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羽仁五郎コミュの【日本人民の歴史】(抜粋2)

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●(「日本人民の歴史」羽仁五郎著 岩波新書 P.15〜P.26途中まで)

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奴 隷 解 放
大 化 改 新
農 奴 制
(「日本人民の歴史」羽仁五郎著 岩波新書 P.15〜P.26途中まで)




 世界の古代の人民がそうであったように、日本の古代の人民も、辛苦して原始的な生産から次第に農業および工業の生産を発達させて、そこに奴隷として支配されながら、それ以上の生産の発達の為に奴隷制が束縛となってくるにつれて、奴隷として支配されることに反抗し、解放を要求した。
 奴隷制支配の矛盾は、日本古代においても、人民の奴隷支配に対する犯行としての奴隷の反乱の頻発となり、また、奴隷状態にある人民の高い死亡率が奴隷支配を不安にし、最後に奴隷の逃亡の増加となった。
 そして、奴隷支配のこれらの矛盾の歴史的開放は、日本においても、人民の奴隷解放の要求に対し、多少の自由を承認し、すなわち、人民を奴隷としてその人身を売買することはやめ、人民の奴隷としてのその結婚の自由また家族をもち住居をもつことの自由をも奪っていたことをやめ、この程度の自由をあたえながら、人民を、この時代の主要の生産となってきた農業の生産手段たる土地に束縛し、その耕地の収穫にもとづく生産からその人民の最低限度の生活に必要なものを人民に最低限度に消費させるだけで、最大限の搾取を強制的に遂行しようする方向に動き、すなわち、奴隷支配から農奴制支配への推移となった。
 このとき、大陸において、中国がすでにはやく農奴制社会に入っていたので、当時、あらゆる点において大陸から朝鮮また中国から国家支配の技術を学んでいた日本の天皇制政府は、日本書紀推古紀三十一年(六二三)に云ったように、“大唐國は、法式備り定れる圀なり、須らく達うべし”、七世紀のなかばに、日本の奴隷制から農奴制への推移の過程において、六四六年、いわゆる大化改新をもって、中国の国家的規模における農奴制支配が日本に移入されたのであった。
 古代日本の奴隷制支配に対する人民の反乱および逃亡は、奴隷解放の革命的要求でありこれらの人民の反乱は鎮圧されたとしても、奴隷制支配を逃亡しようとする人民に対する監視の不経済、また奴隷状態における人民の死亡率の高さは、奴隷解放の経済的要求となっていた。これに対し、当時の日本の奴隷支配者の国家としての天皇制政府は、先進の中国の農奴制支配に学びつつ、支配者の手によって国家的規模における農奴制支配を移入することによって、その支配を続けようとした。これが大化改新であった。
 だから、大化改新は、それ以前の純然たる奴隷制であった奴婢の解放は決して行わなかった。また、大化改新以後の荘園の一部に佃(ツクダ)というものがあり、初期の荘園における佃の面積は平安中期すなわち十世紀以後のそれにくらべてはるかに大きかったが、その十世紀のはじめころ、その荘園の面積の六分の一から三分の二に及んでいた佃は、領主が農民に種子や肥料や食料を供給して土地を耕作させてその収穫の全部を領主がとったので、かかる生産関係は奴隷を使役した場合に見られたものであり、こうした奴隷制生産関係が大化前代から大化改新後にひきつづいて広く行われていたことを知りうるのである。大化前代の日本の人民の大多数はいわゆる部民として氏姓階級によって半奴隷的に支配されており、大化改新はこの部民を解放して、“公民”としたという。しかし、公民が、いわゆる公田の班給割当てにおいて、奴隷としての雑戸また官戸また公奴婢などと同額の口分田を班給割当てられていたことからも知られるように、日本人民の大多数たるこれらの公民は、それ以前にかれらがいわゆる部民として強制されていた半奴隷的本質は解放されておらず、そしていわゆる班田に束縛されて、いわゆる租・庸・調の負担を強制され、すなわち半農奴的に支配されてので、大化改新の結果、日本人民の大多数はいわゆる公民または良民として、いわゆる“律令”制の下に、実質において、天皇制貴族官僚国家の半奴隷半農奴とされ、したがって、そこから、その後、必然的に、純然たる農奴制が展開されて行ったものであった。
 大化改新は、人民の大多数を国家の公民とし、そして土地を国有とした、と云うが、その国家とは、人民の国家ではなく、人民を奴隷から半農奴半奴隷として支配した天皇制貴族官僚の国家であり、したがって、土地均分配給というが、男一人につき二段、女一人につき男の三分の二の班田なるものは、あまりに重い貢納労役の負担である零細の土地に人民を束縛したものであった。
 大化改新は、日本人民の奴隷解放の要求が高まってきたに対し、奴隷制支配者としての貴族制天皇国家が、すでに不経済となっていた奴隷経済から、それよりも経済的な農奴経済にのりかえることによって、人民に対する階級的国家的支配を再組織しようとしたものである。それだから、大化改新の第一条には、これまで天皇および貴族が人民を隷属させた大土地を占有していたことをやめる、と声明したが、事実において、天皇貴族社寺などがそれぞれ大土地の占有また人民の隷属使役をつづけていたことが、日本書紀持統天皇の記事や法隆寺や大安寺などの記録からも知られたのみならず、制度の上でも公然と天皇および貴族たちが人民を奴隷として所有していたものをそのまま維持しつつ、改新の第三条では、戸籍、計帳、班田収授の公地公民の土地配分を声明して、実は、人民を零細の土地に束縛して、過重の貢納労役を強制し、すなわち、国家的規模において、人民を実質的に農奴として支配する制度を立てたのであった。
 そして、そこに、天皇貴族たちの私有の人民と土地とが事実において持ち続けられたのみならず、制度の上においても、貴族は、口分田のほかに、位階官職功労などに応じてというが実は特権的支配として位田、職田、公廨田、功田、賜田、などというものを給与され、皇族は八十町、朝廷の官位のあるものは数十町、地方の下級の官職にあるものは数町、と、大土地の領有が行われ、そのほかに、いわゆる墾田も、天皇貴族官僚寺社などの大土地所有の増大となった。墾田の制限と言っても、皇族や朝廷貴族は五百町、地方の下級官僚は十町、東大寺は四千町、国ごとに国分寺が一千町、国分尼寺が五百町、そのほかのいわゆる定額寺が各百町を占有することを認めたから、事実上、全国に無制限に大土地領有が支配した。天皇自身、直接に、勅旨田というあやしげな名の下に大土地を占有し、淳和天皇(八二四―八三三)が三千町以上の土地を勅旨田として占有したなど、つぎつぎの天皇が多大の土地をこの名目で領有し、しかも、これらの土地の開墾に国家の正税を使用し、天皇が自身直接に私的に大土地領有者であるとともに、公然に大土地領有者の階級的支配のための国家の代表者であることの事実を示していた。これらのあらゆる種類の大土地領有者の領有地において、日本人民は奴隷としてまたは農奴として労役されねばならなかったのである。
 大化改新、律令制の下のいわゆる公民は、天皇制国家において経済外的強制をもって零細の土地に束縛されいわゆる租・庸・調の過重の物納地代および労役地代を物納させられ、そして。これらの負担のうち労役が五十%をこえ、この労役の中の雑役の強制労働が令の規定によっても実に一年の六十日にも達していたことだけから見てもわかるように、事実において国家の農奴としてきわめておくれた残酷な半奴隷的農奴的支配を受けていた。そして、こうした支配の下に、公民が苦しんで、貢納し労役した後には、食料も種子もなくなり、そこで、五割から十割におよんだ高利の出挙(スイコ)稲すなわち貸稲を借りなければならなくされ、これがいわゆる国庫からの貸稲の強制となり、これが物納地代の一種となり、かくて、人民の生活はぎりぎりのところまで圧迫された。
 大化改新、律令制の天皇制国家は、人民を国家の農奴として支配し、そしてまた高利貸としてこの農奴国民を搾取したのであった。八世紀の中ごろの一枚の文書は、農民の口分田が高利貸付のための質物にとられ、その子女がわずかに四百文の借金のために売られようとしている事実を記していた。
 こうした大化改新の律令下における国家の半奴隷的農奴制支配に対し、解放を求める日本人民の運動のもっとも重要なものは、逃亡となった。
 この逃亡は、実に、大化改新の口分田の放棄であり、人民を土地および貢納労役に縛り付ける戸籍および計帳の制度に対する反抗であり、すなわち、公民制の否定であり、律令天皇制支配に対する不服従の行動であった。
 したがって、逃亡は、残酷の刑罰をもって厳禁された。
 しかし、この逃亡が、日本全国の各地にしだいに多くなって行ったことは、当時の戸籍および計帳の文書に、続日本紀に記事などにも、いちじるしい。
 当時の、国家の半奴隷的農奴制支配からの解放をもとめた日本人民の運動は、逃亡のほかに、各地の反乱となってもあらわれた。そのさい、国守すなわち地方長官や、 按察使(あぜち)などの国家中央政府派遣の官吏が殺されるにもいたっていたことが、続日本紀の記事によっても知られるのである。
 東大寺が建立されその大仏が鋳造されたすぐ後の七五七年の橘奈良麻呂の反乱陰謀事件は、もとより人民の運動を代表したものではなく、当時の天皇制貴族階級内部の乱闘であったが、そのさいにも、“今や天下憂苦し、居宅定めなく、道路哭叫し、怨嘆実に多し、”とか、“陛下枕席不安、恐らくは変あらん”、とか、“東大寺を造る。人民辛苦す”、とか云われたのみならず、この事件そのものが、半奴隷的農奴制支配に対し解放を要求する人民の運動のたかまりにもとづく深刻な政治的動揺の、上層部における反映であり、さればこそ、この事件のすぐあとに、律令支配のなかで最も重い負担であった雑徭労役が半減され、また、問民苦使というものがはじめて全国に派遣されたりもしたのであった。
 半奴隷的農奴制支配に対する人民の苦痛および解放の要求は、日本書紀、続日本紀また正倉院文書などからも知られ、万葉集を見れば、その多くの防人の歌が兵役挑発の苦痛をあらわし、人民の嘆きは、山上憶良をして貧窮問答歌をつくらしめ、天皇の都奈良に労役のため徴発されまたは税物を運ばされた農民たちが家にかえるみちにたおれた悲しい姿は、柿本人麻呂をして、“香具山に屍を見て悲しみて作れる歌”をうたわしめ、相模の足柄の坂をすぎて死人を見てつくられた一首のうたには、“髪はみだれて、圀問えど、圀をものらず、家とえど、家をもいわず、ここに臥せる”、と云い、乞食者の歌二首について高野辰之博士はその日本歌謡史に、“蟹の歌は、難波に隠居している者が天武持統文武の飛鳥朝時代(六七三―七〇七)に徴発されて朝夕粉骨砕身の労役を強いられた時の歌と解すべく、鹿の歌は、かぎりなく重い貢納労役の苦にたえない老農が悲痛の訴え言であり、この二首のごときは、おそらくこの時代のはじめに誰かの手に作られ、つぎつぎの天皇の時代に労役貢納の重いとりたてがひきつづいたので、これらの歌もひきつづいてうたわれたものと解すべきである”としていた。延喜十四年(九一五)に書かれた三善清行の意見封事の上奏文にも人民の苦悩が間接に読み取れるし、、今昔物語や本朝世紀などに、平安京の人民の悲惨、羅生門につみかさねられた死体、疫病の流行などが記されてもいた。ついに、十世紀末の尾張国の百姓の解文において、国守藤原元命が租を重くし公費を横領し部下をして人民をしいたげしめた圧政三十一ヶ条に対し、百姓人民が、直接、天皇制政府にむかって抗議した。
 この抗議の文書には、天皇の国守およびその部下が、百姓を強制的に佃の耕作労役に使い、春には営料を充てずして耕作させ、秋にはその穀稲をとりたてた、と云い、天皇の国家による半奴隷的農奴制支配に対する人民の不満をあらわしていた。尾張国の百姓ばかりではなかった。そのころ、丹波氷上郡の百姓が、京都に至り陽明門外に集まって、国守に非法二十四ヶ条に付き抗議し、解放を要求し、そのとき京都にいた国守が騎兵の兵をもってこれらの百姓を捕らえようとしたので、その十数人は走って宮城をさわがした、という事件などもあった。尾張国の百姓の抗議の二年前に諸国に発せられた官の文書を見ると、当時、全国いたるところの百姓人民が国家官僚による半奴隷的農奴制支配に苦しんで反抗していたことが知られる。しかるに、この尾張国の百姓の抗議に対し、天皇の政府はその国守を更迭したが、しかし、この百姓人民の弾劾によって尾張国から追放された国守藤原元命が、その後も天皇政府においてかなりの地位を保ち、京都の吉田祭の上卿をつとめたりしていた。天皇政府は人民の訴えた官吏を更迭しただけでこれを処罰する意志はなかったのである。天皇制政府は、百姓人民の敵である残酷な国守などの貴族官僚の味方であって、百姓人民の味方ではなかった。
 しかし、当時の百姓人民は、その生産基礎において、小規模の農業と、これに家内的に結合された手工業としか知らず、したがってまったく自給自足、したがって、まったく孤立分散して生活していた。かれらは、多数でありながら、そして同じ悲哀に苦しみながら、しかし、かれらの生産の方法は、かれらをまったく孤立させていた。そのために、当時の百姓人民は、自分たちがたがいに手をにぎり団結し自分たちの組織を持ち自分たちの代表を選挙することも知らず、たまたま大衆行動に出ても、一時的に終わり、政治的に意識することもできなかった。
 こうして、当時の律令制の天皇貴族官僚政府による半奴隷的農奴制支配に対する日本人民の決定的反抗は、逃亡よりほかにありえなかったのであった。
 大化改新によってはじめてつくられた天皇制政府の戸籍は、その目的は浮浪をたつ、と云い、人民の生活安定のための人口統計のためのものではなく、人民を国家の半奴隷的農奴として口分田に束縛するためのものであり、これに対し、人民は、この律令制天皇国家の半奴隷的農奴支配の根本法である戸籍法および家長・五人組・里長・郡司・国司制の体系に対して反抗して、逃亡したのであった。
 聖武天皇の時代、七二六年の山城国愛宕郡雲上里および雲上里の戸籍を見よ。男の奴隷四十人のうち、十八人(四五%)が逃亡し、女の奴隷三十八人のうち七人(18%)が逃亡し、公民の正丁六十人のうち、官人的身分をもって課役を免除されているもの十八人をのぞいた四十二人の八人(十九%)が逃亡し、丁女一百一人のうち二十人(二十%)が逃亡している。六十五歳をこえた老人老女も逃亡し、三歳にみたぬ幼児を抱いて母が逃亡していった。奴婢すなわち男女の奴隷が逃亡していた。もっと重大なのは、正丁、丁女、公民の逃亡であった。郡内の管田一千余町歩のうち、二百余町歩が荒地となっていたではないか。
 平安時代、八世紀末から十世紀にかけて、百姓人民の多数が課役をのがれて奥地に逃亡したらしい。十世紀のなかごろには、班田についての規定も、記録からあとをひそめてしまった。そして、十世紀末に、あの尾張国の百姓の抗議文書には、そのころ尾張国の人民の逃亡したもの数千人といった。
 こうして、数世紀にわたった日本の百姓人民の逃亡が、大化改新律令制の天皇制国家による半奴隷的農奴制支配をついに崩壊させてしまったのであった。

(以下省略)
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