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田中裕也コミュのガウディの作品とともに

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ガウディの作品とともに  田中裕也

ガウディに魅せられて

 紺碧の空にそびえ立つ“サグラダ・ファミリア教会”の姿は、限りない雄大さをもっています。12年前(注:1986年より)、初めてバルセロナに立ち寄り、この作品に出会い、おかしな4本の塔の傍に近づいて誕生の門を見上げたとき、彫刻群の迫力と驚異に、押しつぶされそうな恐怖を感じました。まさしく作者の魂が生きているのです。当然,その頃は,この建物にどんな意味があったのか知るよしもなく,ましてやこの作家,アントニオ・ガウディの人物像については,まったくの門外漢であったわけです。
 今,その当時の現場を回顧してみると,未完の誕生の門に設置されるべき彫刻の作業をしていた様子はなく,また,後陣部についているカタツムリの彫刻なども,中央身廊内部に放置されていました。この2〜3年(注:1986年現在)の間に設置された,キリストを礼拝する三賢者や羊飼の姿は,どこにも見られなかったし,さらに,受難の門の鐘楼尖塔部,側廊も,夏休みのためか工事が進められてはいませんでした。
 一方,その当時,シュタイナーの多面体的ゲーテ・アヌム,オルブリッヒの祭壇的配色の成婚記念塔,エクトール・ギマールの,いびつな花の鉄細工による地下鉄入り口やカステル・ベランジェの扉,オーギュスト・ペレーの灰色の住宅等のヨーロッパ世紀末建築,そして,ル・コルビジェの男根を想像させるロンシャン教会,ワイゼンホップ・コロニーの住宅群のような近代建築をも見ていました。しかし滞在期間が短いこともあって,どれも印象が薄かったはずなのですが,その中でアントニオ・ガウディの,伝統的かつ革新的な“サグラダ・ファミリア教会”への感動は,未完の作とはいえ,唯一,好奇心を駆り立てられたものでした。その後,ガウディの作品に対する探求心は日ごとに増していき,1978年の秋,性懲りもなく,2度目のバルセロナへやってきました。あの頃,ガウディの研究家,丹下敏明氏やガウディ友の会の秘書サルバドール・タラゴ氏に会うことができ,その後の調査方法や生活についてのアドバイスを受けました。

カサ・バトリョの調査

 差し当たって,“グエル公園”の30数か所ある階段の実測をはじめましたが、途中,ガウディ友の会の助言もあって,同年11月中旬から,“カサ・バトリョ”の断面透視図を描くことにしました。まさかスペインに来て,ガウディの作品を図面にするなど,夢にも思いませんでした。これも,作品を知る手段と,自分を説得したものの,やはり,まったく経験したこともない様式の図面を描くことについては,半信半疑であったことは隠せない事実でした。
 さっそく,ガウディ友の会の古文書や資料を参考にして,作業を開始しました。スケールは50分の1ということもあって,資料の詳細不足に悩まされたので,各要所の実測調査をしました。といっても,精密機械やレベルを利用しての実測ではありません。ノミの市でみつけた,百年ほど前の骨董品とも思われる皮の巻尺を利用しての実測でしたので,精度に関しては,現代科学技術のレベルを満たすことはできませんでした。しかし数値的に,空間やディテールを観察することは,機能や構造を知る上で大切であり,アイソメを描くうえで不可欠なことです。そしてこれらのデータを基に“ガウディ当時の建築”としてアイソメを表現しました。その結果,約半年で,“カサ・バトリョ”断面アイソメを仕上げましたが,作業中,古文書参照により,かなりの内部改造が観察できたことは意義深いと思います。当初,この建物を立体図に表現するため七点八倒し,何度も挫折しそうになったこともありました。ソンなとき,ラゴ氏が,ガウディの弟子フランシスコ・ベレンゲールの描いた“グエル公園”の図面を,そっと見せてくれては「ガウディの弟子が,これを描いたんですよ,すばらしいでしょう」と言っては励ましてくれたものです。その影響が潜在的にあったかどうか定かではありませんが,透視図の完成度を高めるのに4度も描き直しました。といってもA2やA1サイズの図面ではなく,幅1m,高さ3mほどの大きさなのです。当然ミスをすると大変な作業になったわけです。
 それにしても,1枚の図面を仕上げるのに,半年以上も時間を費やすとは,まったく経験のないことでした。それでも,ガウディの作品をアイソメに出来たことは,夢のような出来事であり,その当時,ガウディ友の会の人たちが,大喜びで祝福してくれたことを思い出します。

カサ・ミラの調査

 この貴重な体験は,“カサ・ミラ”についての調査をするきっかけにもなりました。年代的には“カサ・バトリョ”の次にくる作品ですが,その変遷は,激しく,また“カサ・カルベ”から“カサ・バトリョ”についても同様です。それでは,一体何がその原因になったのでしょうか。ちょうどこの時期,1897年頃に,ガウディは,“サグラダ・ファミリア教会”誕生の門の彫刻群にも取り組んでいました。そのために,美術学校から動物の骨格模型を借り出しては,アナトミックな分析をしているようでしたが,それと何か関連するのだろうか。確かに“カサ・バトリョ”の椅子や“カサ・カルベ”のそれは,アナトミアックな形態として考えられないこともありません。さらに,“カサ・カルベ”におけるバロック様式の装飾要素が,アナトミックな形態と融合され,メタモルフォシスされた形が初めは家具に現れ,次の“カサ・バトリョ”では,家具から,インテリアに及び,さらに外部ファサードにまで,その融合形態が滲み出てきているように思えるのです。さらに,偶然とはいえ,1906年前後から,ガウディにはデザイン的な面で協力していたジュジョールの存在も確認されています。それらの偶然性が重なりあって,より強調的な“カサ・ミラ”出現ということが考えられるわけです。
 その強烈な表現主義,彫刻的な建物を目の前にしたとき,さすがに茫然としたものです。どのように理解し,作業にとりかかったら良いのかまったくの白紙でした。兎にも角にも調査方法を見つけるのに,何度も現場に足を運んではスケッチをして,細部まで観察してみました。同じ顔を何度も見ていると,その奥のものが見えてくる気がしたからです。
 ある日,古文書から,1950年頃に描いたセサール・マルティネルの図面,1954年に製作された改造計画申請図面,そして,ガウディによる建築申請図面などを見つけました。そして例のごとく,資料の再確認のための実測をしました。その結果,マルティネスの立面図がかなり実物に近似してたので,次はその立面図に陰影を描き込んでいきました。幸いにして,前もって現場のディテール・スケッチ,写真などを撮っておいたので,整った陰影図になりました。この作業の目的は,柱・壁・バルコニーなどの形状を把握するためのものであり,その結果,マルティネスの描いた2階平面図を基に全階ファザード部平面図(ファザード柱伏図)を製作し,それをさらにアイソメにしてみました。この作業は,凹凸によるディテールの絡み合いを理解し,作図の容易性を高めました。屋上に関しては,各モニュメント(煙突,換気,階段室)の実測とデッサンをしたのですが,古文書によると,当時は10個ほどの煙突群でしたが,時代の波と共に,現在ではその倍は増えています。付加された個所は,形態的に,ガウディ当時のものとは比較にならないほどの違いがあります。ところで,船底のような連続放物線アーチが配列されている最上階は,バラエティに富んだ廊下幅と高さが屋上に起伏をもたらし,地中海の波のような演出効果をも作り上げています。この部分については,ガウディ友の会の古文書に,それらの実測データがあったので,アーチの全体構成を見るため,アイソメにしてみました。
 このような各要所の検討によって,また新たな観察ができました。
 しかし,時は早瀬のごとく流れ,実質的な生活の問題でやむなく一時帰国することになりました。

バセゴダ教授との出会い

 帰国後,それまでにしてきたガウディの調査を,私の故郷の稚内市役所サロンで発表させていただきました。その後,研究継続の旨をスペイン政府に連絡し,1981年9月,新たにスペイン政府留学生として3度目のバルセロナに挑みました。これで9ヶ月の生活を保証され,大学への入学も許可されたのですが,3か月ごとの研究論文提出が義務付けられたのです。
 さっそく、バルセロナ大学建築学部の門をたたくことになりました。それは,ガウディ初期の作品である“フィンカ・グエル”(別名,グエル別邸)の中に置かれており,この門には,大きな口を開けた竜が,門番をしています。もちろん生き物ではなく,ギリシャ神話に登場してくる竜で,星座の竜とも言われており,みごとな鍛鉄で作られていて,ガウディの傑作ともされています。その門の横を恐る恐る通って馬小屋の中にある研究室に入ると,竜の代わりに5匹の飼い犬から一斉に「ワウ,ワウ」と,スペイン語で吠えられました。中では白髭にメガネをかけた人が,忙しそうにタイプをうっていました。ガウディ研究の第一人者,パセコダ教授でした。非常に犬好きで,毎日,食事と散歩には,授業があっても忘れずに必ず外へ連れ出す,ペット好きでジョークの好きな人でもあります。その彼に,当初は,ぎこちなく学校の事情や私事について相談しました。のち,教授の許可で,奨学生としての期間中,ドクターコースに入学させていただきました。さらに,作業用として,研究室特別室を用意してくれました。何と部屋の広さは,延べ50畳ほどの広さで天井の高さが4mはあり,その中で,勝手気ままに製図台3台配したのですが,壁いっぱいに書棚があったとはいえ,それでもまだ空間に余裕があり,立派な作業場ができました。さらに,形式上,1年間は,パセコダ教授のガウディに関する講義も聴講させていただくことになるなど,すべてが夢のような調子で,作業の条件がそろっていました。
 “サグラダ・ファミリア教会”の鐘楼調査のため,教会の関係者たちに挨拶したあと,鐘楼上部まで駆け登りました。さすがに334段の階段は激しく,頂上についてから大きく深呼吸をして,それから教会中央祭壇に向かって,この教会に通って鐘楼階段室の実測をすると同時に,ここの模型室で石膏模型の作業を知るため自ら教会の螺旋階段の模型を作らせていただきました。ここの石膏模型職人たちの指導を受けたとき,その石膏の扱い方や技術に伝統の重みを感じたものです。
 束の間の1年が過ぎました。まだまだ“サグラダ・ファミリア教会”の調査が残されていたのに,奨学生の期間は終わり,また生活の第2の危機に脅かされました。さっそく一時凌ぎにと思い,日本風民家の模型を作ってみましたが,時間だけが無駄に流れるようでした。結局,10個ほど作ったのですが,すべて知り合いたちが買ってくれたりして苦悶の数週間をすごしたこともありました。

フィンカ・グエルでの評価

 1982年9月15日,教授から“フィンカ・グエル”の図面製作依頼がありました。これについては,過去2度,イギリス人とスペイン人の学生たちによって描かれており,基本データはそろっていました。今回の3度目は,それらのディテールチェックと図面精度の向上を目的としたものですが,一気呵成にできる仕事ではありませんでした。初めは,全体の規模の実測から,おのおのの石積み形状,破風や軒先のディテール,そして各部のレンガの数までチェックしました。当然,内部のリブアーチの数値も出してみました。この程度のアーチだと,円,楕円,放物線のどれをとっても、さほどの違いはありませんでしたが,しかし調教場のキューポラについては,カタルニアボールトの工法から考えてみても球の一部として考えた方が適当でしょう。と言うのも,床の中央部にあるGマークのついた排水口のふたを中心として,天井の任意の点から実測して,どの点もほとんど数値が一致したのです。こんな作業も含めて一通りの図面12枚を仕上げるのに,4か月ほど費やしました。初めて,ガウディの作品におけるまとまった図面を描いたことになったのです。規則的なディテールは確かに多いのですが,規格のれんがを巧みに生かしている事がよくわかりました。それから約半年たったある日,パセコダ教授が「裕也,この雑誌を見てごらん」とマドリードで出版された『レアレス・シティオス』という国家遺産に関する雑誌を見せてくれました。なんとアランへスの王宮に関する記事と国王ホアン・カルロの記事との間に掲載されたバセコダ教授による“ぺドラルベスのフィンカ・グエル”について小論文と共に,私の描いた“フィンカ・グエル”門番小屋,馬小屋等の12枚の図面が紹介されてたのです。その中で彼は「不思議なほどの完成度と正確さは,芸術性に富み,彼の東洋建築学の深さと能力を示し,ガウディ的才能への……」と述べていました。まったく背中の辺りがむず痒くなるような評価ではありますが,一生忘れることのできない出来事でした。

カサ・カルベ,エル・カプリチョ,ドラゴンの噴水など

 1983年1月17日,“カサ・カルベ”の調査を始めました。当時この所有者から調査許可を受けるのに何度となく交渉したことを思い出します。数度目にしてようやく所有者は口を開きました。「この建物は,国の指定建築物なのにもかかわらず,この建物の管理について,国は何も援助もしてくれず,さらにこの建物の高い税金まで徴収しているんだよ。だから,たとえ公開しなければならない義務があるからって,我々になんらかの管理保証がない限り見せることはできないのです」と役所の使いでもない私に説明していました。当然“カテドラ・ガウディ”の紹介状があっても何の役にも立たず,焼け石に水でした。兎にも角にも計画を進めるため,その後も,説得に専念しました。愛想のない返事に対して,時には過去の作品を見せては,計画の説明をしたこともありました。そんな悪戦苦闘の結果,特別調査許可料を支払う話がついて,ほっとしました。
 さっそく,居住部分を除く中央パティオや屋上の実測にかかりました。参考資料としては古文書の申請図のコピーがあったので,それらをチェックしました。断面図などは,ファザード部分についてのそれらは,各目地を測らなければならなかったし,階高については階段の段数で決めました。ところが、この作業の中で一番興味があったのは屋上でした。ガウディの一連の作品における屋上処理は,モザイクタイルを利用したり,形が彫刻的であったりしているのに,この昨品においては,それがぷつりと途絶えているのです。例えば,煙突や排気の形態が隣近所のものと大差がないし,パティオの天井もガラスによる寄せ棟になっており,構造においては“カサ・バトリョ”のような特殊構造にはなっていない。しかし,強いて特徴的に思われるのは,隣地境界壁のウェーブした破風,ファザードの破風についている3人の守護聖人と,玉に載せられた十字架等です。そんなチェックをしながら約半年で断面アイソメが出来上がりました。本来なら居住部分など調査してみたかったのですが,さすがにプライバシー部分については無理で,次の機会に保留しました。
 1983年9月4日,バセコダ教授から“エル・カプリチョ”の立面図の製作依頼がありました。といっても,サンタンデールにある建物で気軽に実測する事ができず,やむを得ず古文書の写真と平面図に基づいて表玄関側の立面側の立面図を描きました。描写方法はガウディ当時のものとし,古写真との比較から,タイルの利用法や鉄細工等は“カサ・ビセンス”に酷似していて,屋根については寄せ棟にミッション瓦が牽かれており,その鬼板部分には,ガウディの作品中ではめずらしい立方体で,タイル仕上げをしたものがついていました。
 1983年10月19日,カタルニアの金融機関ラ・カイシャからガウディ展のための“グエル地下聖堂”の図面製作依頼がありました。それは模型作成に必要な図面ということでしたが,その頃までにしていた実測データ整理も兼ねて,詳細な立面図,断面展開図を描きました。参考資料は,1915年当時の写真,1973年の平面図や天上伏図等があり,寸法的にはかなり信頼性がありました。
 1984年2月7日,“竜(ドラゴン)の噴水”実測調査を,市役所管轄のペドラルベス宮博物館から依頼を受け,さっそくそれについての資料をいただきました。これは、市役所所有のぺドラルベス宮廷内の竹林にひっそりと枯葉や土で埋まっていたもので,発見された1983年に,バセゴダ教授は,「当時,詩人ハシント・ベルダゲールが,ビックの役僧に宛てた手紙の中でその説明をしている」と述べていました。現在では,かなり腐食してしまっている,竜の形をした巧みな鉄細工の噴水口や,それから出る水を受けるためのカタロニア紋章を刻みこんだ貯水タンクは,残念ながら大部分破損してしまいました。さらにそれらを包み込むかのように半楕円状のベンチが設置されています。機能性については,グエル公園のそれには至っていませんが,尻に当たる部分には凹みがつけられています。
 1984年5月30日,グエル地下聖堂の断面アイソメが仕上がりました。この作業は,実は,1982年から始めていました。資料はとして利用していた,建築家イシドラ・プーチ・イ・ボアダによって描かれた平面図等は,かなり信頼性が高いことは前にも述べましたが,さらに,アイソメに必要な箇所のチェックと詳細を付け加えていきました。そして,アイソメを作成するにあたって,ブロッキング方式をとりました。つまり,初めに柱だけのアイソメ,梁そして壁といった,それぞれの部分アイソメを起こし,すべてそろったところで組み立てる方式で,これは,“カサ・バトリョ”“カサ・ミラ”や“カサ・カルベ”等のアイソメと同じ方法です。この方法だと,見え隠れするディテールの把握と同時に,一度にすべてを描き出すこともできるという利点がありますし,これによって作業の能率もアップし,各ディテールの整理もしやすくなりました。

サグラダ・ファミリア教会に挑む

 これまでの作業の結果,メインイベントともいえる“サグラダ・ファミリア教会”の断面アイソメの仕上げが残っていました。今回3度目のバルセロナに挑んで,即作業を始めたのですが,これまでに述べた作業や外部の仕事によって,作業の進展が非常に遅れていました。それでも毎日,わずかとはいえ,それまでに実測していた334段の階段を持つ誕生の門マティウスの鐘楼,ロサリオ,天使たちの彫刻やバラ窓の実測データ等を最初の2年間で整理をしました。でもその当時階段の実測は,いま思い出すだけでも目まいがしそうです。毎日,60cm幅の階段を実測のために何度も往復したものです。最初の数十段は何の抵抗もなくスムーズに仕事が運んだのですが,さすがに数百段になると,昇るだけで足ががくがくしてきました。昇るだけで足ががくがくしてきました。決して高所恐怖症ではないのですが,体力的な問題で,その日の目的部分へ調達するためには身軽な服装を必要としました。その作業が夏場であれば,上へ昇るに従って風もあり涼しいのですが,冬場は,大変だったわけです。高さ60m以上あるところでの作業は,塔内部とはいえ,開口部から入りこむ風は,石の冷たさもあるのでしょうが,まったくえも言われぬ寒さでした。その中での実測は,手もかじかんで字がかけないこともありました。だからといって夏場はまったく快適だとは言いきれません。つまり季節に応じてそれなりの問題があるわけです。この塔を足で昇った人は記憶にあるかもしれませんが,暖かい季節になると,なぜか足元がむずがゆくなります。およそ80年以上も前の埃が随所にたまっていることは,まちがいないのですが,それだけで体がかゆくなるのは不思議なことです。塔の建築に当たって,その当時,上部で作業する職人たちは生理的用をたすために,その都度下へ降りはしなかったと言われております。つまり塔の陰になるような場所で用事をすませていたわけです。さらに数十年の間に積もった鳥の糞などもあります。衛生的には良い話ではありませんが,そんなことも原因になっているのかもしれません。かゆくていたたまれなくなったときなどは,作業を急いで終えてしまい,地上へ降りるときの速いこと,おそらく塔内部についているエレベーターよりも早いような気がして,地上に着いたときの安堵感は,家に戻って熱いシャワーを浴びるときと同じように“ホッ”としたものです。
 そんな“サグラダ・ファミリア教会”の関係者たちもそれに気がついたのか,昨年4月になってから「誕生の門」の垢を,洗い落とし始めました。その中からは,赤みや青みを帯びた石の肌が現れ始めました。

視覚の矯正

 さて,こんな作業で得られた数値をもとに,各部のアイソメを起こしました。一定の曲率をもつカラコール(螺旋階段)については,作図上問題はなかったのですが,鐘楼本体のついている階段は,スパイラル曲線状になっているので,1周当りの階段が,それぞれ任意の高さで違っているわけです。

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