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オールドプロ野球ファンコミュの捏造版・南海ホークス球団史

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(※)私の日記に書いたのと同じ内容ですが、
このトピの皆さんにも是非読んでいただきたいと思い、
転載しました。

■当該日記はこちら
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=306281329&owner_id=268032

(5+`・ゝ´)<いや、なんばパークス行ったときに、
そこまで野村さんを抹殺したいなら、
球史自体を、下のように書き換えないと
いけないんじゃないかと思って、書いてみました。

筒井敬三さん、D・ブレイザーさん、松井優典さん、の
3人に重点を置いて読んで下さい。

(※)なお、年数は西暦。上2桁の「19」「20」は略しています。
───────────────────────────────
■野村克也の存在を抹消した南海球団史

★46年、筒井敬三入団。即座に正捕手となる。
打撃はそれほど振るわなかったが、そのリードは高く評価された。

★52年、筒井の背番号を「2」から「19」に変更。

★56年、選手層の手薄な高橋ユニオンズに、筒井を無償トレード。

★しかし、衰えが見え始め、松井淳に正捕手の座を奪われつつ
あったとはいえ、リードの良い筒井は貴重な戦力で、
トレードを決めた球団は内外から非難を浴びた。

★そのため、筒井の背番号19番は
暗黙の了解として、しばらく欠番とされる。

★また、同年、.252、6本塁打の不振に終わったとはいえ、
長らく4番に座り続け、連続試合出場も継続中の
飯田徳治も、国鉄にトレードされた。

★当然のごとく、「ただでさえ打撃陣が薄いのに、
 南海は何を考えているんだ」と非難を浴びた。
飯田は気取りのない性格で、人気も高く、
それだけに、ファンの不満も大きかったのである。

★実際、これ以降、南海は、
4番と捕手を固定できず悩むことになる。

★対照的に、飯田は、翌57年、打率4位と見事に
復活を遂げ、盗塁王も併せて獲得する。
筒井も、高橋ユニオンズで、相変わらずのリードの冴えを見せ、
いよいよ球団への風当たりは強くなった。

★結局、翌57年は2位だったが、
「飯田と筒井がおったら、絶対に優勝しとった」
と、今でも愚痴るオールドファンが多い。

★59年、2リーグ分裂後、初の日本一。
杉浦忠の38勝を中心とする、豊富な投手陣は
他球団の羨望の的だった。

★その反面、打撃陣は手薄で、打順も固定できなかった。
4番打者も、その時点で好調な者を使わざるを得なかった。

★なお、59年に4番の座に座ったは、
杉山光平、長谷川繁雄、岡本伊佐美(後に近鉄監督)、
寺田陽介、穴吹義雄(後に南海監督)の5選手である。

★また、捕手陣も手薄で、石垣一夫を中心に、
複数捕手システムを採らざるを得なかった。

★この59年には、悲報もあった。
東映のコーチを務めていた 元南海正捕手・筒井のガス中毒死である。

★筒井の生前の功績と人徳を偲んで、背番号「19」は、
正式に永久欠番とすることが取り決められた。

★ただし、故人を悼む行為は、厳かにやるべしという本社の方針で、
派手なセレモニーは行われず、
マスコミに公式に発表されることはなかった
(これが後々、やっかいな問題を引き起こすことになる)。

★結局、中心打者、捕手ともに不足した状態が、長く続いた。
それにも拘らず、鶴岡一人監督の在任中、67年の4位を除けば、
1度も2位より下に落ちなかったのは、いかに鶴岡の
統率力と采配能力が優れていたかを物語っている。

★ちなみに、当時の鶴岡は、「なーに、バッターやキャッチャーは、
 やりくりしとればなんとかなるんじゃ。
 ただ、ピッチャーはそうはいかん」と口癖のように言っていた。

★そんな事情で、当時の南海は、「スクランブル4番打者」とか
「スクランブル捕手陣」と、よく揶揄された。

★余談だが、後にヤクルト、阪神、楽天の監督を務める
松井優典は、一時期、この「スクランブル捕手陣」の
一角を占めたことがある。

★61年、B・ピート入団。この年の4番は、主に杉山が務めたが、
翌62年以降、ピートと、この年入団したK・ハドリの
両外国人のいずれかが、主に務めることになる。

★64年、5年ぶりの日本一。
J・スタンカが26勝を挙げMVP。
広瀬叔功が.366の高打率で首位打者、
併せて、盗塁王も獲得した。

★また、4番に座ったハドリも、打率こそ.263と
振るわなかったものの、29本塁打と長打力を発揮し、
優勝に大いに貢献した。

★67年、D・ブレイザー入団。
主に、1or2番二塁手を務め、記録的にはさほどのものは
残していないが、その頭脳的なプレーは、
球界人や記者、更には玄人はだしのファンの唸らせた。

★68年、鶴岡監督勇退。
翌69年より、飯田が監督に就任。

★しかし、4番打者として期待された新外国人選手L・トーマスが、
.263、12本塁打の成績に終わり、
前年の2位から最下位に沈んでしまい、飯田監督は引責辞任。

★69年、ブレイザー現役引退。
その頭脳的プレーが買われ、翌70年から即座に監督就任。
見事にチームを2位に導き、
「やはり、さすがはブレイザー」と評論家からもファンからも評される。

★70年、確実性はないものの長打力のある
C・ジョーンズを獲得し、この年は、4番を任せることになる。
(彼は、近鉄に移籍後、2度ホームラン王に輝いた)。

★なお、捕手の方は、相変わらず
スクランブル状態が解消されなかった。

★翌71年は、長打力と確実性を兼ね備えた
門田博光が4番に座り、120打点で打点王を獲得。
この年、4年ぶりにBクラスに転落してしまったにも関わらず、
56年の飯田以来、実に15年ぶりの日本人の4番打者誕生に、
難波のファンは大いに沸いた。

★この年以後、4番門田−5番ジョーンズが、ほぼ定位置となる。
ただし、門田もまだ完全に4番に定着するには至らず、
不振になれば、打順を下げられていた。

★また、この71年には、高橋博が一塁、三塁、遊撃に加えて、
スクランブル捕手陣の一角を占め、それでいながら、
前半戦は打率3割をキープした。

★そのユーティリティぶりが人気を呼び、
ファン投票で、オールスターに選出される。

★なお、これだけ色々なポジションを守りながら、
票割れを起こさなかったのは、球団が、
「高橋への投票はサードで」と呼びかけたからである。

★しかし、そこまでの便利屋的起用は、さすがに負担が大きかったようで、
後半戦に入ると高橋は、打撃不振に陥り、最終的には
.265まで打率を下げてしまう。

★73年、ブレイザー監督のもとで、初の優勝。
打者では、18本塁打ながら.310をマークした門田と、
.244ながら32本塁打のジョーンズの活躍が目立った。

★ただし、この当時は、前期後期戦のシステムで、
前期優勝を決めると、後期は強豪・阪急に全敗してしまう。
そして、プレイオフで、3勝2敗で何とか切り抜ける。

★そのため、「あんなのは優勝とはいえない。
 アメリカ人の行きずぎた合理主義だ。
 日本人監督なら、あんなことはしなかっただろう」と
ブレイザーは、バッシングされてしまう。

★そのバッシングが、よほど堪えたのか、
日本シリーズ中のブレイザー監督は、
プレイオフであれほど冴えを見せた采配が
嘘のように、采配ミスを連発。
そもそも表情自体、心ここにあらずといった感じで、
鬱状態に入ったかのようだった。

★また、この73年の南海選手は、
打率は良いが本塁打の少ない門田、
本塁打は多いが打率の悪いジョーンズ、
勝ち星は多いが防御率の悪い山内新一、
防御率は良いが負け越しの江本孟紀と、
一長一短の成績だったために、
MVP投票権を持つ記者を大いに悩ませた。

★その結果、門田、ジョーンズ、山内、江本が同点1位という
どう考えても、記者たちが談合したとしか思えない事態になり、
コミッショナー裁定により、73年のMVPは該当者なしとされた。

★77年、2位という好成績にもかかわらず、
ブレイザーは突如、辞任を申し出る。
球団は必死に慰留するが、本人の決意は固く、
翻意させることはできなかった。

★その時のブレイザーの弁は、
「精神的に疲れた。日本人でない私が、11年間も
 同じ球団にいるのは、さすがに無理がありすぎた。
 幸いにして、広島がヘッドコーチに就任しくれないかと
 打診してきているので、南海球団の承諾が
 得られれば、広島に移籍したいと思う」。

★広島に移籍した78年の、ブレイザーの年俸は2800万。
これは、古葉竹織監督や、4番打者・山本浩二よりも高い額だった。

★それどころか、他の球団を見渡しても、そもそもブレイザーよりも
年俸の高い監督自体存在しなかった。
この事実が、いかに、ブレイザーの手腕が
評価されていたかを物語っている。

★ちなみに当時は、西本幸雄、上田利治といった実力派の監督や、
長嶋茂雄、金田正一のような人気者の監督がいたのに、
ブレイザーコーチの方が高かったのである。

★しかも、選手に目をやっても、ブレイザー以上の
高給取りは、王貞治と張本勲しかいなかった。
今と違い、監督やコーチの給料が、主力選手よりも
ずっと安かった当時では異例のことである。

(※)この辺の年俸の話は事実です。
   名鑑の情報が正しければですが…

★なお、ブレイザーが去った後、広瀬が後任となったが、
広瀬監督時代以降、南海は1度もAクラスになれなかった
(もっとも、ブレイザーがカムバックしてもダメだったのだが)。

★79年暮れ、電電九州の山内孝徳をドラフト3位で指名。
山内は、チームへの恩もあるので、1年遅れで
入団したいと申し出、南海側もこれを承諾。

★80年暮れ、山内が、入団交渉に際し、
「空いてる中から好きな番号を選んでいいよ」と言われる。

★山内が、「19番は、筒井さんの永久欠番ですよね?」
と聞くが、本社から出向した役員は、
20年も前の事情など全く知らず、
「えっ、そういうわけではないと思うよ…」と答えてしまう。

★「えっ、本当ですか? それじゃあ、是非19番をください」
と言う山内に対し、球団側は、本当に、19番を与えてしまう。

★当然のように、関西のスポーツマスコミ、オールドファンから
バッシングの嵐が、球団と山内に対して寄せられる。

★特に攻撃的な某スポーツ紙は、
『球神・筒井氏への冒涜!
 断じて許さぬ!!
 南海よ! 山内よ! 恥を知れ!!』
というトップ見出しを付けたくらいである。

★見かねた筒井の遺族が、「山内さんに19番を差し上げてください。
 ご活躍をお祈りいたします」と南海球団に申し出る。

★南海球団が記者会見を開き、
筒井の遺族から山内への「19番」引渡しの儀式と 握手を行う。
これにより、ようやくバッシングが鎮まっていく。

★82年、山内は、10勝目を挙げた際、ヒーローインタビューで、
 「これで少しは、筒井さんへの非礼を詫びられたと思います…」
と言った後、泣き崩れ、ファンから大喝采を受ける。

★88年オフ、ダイエーに身売り。

★92年、山内は2勝を挙げ、通算100勝を区切りに引退。
引退会見で、「これで筒井さんへの非礼を詫びられたとは、
 到底言えないけど、一応の形にはなったかなと思います…
 『ホークスの19番』は僕には重かった…
 でも、それが励みになったのも、また事実です…」
と神妙な面持ちで語る。

★なお、山内は、今でも年に二度は、
筒井家を訪れ、仏壇に手を合わせ、墓参りをしている。

★93年、長らくBクラスを低迷していたヤクルトを
15年ぶりに日本一に導いた名将・丸山完二が、
それを置き土産に、「さすがに疲れたよ」と勇退、
フロント入りする。

★その後任として、南海OBで「スクランブル捕手陣」の
一角を支えた松井優典が監督となる。

★松井のもとでは、ヤクルトは2回日本一に輝く。
だが、権力欲のない松井は、98年、4位に終わると、
「やはり監督は、生え抜きのスターがやるべきだと思う」
と、その座を、あっさり若松勉に引き渡してしまう。

★松井はヤクルトフロント入りが内定していたが、
阪神から監督就任のオファーが来る。

★松井は、ヤクルトへの恩義と、阪神への感謝の
念の間で葛藤するが、ヤクルト球団側から
「なあ、松井君。やっぱりユニフォームを着たいのだろう。
 それなら、我々は快く送り出すよ。
 それが球界の発展のためだ」と言われる。

★敵球団に行くにもかかわらず、フロント、コーチ、選手、
更にはその家族たちに加え、本社の取締役全員出席の
壮大な送別会が催される。
松井の人徳を物語るエピソードである。

★だが、松井の力をもってしても、当時の戦力では、
3年連続最下位と全く結果を残せなかった。

★それでも、阪神球団は、松井の力を高く評価しており、
続投を要請されるが、「3年連続最下位の監督が続投できる
 などという悪い先例を作っては、今後の球界の
 ためになりませんから」と固辞する(当時は01年)。

★松井は、05年、育成能力を評価され、
楽天二軍監督に就任し、4年ぶりに球界カムバック。

★06年、成績不振で解任された田尾安志に代わり、
一軍監督に内部昇格する。

★阪神時代以上の戦力不足で、またもや悪戦苦闘中だが、
その統率力、采配力に対する評価は、不変であり
「松井だからこそ、何とか、あそこまでの成績を残せているのだ」
と言われている。
───────────────────────────────
〔画像左〕 終戦直後のホークスの正捕手で『球神』と崇められている筒井敬三氏(写真前列右)
〔画像中〕 南海監督を長期に渡り務め、リーグ優勝も果たしたD・ブレーザー氏(写真は阪神監督時代)
〔画像右〕 元南海捕手で、ヤクルトを2回日本一に導いた松井優典氏(現楽天監督)

(※説明書きは、上の野村さんを抹殺した「歴史」での話です。
 なお、ブレイザーさんの南海時代の写真も出てきたのだけど、
 一緒に野村さんも映ってたので使えませんでしたw)
───────────────────────────────
(5+`・ゝ´)<要するに、誰かを歴史から抹殺しようとすれば、
強引にでも整合性を持たせるために、代わりに
誰かを持ち上げなきゃいけないわけですよ。
この場合は、持ち上げられたのは、
筒井さんと ブレイザーさんと 松井さんに なりますよね。
あと、丸山さんも、そうだな。

(5`・ゝ´)<日本史や世界史の中にも、抹殺された人や、
逆に、持ち上げられてる人もいるんだろうなあ…

(5+`・ゝ´)<また、時間があれば、西鉄・太平洋・クラウン時代が
なかったものとして、西武ライオンズの歴史を書いてみようと思います。

コメント(19)

次は「鈴木啓示or西本幸雄」抜きの『捏造版・近鉄バファローズ球団史』をw
まずは、「阪急ブレーブスがない歴史」を書いてほしいなあ。

オリックスバファローズのサイトにはオリックスブレーブス以前の歴史は書いてないしね。
いや〜さすが副管理人さま
おもしろい企画ありがとうです。
当然ポカリ事件も抹殺ですね、しかし筒井氏しかり
スタンカのご子息もガス事故で亡くなられています
ガスにのろわれた球団史でもあります。
 当時を知らない私としては間違いがあるかもしれませんが、
「ノムさんは1人で4役分に値する影響があったのか」と
思いました。
すごく興味深く読ませてもらいました。
私もなんばパークスへ何度か足を運んでは立ち寄っているんですが、写真パネルなど“野村克也”抜きの資料を並べられても面白くも何ともないですよ。。。
前に書いてたかな?ノムさんがなんばパークスのホームベースのモニュメントの所で腰をかがめて、江本がマウンドに立っている光景をある番組でやっていたのを感慨深く見ました。。。
やっぱり、和解なく風化されていってしまうんでしょうかね(泣)

次回作も楽しみにしております!
今日、実際になんばパークスに行って来ました。
詳しくは日記に書きましたので、是非ごらんください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=424539123&owner_id=3377701
う〜ん、このトピックにはものすごく共感していたのですが、前提を覆す事実を発見しました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%B0%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9
(下の方の脚注の5番)

野村克也を抹殺したのはサッチーのようです。

これに屈するパークス側も情けないですけど、なんとかならんものですかねえ。
実際、野村監督が南海を追われたのも、サッチーがらみでしたから・・・
そんな事実が…。
ま、ファンにすればいずれにせよ面白くありませんね。
おくればせながら、帰省の際に行ってきました「南海ホークスメモリアル」
ここまで辿り着くのも結構大変、異常なアクセスの悪さ・・・
内容は皆様がお書きになっている通り。野村さんの代わりの捕手の写真が悲しい。
かつてテレビ番組「すぽると」で野村さんがゲストで出た際に、江本氏にこの
パークスの件突っ込まれてました、ノムさん苦笑いって感じでした。

ちなみに「南海ホークスがあったころ」で得た情報だと、コレ以前に南海沿線の
みさき公園に南海ホークスの展示館が存在していたようです。
しかも南海電鉄の特急車輛「こうや」号の車輛を展示施設として利用し
中身ももっとディープだったと思われます。オールド野球ファンとオールド鉄道ファンの心をわしづかみにする施設だったようです、残念・・・
はじめまして。

みさき公園・・
懐かしいですね。よく遠足で行きました。

20001系こうや号のホークス資料館は確かに存在しました。
足を運んだ記憶があります。
中身は結構充実していた覚えがあります。
ちょっとずれますが、↓は楽しみですね〜

http://210.173.172.60/baseball/special/2007npb/hawks/KFullNormal20071229015.html
>トーマソさん
こちらでは初めまして!!さっそくありがとうございます!
みさき公園の資料館行かれましたか!それはうらやましい・・・
復刻ユニフォームもやはり50-60年代の黄金期なんですね、
これを着た松中や小久保で400フィート打線復活だ。

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