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京都の街に嵐電コミュの愛宕山鉄道

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戦中に不要不急になった愛宕山鉄道。
なんどか京都嵐山には行っていますが、その痕跡について
色々とご教示頂ければ幸いです。

なんとか模型化したいとは思っております。

元阪急1型が使用されていたということは軌間、電圧こそ
同じでもホームの高さが嵐電とは異なっていたのではないかと
推測されます。

コメント(70)

>Gomiさん、いづぼん宣言さん
書き込み有難うございます。

鳥居本駅から何故か新京阪の松尾駅(当時は松尾神社前)になるのが今見ると「?」ですが、阪急嵐山線がかつて複線だった証拠画像と言う意味では貴重ですね・・・。(汗

>30のいつぼん宣言さんの三枚目の画像ですが、レイル誌では京阪京津線では無いか?との事でしたが、前面三枚窓でポール集電と言う事から京津線が叡電と見えますが如何でしょうか?

>モボ105様

3枚目の写真
僕はエイデン京都電燈のモボ1型と見ていますが・・・

背景がおそらく比叡山で宝ヶ池付近かと・・・

踏切でのカットなのでほんの3秒くらいですが・・



ちなみにこの鉄道に関するカットは30秒ぶんあり・・

愛宕山(鳥居本での乗車シーン)⇒エイデン(クルマが待つ踏切通過シーン)⇒新京阪(松尾での降車シーン)と目まぐるしく変化します。
〉30
2枚目の画像をみると連結器が独特の形式ですね。「幻の鉄道「愛宕山鉄道」を訪ねて」で『トロリーポールによる集電でバッファー(緩衝装置)をつけていたのが特徴です。 』と書かれていますが、集電装置ではなく連結器が緩衝装置なのかな?とも思えてきました。

また連結器があるのなら2連の運転もしていたのでしょうか?ならば5台の保有車両なら運転間隔は10分間隔ではムリで15分か20分間隔なのかなぁ…??
>いづぼん宣言さん、Gomiさん
書き込み有難うございます。

>いづぼん宣言さん
実物の映画は見ていませんが、他にも何故か東京を阪神電車が走っていたり、主人公の家の裏に厳島神社があるなど色々と変な所が目立つ様で・・・。(汗

>Gomiさん
北大阪電鉄1形の当初の写真を見るとバッファーとピンリンク式の連結器になっているので、そのまま持って来た様ですね・・・。
こうやって映像で見ると愛宕山は嵐電と接続していたとは言え、
軌道線ではなく、鉄道線車両であると言えます。

嵐山駅でポイントは昔のことですから繋がっていたとは思いますが、
どうだったのか気になるところです。

*最近普段使わない別事業者のポイントは外す傾向に有りますが....


>がはく@台湾独立さん
書き込み有難うございます。

嵐山駅手前は嵐電と愛宕山で短距離ながら複々線になっていたとの事ですが、生憎ポイントの事には触れられている資料が無いので分かりかねますが、昔の事なので恐らく繋がっていたのではないかと・・・。

一枚目が北大阪電鉄→新京阪時代の1型です。新京阪が1500Vに昇圧になり愛宕山に移ってからも目立った改造もされてないことがわかります。

二枚目三枚目がなぜか東京市電も行き交う東京市内であるはずの『新しき土』で現れた阪神電車のネオンです。浜甲子園行きなどと書かれています。昭和11〜12年頃のロケなので阪神梅田地下駅完成(昭和14年)前の貴重な映像ですね。因みに阪神電車そのものは現れません。

>>モボ様

>三枚目の画像ですが、レイル誌では京阪京津線では無いか?との事でしたが


その後画面を詳細に調べると、左端に築提上を行く蒸気機関車がはっきりと見えましたので、京阪京津線の御陵〜京阪山科(当時は毘沙門道)間で間違いないと思います。昭和45年までポール集電であったので・・

>>Gomi様

おそらく、千日詣りや初詣、行楽シーズンの繁忙期だけは2両連結運転をしていたのではないでしょうか。ホームもそれくらいの長さはあったみたいですから。
運転間隔もそういったときは頻発してたのでは・・

>>がはく様

ポイントは愛宕山⇒パンタグラフ、嵐電⇒ポール集電だったのでつながっては無いと思いますがどうなんでしょうね?
複々線といっても短く嵐山駅から今の嵐山高架道路の立体交差までとのことです。

ちなみに「新しい土」のDVDは大きいTSUTAYAで普通に貸し出していたり、amazonで売っていたりするので興味のある方はどうぞ・・
いづぼん宣言様
>嵐山駅から今の嵐山高架道路の立体交差
たぶんそうだと思っていました。あそこまでちょっと今の線路も
変則的ですし。
しかし愛宕山鉄道の本数からして単線だと思っておりましたが、
一部でも複線だった様ですね。
しかし本鉄道がもし1067mmで沿線になにかしらの工場とかあったら
不要不急ではなく、存続したと思います。
戦中なら無理して蒸気機関車乗り入れとかやったことでしょう。


>いづぼん宣言さん、がはく@台湾独立さん
書き込み有難うございます。

>いづぼん宣言さん
http://mixi.jp/show_bbs_comment_picture.pl?bbs_id=32503473&id=437977704&comm_id=1131623&number=30
改めてこの画像をよく見てみましたが・・・、電車の左に蒸気機関車の煙らしき物が見えましたので、山科大築堤付近で間違い無さそうですね。
電車は京阪本線から大津線に転用された木造車100形かと思いましたが、昭和15年大津線入りとの事なので当てはまらないですし、これは謎のままです・・・。

>がはく@台湾独立さん
嵐山駅から東を見るとやや嵐電の線路が南に不自然に寄っている感じがしますが、いかがでしょうか?
場所柄上、今でも大きな工場が出来そうにもありませんし、観光路線一色なのが短命に終わらざるを得なかったと言えそうですね・・・。
〉38:いづぼん宣言さん

wikipediaによりますと運転間隔は20分間隔で、所要時間は11分とのことですから稼動は2両か3両で車庫か発着駅での整備待機が3両か2両でしょうね。それなら繁忙期だけの2両連結も可能に思えます。

ダイヤはググっても見当たらなかったのですが、嵐山・清滝の両駅で同時刻発車なら釈迦堂あたりでのすれ違いが見られたかもしれません。

>がはく様
>モボ105様


あの沿線に工場はどう考えても無理かと・・・風致の問題もありますし。
仏野念仏寺などスピリチュアルな土地ですから・・

やはり観光のみかと。

蛇足ですが、清滝トンネルが愛宕山電鉄廃止後陸軍の手によって接取され
旋盤の機械が運び込まれて軍用機のプロペラ工場として稼動しかけたものの、
ちょうど終戦を迎えてしまったというエピソードがあります。

そう考えるとバスが河原町や京都駅から乗り入れる今のスタイルがベストなのかもしれません。春・秋の嵐山が混雑してバスが動かない時はどうかと思いますが。ケーブルでも残っていたらと思うこともありますが・・
 地元民からみて、今でもローカル豊かな地域、住宅もぼちぼちの所です。当時はもっと、何もなかったでしょう。
 ところで、愛宕山には当時、遊園地とスキー場があったと言うことですが、確かに冬、うっすらと雪を頂いている姿を見ますが、スキーが出来るまでは積もっていないような気がします。これからして地球は温暖化している、と思います。 鉄道と何の関係もない話ですいません。 

>ニョロ様

なるほど、今思うと21世紀に入ったとたんに閉鎖されてしまった比叡山頂遊園地と比叡山人工スキー場の二の舞になっていた可能性が大ですね・・

⇒愛宕遊園とスキー場。

しかし、僅か10年程で閉鎖されてしまった儚さに現代人は良き戦前の日本の娯楽にロマンを感じてしまうのです。
〉42:いづぼん宣言さん
》やはり観光のみかと。

観光が主であったことは否めませんが生活幹線でもあったようです。
右京の図書館が移設され郷土史資料も揃ったと聞いたのでいってきたのですが
《実はCD・DVDを借りられると聞いたので ですが(笑)》
嵯峨小学校100年史−題名うろ覚え−に昭和4年に清滝分教場の閉鎖が「愛宕山鉄道の開通により」との理由が明記されていました。19年に再設したか否かは記載されていませんでしたがトンネルは残っているのだから試峠を越えなくても良いから再設しなかったのかも知れません。
>Gomiさん、いづぼん宣言さん、ニョロさん
書き込み有難うございます。

>Gomiさん
路線距離や需要を考えると普段は単行同士の二運用で、残り三両が車庫で検査か待機、千日詣等の混雑時は二両連結で一両待機辺りとなる所でしょうか?

>いづぼん宣言さん
少し話題がずれてしまいますが、阪急京都線の洛西口駅はほぼ同じ場所に終戦直後二年間だけ物集女駅があったとの事ですが、あそこも今の自衛隊桂駐屯地にあった軍用機工場の為に作ったはずが、軍用機をさほど造らない内に終戦と鳴ってしまい、何故か駅が出来たのも戦後だったのですぐに廃止となってしまったとの事です。

>ニョロさん
愛宕山でも普通に雪がたくさん降っていてスキーが出来ていたとなると、当時はもっと雪が降っていた事になるので、完全に温暖化が進んでいますね・・・。
 運転間隔20分、ものによると10分間隔とも。今では住宅地の面もあるけれど、当時は……。愛宕山鉄道は営業成績も良かったように聞いています。経営努力次第で人は集まる見本ではないか、と思っています。嵐電も頑張れ!
>ニョロさん
書き込み有難うございます。

今では住宅地も所々にありますが、当時は本当にまばらだった事を思うとなかなか健闘していたと言う事で・・・。

話がずれますが、浜松にある遠州鉄道は地方私鉄ながらオール自社発注の新車でお客さんも昼間でも結構居たのを見ると「地方のローカル私鉄でもやれば出来る!」と言うのを体で示していたので、嵐電ももっと頑張れると乗って密かに感じた次第です。
8月20日京都入りになりました。
廃線跡全部辿るのは苦しいですが、一部だけでも
見てイメージ作りしたいと思います。


大阪で、思ったおり商談で時間を食いまして、結局嵐山高架道路付近だけの
散策となりました。
しかし現在の高架道路だと嵐電と直角になっているわけですから、
たぶん廃止後土地の一部は民家に使われたのでしょうね。

あと、この電車のキット購入したのですが、なんか似ている様な
気がします。
雰囲気だけでも使えるのではないでしょうか?

http://www.shinise.ne.jp/options/shinise/or_goods.asp?temp_id=10093&shp=214
清滝トンネルから嵐山高架道路付近までの車窓風景を味わいたければ
ロケーションビュー
http://www.locaview.com/
がお勧めです。googleのストリートビューでは未撮影の箇所ですが此処ではしっかりと…手(チョキ)
しかも清滝トンネルにポイントを置いておいて地図を下に出して嵐山高架道路をクリックして[ここにいく]を選べば自動的に往ってくれます。
>がはくさん、Gomiさん
書き込み有難うございます。

レイル誌によると今の嵐山駅を出て最初の踏切の辺りから滑らかにカーブしていた様なので、民家にも転用されたと見て間違いないですね。。。
モボ105さん
市電の交差点の様に急カーブで直角に曲がることは
できないと思いますので、この写真の右の家が線路あとでは
ないかと推測されます。
例のペーパークラフトの阪急タイプの電車、屋根だけは
発泡塩ビの削り出しに変更します。
ダブルルーフにするとだいぶ愛宕山鉄道に似てくると思いますけど。
幅が合えばダブルルーフの客車用屋根板がありますから使えます。

ロケーションビュー
残念ながら登録とかうまくできませんでした。
がはくさん

地図を見ますと、嵐山駅を出て、最初の踏切に行く途中、
民家の境界が不自然に斜めになっているのが見つかります。

たぶんこれが愛宕山鉄道の線路が通っていた名残なのではないかと思います。

同様の例は、東山三条付近にもあり、京阪電鉄京津線(昔の京津電軌)が、
三条通りより北側を走っていた時代の線路跡として、知られています。
へくとぱすかるさん
変に斜めになっている家とか土地ってそうゆう元軌道跡が時々ありますね。
以前松山のユースホステル前の家が斜めだったのですが、そこのおばさんの
話では、元軌道跡だったそうです。

京都SF小説ちょっと拝見しました。
また期待しております。

嵐山高架道路から嵐山の駅へ歩く途中、しゃれた喫茶店がありました。
時間の関係で入れませんでしたが、また次回。

元愛宕山鉄道のホームだったところの倉庫が何やら整備していました。
戦後も残っていれば、こんな感じだっただろうという
ことで

社朗はさんけいさんの”なつかしの電車、6号車”です。
阪急の古典車っぽい車両です。

>がはくさん、へくとぱすかるさん
書き込みありがとうございます。

画像がありませんが・・・、嵐山駅の足湯の所から最初の踏切の左側を見てみましたが、民家の所が不自然な感じでしたので改めて怪しい雰囲気がしました。

話が外れますが、阪急千里線吹田付近の東海道本線をアンダークロスする付近にも両線を繋ぐ様な不自然に滑らかな道路があるとの事ですが、かつて阪急の南方〜吹田間の線路が東海道本線の線路跡で、そこで繋がっていたそうです。
モボ105 さん
もう5日になりましたが、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
もし愛宕山鉄道が残っていたら年末年始は混雑したでしょうね。

やはり廃線跡というのは、なんとなく残っているものですね。
今も京都、滋賀あたりで残る廃線跡で、特に連絡線跡というと
膳所の連絡線のスロープでしょうね。
数年前に柵が出来てしまい、残念ですが。
〉59:がはくさん
》今も京都、滋賀あたりで残る廃線跡で、特に連絡線跡というと

丹波橋の京阪駅から近鉄へ向かうスロープをお忘れなくウインク
>>>今も京都、滋賀あたりで残る廃線跡

最大のものは、やはり、旧東海道線あとの名神高速道路でしょう。
(おもかげも、イメージも全然そうは思えませんが)
『新・鉄道廃線跡を歩く4 近畿・中国編』
http://www.amazon.co.jp/dp/4533078613/
に愛宕山鉄道が載っています。
【目次】(「BOOK」データベースより)
東海道本線旧線─大阪〜京都〜大津〜米原〜関ケ原/愛宕山鉄道─平坦線 嵐山〜清滝:鋼索線 清滝川〜愛宕/江若鉄道─浜大津〜近江今津/中舞鶴線─東舞鶴〜中舞鶴/北陸本線旧線(柳ケ瀬線)─木ノ本〜鳩原信号場(敦賀)/加悦鉄道─岩滝工場〜丹後山田〜加悦〜鉱山/北丹鉄道─福知山〜河守/出石鉄道─江原〜出石/明延鉱山鉄道─明延〜神子畑:神新軌道─神子畑選鉱場〜新井/南海電鉄和歌山港支線─和歌山港〜水軒〔ほか〕

車両写真も何点かあり側面に社章が描かれていたことや連結器の形状も確認できます。
Gomiさん
実は8月下旬嵐山行ってきて、また高架橋下少し歩きました。

書籍拝見させていただきます、有難うございました。
山上駅舎、まさに先人たちの夢の跡ですね。

感動しました涙

京都シネマで『新しき土』が上映されています。(8/24まで)
http://www.kyotocinema.jp/schedule/index.php

京都以外の上映都市 期間はここで…
http://www.hara-eiga.com/screen/screen.html


日文研にある吉田初三郎の鳥瞰図
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2159.html
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2395.html
です。(部分)

ややディフォルメされていますが、きっちりと「愛宕山鉄道」が描かれています。
Gomiさん
こうゆう俯瞰図があると、わかりやすいですね。
『新しき土』(1937)に写っている踏切について。
いずっちゃんさんのコメント30にある三枚目の写真ですが、
現在、映画そのものがYoyTubeに公開されているので、これを確認しました。

映画の最初から、1時間15分ごろに、愛宕山鉄道、阪急とともに登場します。
この踏切の風景は、現在の三条通の府道(三条大橋から大津に向かう)で、
当時はこれが国道1号線でした。
京都地下鉄東西線の開業とともに廃止された区間の、
旧御陵から京阪山科(当時・山科駅前)の間でまちがいないと思います。

山科区の天智天皇陵そばの、現在の交番付近から撮影しているものと思われます。
背景の山の稜線と光の方向を考えて、
道路の北側から、東の大津方向にクルマは走っており、
踏切を行く電車は、山科駅前から、旧御陵駅に向かう三条行きでしょう。
映画ではとても車番の確認は無理ですが、
全体の丸いスタイルと全体の長さからみて、京津線の30型だと思います。
高田隆雄写真集『追憶の汽車電車』にある、1930年撮影の30型の写真と比較しました。
ダブルポールですが、京津線の古い写真では、戦前はまだ二本だったようです。

また、踏切の遮断機の形も、廃止時のこの踏切に使われていたもので、
道路が広いので、このような途中から折れる形を道路の両側から下ろすようになっていました。

また、クルマの車内から見た場合、前方には国鉄東海道線(現在のJR)の突堤が見えるはずです。
道路は、数十メートル先で、東海道線の高架橋の下を通るのですが、
左側には突堤の続きがあるはずで、現に映像に写っています。
もちろんこの突堤は、鉄道ファンには超有名な、山科のカーブとして知られているものです。
1921年に開通した東山トンネルの土を利用して造成したものですが、
まさか映画で戦前の姿を見られるとは思ってもみませんでした。

写真単独では、なかなか解読しがたいものがありましたが、
動画を検討した結果、いずっちゃんさんの推定が正しいことがはっきりしました。
報告というか、改めて確認させていただきました。

YouTube はありがたいですね!
>>[68]

過去ログを見てみると誰もYoutubeを貼ってなかったので、貼っておきます。


昨日、嵯峨釈迦堂へ行ったときに嵯峨小の校門前にある掲示板に学校の過去風景写真があったのでアップしておきます。中央列下段の写真のキャンプションに<東側(右端)に愛宕山鉄道の線路が見えています。>と書かれていました。久々に釈迦堂ヨコの森嘉のひろうすを夕餉に頂きました。愛宕山鉄道沿線後巡りをされるなら是非是非購入をお勧めします。高校時代に友人宅の帰りに豆腐を買い単車で持って帰ったら頼んだ母親に嘆かれたので(笑)ひろうすか薄揚げ厚揚げにされた方が無難ウインク
つhttps://goo.gl/maps/wUPCTetLDW757Bqf9
ストリートビューでこんな所まで映しているんだ!

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