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仙台城[青葉城]コミュの仙台城 青葉城の歴史

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■江戸前史■

現在の青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人国分氏が居城したとも伝えられている。

■江戸時代■

伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。

政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守閣は持たない。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。

しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗が寛永14年(1637年)に二の丸造営に着手し、翌年完成させた。本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。

江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、そのつど再建された。戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。


■明治以降■

在りし日の大手門
現在の大手門跡陸軍の東北鎮台が仙台城を司令部にして駐屯した。このとき本丸が破壊され、石と木が兵舎建設に流用された。後に東北鎮台は仙台鎮台と改称した。さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団が置かれた。二の丸の建物は、明治15年(1882年)の花火製造中の事故による火災で失われた。

明治37年(1904年)に、本丸の跡地に招魂社が建てられた。今の護国神社である。

大手門から本丸への途中にある中門が大正9年(1920年)に、取り壊され、現知事公館の正門に移築された。

昭和6年(1931年)に大手門と脇櫓(隅櫓)が国宝に指定される。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門(当時国宝)、隅櫓、護国神社などが全て焼失。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった。

■太平洋戦争後■

戦後、第二師団の跡地にアメリカ陸軍が進駐し、三の丸巽門が破壊された。これによって江戸時代より伝わる仙台城の遺構はすべて消滅した。アメリカ軍は昭和32年(1957年)にここを返還した。

返還された後の二の丸跡地には、東北大学が入り、東北大学川内キャンパスとなった。川内キャンパス(川内北キャンパス、川内南キャンパス)のうち、南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸にあたる。

護国神社は、昭和25年(1950年)に国有地払い下げを受け、本丸一帯を所有した。仙台市は城が神社のものになることを望まず、交渉して土地の一部を管理し、一部を買い上げた。平成15年(2003年)現在、本丸の一部は仙台市のものだが、本丸の一部と西の丸はなお護国神社のものである。城を訪れる人は、表玄関である詰の門があった場所に、大きな鳥居と「靖国神社公式参拝を継続させよう」などと書かれた看板を見ることになる。本丸の中心は、護国神社の拝殿と青葉城資料館、食堂などが占める。

昭和36年(1961年)に、三の丸跡地に仙台市博物館が開館した。三の丸の堀は、長沼、五色沼として残る。

平成15年(2003年)8月27日、国の史跡に指定された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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