャー・ぺンローズ、エドワード・テラー、ユージン・ウィグナーなどといった、物理学の巨匠がこの考えを支持していることは、むしろ、「心は量子力学で解明できる」という考えこそが主流であり、たざき氏らの主張のほうが科学界からの賛同を得られないものであるといえそうです。

ロジャー・ぺンローズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA
エドワード・テラー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%BC
ユージン・ウィグナー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC

「心の動きは量子力学的作用である」が真実ならば、どうして「感情が量子跳躍をして一滴の水に影響を及ぼさない」などと言い切ることができるのでしょうか。
ましてや科学の先達らの主張を全く意に介さずに、「水が言葉に影響されるなど、いい大人が信じる話ではなかったはずです。 」などと、どうして自信ありげに言い切ることができるのでしょうか。
量子力学がもたらす知見を得た現在、このような断言は非常に不可解であり、明確に、誠実な科学者がするべきではない「二分法的思考」であると感じます。
いかがでしたか?最後まで根気よく読んでくださった方には心から感謝します。
コメント504にある《参加型の宇宙》 などは、環境問題に関心を持つ私たちにとって、とてつもない贈り物のようではないでしょうか。
「宇宙の実在性が、実在するという意識をもつ観測者に依存する」とは、この「世界」という環境が、私たちと無縁でかかわりのないまま進行していくものではなく、私たちの感情、行動、それらが全て繋がりあい、環境を形成していく、つまり、環境とは私たちの命そのものであるということです。
多くの偉大な科学者が、この考えを支持しています。
「そんなのはまったくの嘘だ、ニセ科学だ」と主張する小物科学者達は、ただ単に打算的な意図を持って、私たちをこの考えから遠ざけようとしているに過ぎないのです。
以前このトピックで私は、「太陽活動が停滞してるのは、地球温暖化を心配する、私たち人類の総意が影響しているのではないか?」といった意見を述べましたが、これがただの空想ではないことが、少しはおわかりいただけたでしょうか。
このことは、東洋哲学の「因果応報」を彷彿とさせます。
科学は、東洋哲学が内包する「精神作用」的な側面を一切切り捨て、物質作用だけでこの世界の挙動を全て説明しようとしました。それが、「機械論的世界観」です。
しかし、その考えを推し進めたゴールに待ち受けていたのが、この「量子論」であったというわけなのです。
「量子論」は科学に、「心」あるいは「命」に立ち返ることを強く要請しています。
私が、『「現代の最新科学の知見」は、「感情の存在」を認め、「祈りの効果」を肯定するものだと考えます。』と述べたのは、決して私一人の希望的観測ではないのです。

私の考えを共有してくださる方がいてくださることを、心から期待します。というか、この考えが真実ならば、世界はそのように動き出すはずです。
うーん


質と量の問題がわからないようですね。
どのように解説差し上げたらよいのか悩みます。

あほらし。出先から携帯で読んだらえらいことになるが、しょうもない。
詩人さんはあいかわらず自分の都合の良い単語だけ抜き取って内容を脳内変換していますね。
「はじめに結論ありき」で考えるからこのようなことになってしまうのではないでしょうか。

量子論を突き詰めていくと、人間の意志や想い感情や祈り等といったことすらまやかしでしかない、機械的、数学的な物理現象の結果にすぎない、ということになりませんか。

あなたが今考えていること、それは本当にあなたが考えようと思って考えたことなのですか?
ここまで、病気がひどくなってしまったらちょっと対処できないなぁとか思ったよ。まあ、オレは医療関係者じゃないけどな。


自分で飲んでるわけじゃないけど、抗うつ剤とか抗不安剤とか抗精神病約とか睡眠薬見てると、人間ってしょせんケミカルな存在でしかないことがよくわかりますよ。自分の落ち込んだ感情や楽しいという感情も、所詮脳内物質のやりとりでしかありません。同じことをやっても脳内物質のレセプタが脳内物質を受け取らなければ感情は動きません。

#抗うつ剤等に頼れと言ってるわけではありません。脳の状態がまともになるまで薬の補助が必要だと書いてるだけ。


マクロスケールでは量子効果がほとんど起きないのは当たり前です。ちょっと計算すればわかる話。数式無しに量子力学の正確な理解はできません。詩人氏のようなトンデモに向かってしまうのは、啓蒙書だけを読んで理解した「つもり」になってるだけだからです。
私に対する批判コメントが並んでいますね~~。
この方々はなぜ、このようにこのトピックに付きまとい、私の評判を貶めようとしているのでしょう?
私の主張がまったくナンセンスなものであるなら、相手にせずにスルーしていればいいはずです。それがインターネットにおける通常の反応です。
しかし、この方々はそれができないわけです。それでいながら、私を批判する明確な根拠もない。

「あほらし。」
「ここまで、病気がひどくなってしまったらちょっと対処できないなぁとか思ったよ。」
「詩人氏のようなトンデモに向かってしまうのは、啓蒙書だけを読んで理解した「つもり」になってるだけだからです。」

↑ここには具体的根拠は一切ありません。
とにかく、私が間違ってる、狂ってると、ただただ言い放ってるだけです。
この中のお一人が、以前このようなコメントをしています。↓

『261 Yoshitaka
※第三者の方へ
ここは、「地球環境を守ろう!」というコミュニティの「新型インフルエンザ騒ぎを考えよう。」というトピックですが。トピックを立てた人が妄想を垂れ流すだけの場所になっています。
このトピックを読んだり、コメントするのは時間の無駄なので放置しましょう。
彼は現実が見えなくなっているのか、病気なのかどちらか(あるいは両方)でしょう。』

「第三者」をヤフー辞書で引いてみます。↓

『当事者以外の人。その事柄に直接関係のない者。』
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=12936111156500

つまりこの方々は、このコミュに参加する皆さんを「当事者以外の人」自分達を「当事者」だと考えているということです。果たしてこの相違はどこにあるのでしょうか?

自分は「このトピックの当事者」と思っていらっしゃる方々を今後、

ディーコン ニコチャン大王 ニコチャン家来 「チーム第二者」シルバーサーファー スッパマン ウンチくん

と、呼ばせていただきます。

この方々は、なぜ私を病気扱いして、みなさんをこのトピックから遠ざけようとするのでしょうか?
(続く)
(続き)
私は最近、「資本主義的思考」を一切捨てて生きる決意をしました。
「資本主義的思考」とは、自分の利益を最優先する考え方、といったところでしょうか。別名、「損得勘定」「打算」とも言います。
私は、資本主義経済は先がないと考えます。物は有り余っているのに、買う人がいない。失業者が急増している。これらは、資本主義の恩恵にあずかれる絶対数、つまりパイの大きさが小さくなっている証拠です。
このまま行けば、そのうち、旧ソ連が体験したような、貨幣の価値が突然急落し、ただの紙切れになる日が来るでしょう。それは社会的な大混乱を招き、非常に多くの人を苦しませることになるでしょう。
そうなる前に、新しい社会システムを用意する必要があると考えます。
そう考えた時、私自身が率先して「資本主義」にぶら下がる生き方を改めなければいけないと感じました。
つまり、「利益追求」の側面を極力切り捨て、「理想追求」の側面を最大限に追求しようと考えています。
「理想の自分」。その実現に向けて、人生の一時も無駄にせずに生きてみたい。そんな信条です。
とはいえ、私も生身の人間ですので、時には怠けてしまったり、私利私欲が心の片隅に沸き起こったりするかもしれません。それでも、そんな生き方を続けていく先に何が待っているのか、結末を確かめてみたいのです。


そうした時、「損得勘定」を最優先に生きている方々の心根が、どういうわけか見え透いてわかるようになります。
「ああ。この人は腹に一物あってものを言ってるんだな~~」という感じです。
先の「第三者」発言。ご自分があたかも、ボランティアで参加して善意の発言をしているかのように装ってはいますが、真相は「経営行為」であることを図らずも暴露しています。
この方々は、私の意見からみなさんを遠ざけることが「利益」つまり「仕事」なわけです。
インフルエンザ。地球温暖化対策。原子力。抗がん剤医療。これらは全て日本政府の政策です。私は、それらが私達民間になんら貢献していないことを知り、それを主張し続けています。この方々は、それが気に入らないのです。

みなさんは、「日本政府は、日本人の幸福を最優先に考え、行政している」とお考えでしょうか?
そうあってほしいという願いはあるものの、そうではないようだと、お考えの方が多いのではないでしょうか。
それは、ごくごく当然のことです。
日本政府でさえ、「資本主義的思考」の呪縛から逃れることはできません。なにごとも、政策決定者の利益が最優先に物事が決められます。
民主であろうと、自民であろうと、根本は変わりません。政権交代したことで、なおいっそう明確に理解できたことと思います。

そういった殺伐としたホンネを覆い隠し、善意に則って行政されているかのように見せかけるのが、マスコミの仕事です。
マスコミも「資本主義的思考」で動いているのですからこれもごくごく当然のことです。
そして、もう1つ、私が今皆さんに、一番強くお伝えしなければならないと思うのが、「科学」の役割です。
(続く)
(続き)
「資本主義的社会」においては、学問も全て「資本主義的思考」に支配されます。
環境問題。医療。エネルギー・・・・・すべて「利益追求」が第一に考慮されます。
権力者が最も利益を得られる事柄を真実と思い込ませる役目。それが「科学」です。
インフルエンザも地球温暖化対策も原子力も、「科学という裏付けがあるから真実だ」という主張のもとに推進されます。
確かに科学には、「真実を追究する」という目的がありますが、それが政治的に利用されることにより、「どれとどれを真実であるかのように見せかけるか、どれをニセモノとして排除するか」という選別がおこなわれます。
政府が「科学的に真実」と宣伝するもの。それらは、なにか「利益追求」のバイアスがかかっていないか、よくよく検証する必要があります。

逆に、「科学がニセモノと宣伝するもの」、つまり、「疑似科学」や「ニセ科学」と称されるものですが、これも本当にニセモノなのかよくよく検証する必要があります。
そして、「科学がニセモノと宣伝するもの」の中で、今私が正しく検証せねばならないと感じるのが、「祈りの心」です。

「祈りの心」は果たして、何の効果もない気休めなのでしょうか?
「いやそうとは言い切れない。そこには何らかの効果がありそうだ」と考え、研究する方々もおられます。超心理研究という分野です。↓

『1957年には、超心理学研究の水準を引き上げることを目的として、アメリカ合衆国で超心理学会(超心理学協会、PA)が結成された。この学会は、世に認められている通常の学問分野と同様に、査読制度を採用した専門誌を発行している。』
『1957年に設立された「超心理学協会」は、1969年に米国科学振興協会の下部機関に認定された。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6

アメリカでは、正当な科学としてこの分野は認められています。
ところが、日本では「ニセ科学キャンペーン」の攻撃対象にされているわけです。
とあるトピックで、菊池誠という「ニセ科学キャンペーン」の中心人物と意見交換をした時、彼はこのような発言をしています。↓

『江戸時代程度にしか量子力学を理解していない僕からのアドバイスは、「とにかく、啓蒙書でかまわないから、まともな量子力学の本を何冊か読んでください」に尽きます。ダナ・ゾーハーだのディーン・ラディンだのをいくら読んでも、量子力学のことなど、これっぽっちも理解できません。 』

「ダナ・ゾーハーだのディーン・ラディン」というのは、超心理学の研究者たちです。そういった人たちを菊池誠氏はなぜ、「あんな人々の言うことは嘘だ。自分の主張が正しいのだ」と、自信ありげに言えるのでしょう?
そこには、明確な根拠などありません。この言葉は、「資本主義的思考」つまり「利益追求」の立場で発せられた言葉です。
ですから、菊池誠氏もれっきとしたディーコン ニコチャン大王 ニコチャン家来 「チーム第二者」シルバーサーファー スッパマン ウンチくん の一員なのです。
(続く)
(続き)
さて、私が「世界で最も敬愛する人は誰?」と聞かれたら、真っ先に名前をあげるとしたら、ジョン・レノンです。
彼は、マスコミ報道では、「有名なポピュラーミュージシャンで、気の毒にも狂ったファンに撃ち殺されてしまった」といった報道になっていますが、実際は、紛れもなく「暗殺」されたのです。
彼の歌は彼の思想そのものです。
自らの宗教観を歌ったものに、「God」という歌があります。↓

『僕はイエスキリストを信じない。

僕は仏陀を信じない。

僕はマホメッドを信じない。・・・・・・

ただ僕だけを信じる。僕とヨーコだけを。』

非常に衝撃的な歌です。
無宗教を宣言した歌だと捉えられていますが、私はそうは捉えていません。
ジョンは自分(命)とヨーコ(愛)を信じるといっているのです。
彼が心から信じ、世界に広めようとしたもの。それは「マインド(心)」の力です。
「マインドゲームス」という歌は、それをダイレクトに伝えています。↓

『ぼくら、マントラの平和を祈り

永遠にこの心を生かし、

毎日を送るんだ。』

この言葉、この思想に、私は強く共感します。
ジョンにははるかに及ばないものの、私も「永遠にこの心を生かし」て生きていこうと思っています。

ジョンは平和活動にも積極的に参加し、「ハッピークリスマス〜戦争は終わった」「Power To The People」などではベトナム戦争反対の抗議運動を支持し、「イマジン」は放送禁止処分になり、アメリカに移住する際には、政府による不当な弾圧を受けました。
日本のマスコミは、そんなジョンの姿を極力排除し、ただただ「平和を愛するジョン」的な扱いをしていますが、それは事実を捻じ曲げています。
アメリカ移住を果たし、何年かの隠棲生活のあと、復活宣言をしたアルバム「ダブルファンタジー」を発表した直後、ジョンは殺されました。
ジョンの社会への強い影響力が再び発揮されることを恐れたためです。

もしかしたら、私にもそのような運命が待ち受けているのかもしれないと、思う時があります。
とはいえ、まだまだ「名もなき詩人」に過ぎないので、当分は大丈夫だろうという気がします。
しかし、日本の警察は不当逮捕を平然とやる集団ですので、そういった迫害は今後受けるかもしれません。私が変な消え方をしたら、どうかそういったことを疑ってみてください。


もうすぐ完成予定の私の新作CDには、敬愛するジョンのカバーを入れました。↓
http://www.voiceblog.jp/namonakisijinnnouta/1118312.html

著作権がど〜のこ〜のと、削除されてしまう恐れがありますので、気に入ってくれた方は早めにダウンロードすることをお勧めします。

とはいえ、このCD、欲しい人には「資本主義的思考なし」つまり、ただであげますので、待っててね~~。
量子論で考える、という方向で話が進み始めたので、それって量子論的に考えるとどうなの?って質問したつもりだったのですが読み取ってくれなかったのですかね。残念です。
「答えられないから話をそらした」とは考えたくないので出来れば答えていただきたかった。

>量子論を突き詰めていくと、人間の意志や想い感情や祈り等といったことすらまやかしでしかない、機械的、数学的な物理現象の結果にすぎない、ということになりませんか。

522 ぱぷーさんへ
>量子論を突き詰めていくと、人間の意志や想い感情や祈り等といったことすらまやかしでしかない、機械的、数学的な物理現象の結果にすぎない、ということになりませんか。

それに対する返答は、このような引用が適当かと思います。↓

『このように、原子物理学では科学者は独立した観測者という役割を演じることができず、つねに対象の性質に影響を与えるような関わりをもってしまう。J・ウィーラーは、この観測者の関わりを、量子論のもっとも重要な特徴ととらえ、「観測者」という言葉を「関与者」という言葉に置き換えることを提案した。ウィーラー自身が言っている。

量子の本質に関してこれ以上重要なものはない。それは観測者が20センチの板ガラスで安全に仕切られて「外から傍観している」といった世界観を覆すものである。電子のごとき微小物体を観測するにしても、観測者はそのガラスを粉々に破壊せねばならない。中に入らざるを得ないのだ。そして自分が選んだ装置を取りつけなければならない。位置を測定するか、運動量を測定するか、それは観測者しだいだ。一方を測定する装置を取りつければ、他方を測定する装置の取りつけは阻止され、不可能になる。さらに、測定行為は電子の状態を変えてしまう。どんなものも二度と同じ状態にはならない。起こった事実を記述するには、これまで使われてきた「観測者」という言葉を捨て、「関与者」という新たな言葉に置き換える必要がある。ある意味でこの世界は関与者の世界である。 
「タオ自然学 フリッチョフ・カプラ」より』

「関与者」とは、「意志や想い感情や祈り等」をもって、観測装置に影響を与えてしまう状況にある者、という意味です。
「観測装置」とは、ある条件の下に隔離した環境を意味します。
つまり、厳密に不確定要素を排除した実験において、人は実験結果と独立した存在であり続けることができない、ということが判明しているのです。
つまり、あなたの主張は間違ってます。

ちなみに、このことは原子力がまったくの疑似科学であることを示唆します。「放射能を外部環境に漏らさない」という前提が成立しないからです。
>523 名も無き詩人で地球さん

>『このように、原子物理学では科学者は独立した観測者という役割を演じることができず、つねに対象の性質に影響を与えるような関わりをもってしまう。J・ウィーラーは、この観測者の関わりを、量子論のもっとも重要な特徴ととらえ、「観測者」という言葉を「関与者」という言葉に置き換えることを提案した。ウィーラー自身が言っている。


この説に関して、自分もそう思います。
観測することで対象の性質に影響を与えてしまう。そのとおりと思います。

>「関与者」とは、「意志や想い感情や祈り等」をもって、観測装置に影響を与えてしまう状況にある者、という意味です。
「観測装置」とは、ある条件の下に隔離した環境を意味します。

これに関しては違うと考えます。
あくまでも観測するという行為が対象に影響を与えるのであって、何もしなければ影響はありません。また、観測装置は関係ありません。まあ、観測装置を「見る」という行為によって観測装置に影響を与えるといえばそうなりますが。



>このことは原子力がまったくの疑似科学であることを示唆します。「放射能を外部環境に漏らさない」という前提が成立しないからです。

これについては意味が良くわかりません。「放射能を外部環境に漏らさない」ということが原子力の前提になっているとは知りませんでした。



あと、522の問いに対して観測者問題が引用される意味が判りませんでした。すいません。自分の質問の仕方が悪かったようなので改めて。

「意志や想い感情や祈り等によって対象・現象に影響を与えるのか否か」ということを聞きたいのではなくて
「意志や想い感情や祈り等というものそのものが機械的、数学的な物理現象の結果にすぎないのではないか」ということです。




524 ぱぷーさんへ
>>「関与者」とは、「意志や想い感情や祈り等」をもって、観測装置に影響を与えてしまう状況にある者、という意味です。
「観測装置」とは、ある条件の下に隔離した環境を意味します。
>これに関しては違うと考えます。

量子レベルの世界が人類に開かれた時、それまでの「機械論的世界観」で信じられてきた「観測者がまったく影響を与えない観測装置」というものがありえないことが明らかになりました。観測者は何らかの行為を観測結果に影響させてしまいます。
この「何らかの行為」が感情や祈りでは決してないとは断言できないということです。
それを専門的に研究する分野が超心理学であり、アメリカでは科学として認められていることは、既にコメント520で述べています。


>>このことは原子力がまったくの疑似科学であることを示唆します。「放射能を外部環境に漏らさない」という前提が成立しないからです。
>これについては意味が良くわかりません。「放射能を外部環境に漏らさない」ということが原子力の前提になっているとは知りませんでした。

『しかし、原子力の利用により、放射線、放射線を放出する能力(放射能)を持った物質(放射性物質、放射性廃棄物)が発生する。放射線は、その量や強さに応じて生物に対して悪影響を与える(放射線障害と呼ぶ)ため、これを適切に防護(放射線防護と呼ぶ)する必要がある。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B

「適切に防護する必要」は原子力の前提です。これは同意しますね?
さて、「適切な防御」とはいったいどのような状態をさすのでしょうか。
通常の原子力の場合、外部環境から隔離した空間に、放射性物質を閉じ込めるという方法が用いられます。
「外部環境から隔離した空間」を作り上げるには、「外部と内部からの影響を一切受けない物質」が必要です。しかし、これは地球上あるいは宇宙全体で考えても存在しません。
放射線は地球上のどんな物質をも透過し、放射化させ、組成を脆化させてしまいます。
ちなみに、文科省の下部組織である環境科学技術研究所のHPにある資料にはこのようなことが書かれていますが、科学的に完全な間違いです。↓

『中性子線、ガンマ線やエックス線は、物質を投下する強い力がありますが、鉄、鉛、水、コンクリートなどで止めることができます。』
http://www.ies.or.jp/japanese/mini/RelationPDF/RoNaE-01R.pdf

放射線を外部環境に漏らさない、つまり「適切に防護する」ことは本質的に不可能なわけです。それができるという信念によって推進されていることから、原子力は疑似科学だと考えます。


>「意志や想い感情や祈り等というものそのものが機械的、数学的な物理現象の結果にすぎないのではないか」ということです。

もしそうだとしたら、ある音楽を聞いた人は全て機械的・数学的に一律な反応を示すことになると思いますが、そうならないのはなぜですか。
先に、「適切に防護する」とはどういうことかを定義しないと、話にならないと思います。
例の口蹄疫の状況をみると、やっぱり感染症対策は過剰なくらいで正解だとしみじみ思うね。

後で「ちょっとやり過ぎではなかったか」なんて評価され、批判されるくらいは丁度いい。

拡大した場合は、ケタ違いに悲惨なことになるんだからさ。
放射線と放射能の使い分けも、厳密にする必要があります。
>525 名もなき詩人で地球さん

観測者の問題について。

>観測者は何らかの行為を観測結果に影響させてしまいます。

ここで言う「何らかの行為」というものは「観測する」という行為のことであると考えます。したがって詩人さんのいう

>この「何らかの行為」が感情や祈りでは決してないとは断言できないということです。

という考えには同意できません。



原子力の問題について。

>「適切に防護する必要」は原子力の前提です。これは同意しますね?

同意しません。



機械的・数学的な物理現象の問題について。

>もしそうだとしたら、ある音楽を聞いた人は全て機械的・数学的に一律な反応を示すことになると思いますが、そうならないのはなぜですか。

全く同じ条件の複数の人間が全く同じ条件で全く同じ音楽を聴いたら一律な反応を示すと思います。
一律な反応を示さないようにう見えるのは条件が異なるからです。
529 ぱぷーさへ

予想はしていましたが、あなたとの議論もそろそろ不毛なものになってきましたね。
このコメントを最後にします。

>ここで言う「何らかの行為」というものは「観測する」という行為のことであると考えます。したがって詩人さんのいう
『この「何らかの行為」が感情や祈りでは決してないとは断言できないということです。』
という考えには同意できません。

「観測する」行為自体が意思の産物です。観測するしないの決定は観察者の意思にゆだねられており、観察物がそこにあれば機械的に観察してしまうというものではありません。
よって、観察行為の全てを機械的作用で説明できるという考えは誤りです。


>「適切に防護する必要」は原子力の前提です。これは同意しますね?
>同意しません。

つまり、原子力は「適切な防護」は重要な要素とは考えていないということですね。
いい加減な放射線透過の説明、いい加減な防御の理由がわかりました。回答ありがとうございます。


>全く同じ条件の複数の人間が全く同じ条件で全く同じ音楽を聴いたら一律な反応を示すと思います。
一律な反応を示さないようにう見えるのは条件が異なるからです。

「全く同じ条件の複数の人間」「全く同じ条件」というものが、物理的に存在するのですか?存在するとしたら例示していただきたいものです。
あなたは、証明不可能だということをわかっていながら、あなた独自の予想をして、それだから私が間違っているというわけです。
これ以上議論する価値はないと判断します。
>530 名もなき詩人さん

>「観測する」行為自体が意思の産物です。観測するしないの決定は観察者の意思にゆだねられており、観察物がそこにあれば機械的に観察してしまうというものではありません。
よって、観察行為の全てを機械的作用で説明できるという考えは誤りです。

観察者が「観測しよう」と思っただけでは対象に対して影響は与えません。観測するために何らかの物理的行為を行って初めて影響が与えられます。
また、「観測しよう」と思わずに事故、または偶然に何らかの物理的行為が行われてしまった場合も対象に影響を与えてしまいます。
観察者の意思とは関係ありません。



>いい加減な放射線透過の説明、いい加減な防御の理由がわかりました。回答ありがとうございます。

自分は「原子力」の前提として「適切に防護する必要」というものを想定していませんが、原子力開発・利用を考えている人が「適切に防護する必要」を想定しているかどうかは別の問題です。残念ながら自分は原子力開発・利用を推進する立場の人や団体に自分の考えを押し付けられるほど力はありません。



>>全く同じ条件の複数の人間が全く同じ条件で全く同じ音楽を聴いたら一律な反応を示すと思います。
一律な反応を示さないようにう見えるのは条件が異なるからです。

これは詩人さんの質問「同じ音楽を聴いても同じ反応をしないのはなぜか」という問いに答えたものです。
同じ反応をしないのは条件が異なるからだ、というのが自分の答えです。
判りますか?
「条件が違えば反応が異なる。条件が同じなら反応は同じになる」というのが自分の考え、それに対して
「条件が違えば反応は異なる。条件が同じでも反応が異なる」というのが詩人さんの考え。
「全く同じ条件」を例示して説明する必要があるのは詩人さんの方です。




話していることの意味が判らないし調べる気もない、ならばこれ以上話を聞くことに価値は無いでしょう。
ただ、自分としては不正確な認知のまま語られるコトバをそのまま鵜呑みにするのではなくて、きちんと自分の頭で考えてほしいと思っているので、ここで語ることは無価値とは思いません。



 毎年、季節性のインフルエンザで数千人の日本人がお亡くなりになっているようですが、昨年の新型インフルエンザではどのくらいの死亡者が出たのでしょうか?
 今年も、8月以降の流行があるのかどうかが気になります。

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