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La Cocina De Minakaコミュの自分の因

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後半に桜沢先生が出てくると聞いて何十年振りかに沢木耕太郎さんの本を読みました。

参考文献に食養の大先輩であり5月に亡くなられたの斎藤武次さんのご著書も載っています。

 

学生時代に沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読んで、単純だから真似したくなり、バイトしてお金貯めて、法学部だったから卒論もないし、卒業単位も取れていたので、会社の内定式が終わった翌日から親に言うと心配するから黙って4カ月のヨーロッパの旅へ。

全てのヨーロッパの国に足を踏み入れてみたく、リュックひとつとユーレイルパスだけ持って、北欧やリヒテンシュタイン侯国等どんな小さな国にも足を踏み入れ、その頃はまだベルリンの壁が崩壊したばかりで東欧はビザが必要だったので、プラハだけビザを取って行きました。

大学卒業式ギリギリに帰国したら、内定が決まっていた全日本空輸と言う会社から覚えなきゃいけない山のような宿題が来ていて、まだ旅の余韻が遺っている中いきなり社会人モードへ。

バブル崩壊後で入社は5月まで延期となりましたが、5月から厳しい訓練が始まりました。

訓練中は同期48人と一緒だったから涙しながらも愉しく乗り越えられたけれど、いざ成田空港配属になってからはいきなり一人で先輩達の中に放り投げられた感じで辛いことも多々ありました。

OJTと言う訓練便はロンドンとパリでした。

OJT便ではI.Iと言うインストラクターが一人づつ付いて指導してくれます。

自分と似ている人がI.Iに選ばれていると言われていましたが、私のI.Iさんはとても良い人でしたが凄く真面目で厳しい方でした。

配属された班の先輩方は森本毅郎アナウンサーの娘さん等とても良い方達でつくづく自分はご縁に恵まれているなと思いました。

OJT便でビジネスクラスのお客様にお食事前のお飲み物でビールを頼まれ、トレーの上で片手で缶ビールをグラスに注いでお出しするのですが、私は初っ端から大失敗してお客様の背広にビールを全部こぼしてしまい・・・もう蒼ざめてひたすら謝っていたらパーサーの先輩がすぐに来て私をフォローしてくれ、お客様の背広をお預かりし、ロンドンに着くまでに綺麗に洗ってくれたのを今でも鮮明に覚えています。

古いですが堀ちえみの「スチュワーデス物語」のようなドジでのろまでしかも背も小さかったので、同期達からは良くからかわれていました^^;(未だに空手でもフラでもどこでもこんなキャラな私ですが)

本当に班の先輩方はとても優しく、OJTの分際でパリでは郊外のモネの家や、夜はムーランルージュにいきなり連れて行ってくれたりしました^^;

 

訓練中は雀の涙のような月給でしたが、成田に配属されてからは23歳の小娘がこんなに頂いていいの?と言うような額にいきなり増えてとても驚きました。それだけ健康を売っていたのでしょうね。

楽しいことも沢山あったし佳い出逢いも沢山したけれど、受かっても3年で辞めようと思っていて(会社からするととんでもない社員ですが)、実際3年経った頃に体もおかしくなっていたので、3年半勤めて、ラストフライトは香港をリクエストして退職することにしました。

キャプテンブリーフィングでたまたま機長が母の親友の旦那様だったので、今日はラストフライトで両親が乗る旨を伝えたら、まだその頃は許されていたコックピットに両親を招待してくれ親孝行もでき、やりたいことは全てやり尽くした後だったので、何の未練もなくラストフライトを終えて成田に着くと、凄い荷物とお花を沢山頂いたので、その頃付き合っていた主人が車を借りて迎えにきてくれていました。

 

退職後はまず体を整えようと國清拡史先生の半断食合宿に参加しました。

そこで子どもの頃から雲の上のような存在だった大森英櫻先生に初めて直にお会いし、夜遅くまで二人きりでお話させて頂き、子どもの頃から英櫻先生の姓名学のことも知っていたので、名前を診て頂き「君は健康になったら名前を変えたくなるよ」と言われ、帰宅して早速家族5人の名前を考え、荻窪の宇宙法則研究会の英櫻先生に相談しにいき「これでいいんじゃない」と言って頂き、帰ろうとしたら出口の所まで英櫻先生のお付きの人が駆け寄ってきて「今日お支払い頂いた相談料はお一人分で、ご家族五人分ですと五倍になるのですが今日はいいです」と言ってくれました。

その方が、あまりにも落ち着いていててっきり私より年上だと思っていましたが、まだ二十歳そこそこの群馬のマクロビオティック和道の磯貝昌寛さんでした^^

 

そして、母から聞くだけの食養ではなく、自分できちんと学びたいと思って英櫻先生の正食医学講座に通い始めましたが愉しくて愉しくて仕方なかったです。

 

その一方でその頃父が始めた八景島のフランチャイズのレストランを手伝ったり、社員研修の講師の仕事をしていました。

その講師の仕事の会社の社長さんは元JALさんのCAをされていた方でしたがとにかく凄い方で厳しかった!

全日空にいた頃より厳しくきついことを言われ、何度も涙し、辞めようと思いましたが、ここまで書いてもどれだけ私が陽性だったかお分かりになると思いますが、ここで逃げたら一生逃げることになると思って、娘のベビーカーを押して秋田まで出張してドコモさんやJRさんの新入社員研修をしたり、接客態度調査をしたり、結局長男を妊娠するまでやり遂げました。

長男が1歳になる頃に、娘のママ友達に「荻窪の大森先生までは通えないからマクロビオティックを教えて」と言われ、田園調布にあった小さな自宅で最初は10人位からラ・コシナ・デ・ミナカをスタートさせて頂きましたが、講師の仕事で厳しく鍛えられたことがマクロビオティックの講義をする時に役立っていて、人生無駄なことは何もなく必然なんだなと、つくづく思います。

 

次男が帰ってきていて、掃除、料理全てやってくれるので時間が出来、沢木耕太郎さんから色々思い出してついつらつら書いてしまいました^^

 

「恩」と言う字は「心の上に因があるんだ」

と桜沢先生が書かれていました。

つまり自分の「因」=起源=宇宙の法則を知りそれにご恩返しをする。

自分の起源・・・今の自分があるのは陰陽、偉大なる宇宙のお陰様。

宇宙のすることに抗わず、身を委ねて生きていくことが大事だと思いますし、それと共に、大学卒業してこの30年の間だけでもとても多くの方達に出逢わせて頂いていますが、自分の「因」は今までに出逢った多くのご縁あった方達のお陰様であることも決して忘れてはいけない。

そんな思いで今年は更にご恩返しを具体化して行動に移したいと思いつつ、気付いたらもう今年も半分以上経ってしまいました。

全ての「因」を忘れずご恩返しを一生かけてコツコツやっていきたいです。

 

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