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フィリップ・ラクー・ラバルトコミュのメタフラシス

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ラクー=ラバルトは、ヘルダーリンの『アンティゴネー』および『オイディプス』の翻訳に携わるうちに自身の中のヘルダーリン観が変わってきたと述べる。

第一に、「ヘルダーリンは演劇とは何かを知っていたということ」

ブレヒトとハイナー・ミュラーといった最高の劇作家がヘルダーリンのテクストに向かったのも、「彼らがそこに、古代の悲劇的なもの、本当に近代的な、唯一とは言わないまでも、数少ないヴァージョンのひとつを明白に見てとったからである」。

第二に、「長期にわたる、根気を要する哲学的作業の結果、われわれの《ヘルダーリンへのアプローチ》においてハイデガーの注釈が恐るべき障害となっていることを確信した」こと。

ここに集めた二篇のテクストは、ヘルダーリンの演劇の再評価をスケッチすること。その際の争点は、「現代性」(モデルニテ)である。

「メタフラシス(metaphrasis)は、古典ギリシア語で、翻訳を意味する」

ラクー=ラバルトの意図は「ヘルダーリンが1803年から1804年ごろ、彼の精神錯乱の前夜に手がけるにいたった、ソフォクレスの『オイディプス』の翻訳と解釈の仕事に言及すること」にある。

「ヘルダーリンの試み、すなわちソフォクレス(あるいはギリシア人一般)を『超-文化』しようとする絶望的で、究極的には理解不可能な仕方を言い表すために」用いられるのが「メタフラシス的なもの」である。

西洋はフロイト以降、オイディプス的である。つまり、一つの形姿として現代の人間性を刻印している。しかし、オイディプスとは、本質的に哲学的な存在であり、語源的に見ても「わたしは見た」「わたしは知っている」という解釈が成り立つものである。すなわち、オイディプスは「知の形姿」である。

悲劇的なものとは、ヘルダーリンにとっては哲学そのものである。

「悲劇的過ち、ヒュブリスとは、形而上学の行き過ぎ、すなわたカントが確立ないし認知した人間の有限な条件の限界に対する侵犯にほかならない」

ヘルダーリン的に言えば、「〔オイディプスは〕目がひとつ多すぎる」

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つまり、なんなんでしょう?

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