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アコースインミラクルズ ACIMコミュの大阪ACIMの復習

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9月20日の学習会で 
テキスト3章 ?.贖罪と奇跡 を読みました。

ほぼ半年ぶりの参加なので、感動しました。

 贖罪とは?
 カトリックの罪悪感 
 スピリットとは?
 間主観性とコース
 ジグソーパズルとアセンション  
 その他いろいろ・・・・・・・・・・・・盛り上がりました水瓶座

やっぱり、ナマで話すのはうれしいです。
言葉ではうまく言えないけれど、感じてることや、
よくわからないことが、言葉を超えて、同感できました。




わたしがよくわからなかったところは、↓でした。
 
「個人差に関しないという奇跡の性質」The impersonal nature of the miracles

4-5「・・・個人差に関しないという奇跡の性質は欠くことのできない要素だ、
私はそれをいかに応用するかを指導できるし、私の導きのもとに、奇跡は
きわめて個人的に啓示を経験することにつながるのだから。・・」(田中百合子訳)


で・・帰宅してからFACIMで探したら、ケン博士の

「JESUS: Manifestation of the Holy Spirit イエス: 聖霊の顕現」という
ワークシッョプの講演記録がヒントになりそうだとわかりました。

ここでは、「祈りの歌」の解説もしてくれて、今、読んでいるところですが、

「祈りの歌」の前に
「テキスト25章 神の正義 ?.真実との結合」の解説があって、
それは、大阪ACIMのときの、言葉にできない疑問みたいなものの
答えになっているような気がして、訳してみることにしました。

長いです。。。ぼちぼちとです。

コメント(87)

物語のイエスバージョンは、いまだ現実の世界ではなく、シンボルの世界の内側の、
出現している世界の、夢の、そして幻想の内側にいる私たちのところにやってきます。
しかし、この夢は、コースがハッピードリームと言及しているものです。

イエスはそうして、神は怒ってはいないと私たちに言っているのです。だから、
そうです、彼は私たちに言っています、神は私たちに聖霊を遣わしたのだと。
しかし、神は、私たちを罰して神の家に引きずって行き、神に私たちを叩きのめ
して破壊させるような、私たちに倣った聖霊を遣わさなかったのです・・こんな
ことは、私たちが信じていることにすぎません。そんなことを信じているのは、
私たちがホームを逃げ出して離れてしまったからです。実際は、私たちは、ホーム
を離れただけでなく、自分たち自身のホームを作りました・・これが、シンボルの
世界の内側にいまだにあるすべてです。

私たちは、ホームを逃げ出して、恐ろしい罪悪感をもったので、神が夢にまで拡張
してくることを恐れるようになったのです・・現実には、これがまさに神の愛の
記憶です。しかし、エゴはそれをひっくり返しました。
そしてまた、イエスは私たちのレベルで私たちにこう言っています。
「いや、神は怒らない。そうだ、神は、あなたに倣った聖霊を遣わしたが、あなた
方を打ちのめすためではない。神は、あなた方を夢から目覚めさせるために、
あなた方がそれが夢であることを喜ぶよう教えるために、聖霊を遣わしたのだ」

イエスは、テキストの初めのあたりで、聖霊を「目覚めて喜ぶようにと呼ぶ声」
だと言っています(テキスト5.II.10:5)。イエスは、聖霊は神が分離したものへの
応答のなかで創造し夢のなかに遣わした誰かだと、語っています。なぜなら、
エゴが最初に話すからです。エゴは言いました。
「神はあなたがしたことのせいであなたを怒っておられる。神は聖霊を創造され、
あなたをホームに連れ戻すためにあなたの心に彼を遣わされたので、神はあなた
を破壊することができる」 そのようなものが私たちが信じている神の概念なの
で、イエスは似た条件で私たちに修正を与えるのです。
修正は、エゴの思考システムがそうであるのと同じ程度に幻想です。違いといえば、
エゴの幻想は、さらなる罪悪感と恐れに導き、夢との私たちの同一化を深めることです。

イエスが私たちに与える幻想は、私たちを罪悪感と恐れから目覚めさせるので、夢は
終わるでしょう。しかし、私たちには足がかりが必要です。コースは、私たちはエゴ
の悪夢から神の現実には行かないと説明しています。なぜなら、そうすることは私た
ちにとってあまりにも恐怖だからです。そうするのではなく、私たちはエゴの悪夢
から聖霊の夢に行きます。そして、そのハッピードリームから、そのすぐあと、
私たちは目覚めます(テキスト27.VII.13)。
だから、コースはシンボルのレベルで話しているのです。私たちがコースを通して
読むとき、現実と幻想を混同しないことと、シンボルと、シンボルを越えた現実の
ためのシンボルを混同しないことがとても重要です。シンボルを越えた現実は、
言葉で表現されることも教えられることもできません。だから、私たちには一組の
シンボルが必要なのです。しかし、私たちはそのシンボルを現実にしようとしません。
それは教会が2千年の間してきたことです。私たちはシンボルを現実にしないで、
シンボルを崇拝しようとします・・そして、私たちはシンボルのわなにはまります。
私たちは後で、私が前にも触れた、このようなものすべてをまさに明らかにしている
「祈りの歌」の一節を検討することにしましょう。

テキストに戻ります。
6.2-3 彼の(聖霊の)目的は依然として、神と子のふたつがひとつになる
  ことだから、彼は、神の意志とあなたの本当の意志を知っている。
  しかし、このことは、ひとつだと知覚し、ひとつであると自覚し、
  そのように体験する心によって理解される。

ペン
偉大なユダヤ教神学者であり哲学者である、マルティン ブーバーによる 
「われ−なんじ」関係の公式化は、まだ幻想の一部でしょう。神は向こうにいて、
神と関係をもつ人間がいるという、神の概念なのです。現実では(紫の線の上)、
天国では、その「われ」とその「なんじ」はひとつであり同じです・・違いは
ありません。私たちが、神の意志は私たちの本当の意志と同じであると理解でき
るようになる方法は、現実の世界(the real world)に存在するしかありません。
イエスのような誰かは、天国の愛とワンネスに完全に連絡を取り合っています。
同時に彼は、彼の兄弟がまだ眠っていることに気づいています。そのようなもの
が、現実の世界(the real world)として知られる状態です・・私はまだ夢の内側
にいます。

私はまだ「子であること」(Sonship)という分離した心の内側にある思考ですが、
私は、それが夢であることを全体的に自覚しています。そして、私は、自分が
キリストの一部で、他の誰とも一緒にいて、キリストは神の一部であることを、
全体的に自覚しています。

しかし、そのようなものは、このレベルからは理解できません。ここでは、私た
ちは、自分たちは皆、共通の目的を分かちあうのだということを理解できます
・・私たちが教えられることができ、私たちが学ぶことができ、私たちが理解す
ることができる目的です。

再び言いますと、コースのゴールは、自分たちは皆共通の目的を分かち合うのだ
と私たちが認識することです。私たちの共通の目的とは、自分たちはこの間違った
夢の一部なので皆ホームに帰りたがっているということです。旅の終わりとコース
のゴールは、私たちが現実の世界(the real world)に存在することです。
そこでは、私たちは、自分たちは皆同じ心の一部であると認識します。
6.4 このワンネスをどのように体験するか、それを体験するためには何を
  しなければならないか、そして、体験するためにはどこへ行けばいいか
  をあなたに教えるのが、聖霊の役目だ。

ペン
これらが、基本的に私たちの学習課題を構成しています。そして、私たちがそれ
らを学ぶ教室は、私たちが自分たち自身を見つけるための関係性ひとつひとつ・・
私たちの特別な関係性すべてです。

聖霊は、どのようにそれらを違ったように見ればいいかを私たちに教えてくれます。
それがコースです・・それがコースのメソッドです。私は、幻想であるあなたと
つながっている、幻想です。私は、自分とは分離して向こう側にいる人間という
幻想である、あなた方にもっている私の不満を手放そうとしている、幻想です。
しかし、わたしはこのことを実在だと信じているので、このことが、わたしの
スタート地点です。
7.1 あなたが、自分と言う一部分は分離しており、
   ひとつとしてつながっているワンネスという概念には意味がない
   と考えている間は、まるで時間と空間は別々のものであるかの
   ように思える。

ペン
私たちが自分たちは身体だと信じている限り・・私たちが自分たちは分離している
と信じているという意味です・・私たち皆が分かち合っているキリストのワンネス
というアイディアは、私たちにはまったく理解できません。

もし私がニーズをもつ身体で、あなたの身体が向こう側にあり、あなたにもニーズ
があると見えているなら、ひとつである私たち皆が、私に体験できるでしょうか?
できないでしょう。 そこで、私たちは取引をしなければなりません。その結果、
私たちのニーズは、お互いに殺しあわなくても満たされます。そこには、ワンネス
を理解する道はありません。それが、コースでイエスが時間と空間について、
まるで別々のものであるかのようにと語っている理由です。

私が立っているスペースがあり、あなたが立っているスペースがあります。
私が昨日立っていたスペースがあり、私が明日立っているスペースがあります。
そして、私が今立っているスペースがあります。ひとつの昨日(a yesterday)、
ひとつの明日(a tomorrow)、そして、ひとつの明日(a today)があります。
コースを通して、イエスは、時間と空間はまるで実在であるかのように語って
います。イエスは、聖霊がいる心の内側の、ある場所のことを話しています・・
或いは、まるで、彼がいる場所があるかのように・・天国はいつもまるでそんな
場所があるかのように描かれています。明らかにそうではないのにです。

そして、コースは、私たちがお互いにつながるということについて、
私たちそれぞれが他の人たちを自分たちとは分離したものとして知覚している
ように、話します。この一節は、イエスが次のようなことを説明するためのやり
方です・・それは実在しないのです。

ここにあるものは実在ではありません(Nothing here is real.)。
ここ、この形の世界にあるものは実在しないのです。
子であること(Sonship)という分離した心の内側にあるものは、
何も実在しないのです。
テキストのはじめのあたりの一節で、イエスは、まるで分離しているかのように、
エゴについて語っていることを実際には詫びています。(ところで、コースで彼が
そのようなことをしているのはこの箇所だけです)。彼は説明しています。

「私はまるでそれが分離していて、それ自身に従って行動するものであるかのよ
うに、エゴについて話してきた。これは、あなた方が軽率にそれを去らせること
ができないということを、あなた方に説かなければならなかったからである」
(テキスト4.VI.1:3-4)。

イエスはまた、聖霊を分離している誰かとして話しています。現実には、それぞれ
(エゴと聖霊)は、私たちの心の内側の声、或いは思考を、象徴しています。
それらは、私たちから分離していません。私たちがお互いから分離していない、
或いは、神から分離していないのと同様に。ですが、私たちは分離の世界を作り
上げてきたので、私たちは分離という幻想をもっています。
だから、私たちは、エゴか聖霊のどちらかを選ぶという幻想をもっています。
なぜなら、そのことは私たちにとって、極めて有意義だからです。

私たちは、分離の世界と選択の世界を作り上げてきました・・良い選択と悪い選択
の世界です。だから、イエスは私たちに、このようなやり方で話すのです、それ
が真実だからではありません・・真実は、神とキリストの完全なワンネスでしか
ありません・・しかし、彼は、私たちが理解する言葉で話さなければならないか
らなのです。そして、そのようなものは、幻想とシンボルの世界の言葉です・・
そこは、私たちが自分たちであると信じている場所です。
7.2 明らかに、それほどに引き裂かれた心が、すべてのものを自らの
   内側に統合する、ワンネスを教える教師であるはずがない。

ペン
そして、私たちひとりひとりは、それほどに引き裂かれた心の一部です。
なぜなら、自分たちは神とエゴのに、エゴと聖霊に引き裂かれていると、私たち
が信じているからです。また、自分たちは他のすべてのものから切り離されてい
るとも、信じています。明らかに、心が引き裂かれている限り私たちは決して
理解できないし、私たちが自分たちに、私たちはすべてひとつだと教えることは
決してできません。
引き裂かれた心・・そして、引き裂かれた心から生じる身体・・は、明らかに、
私たちから神とキリストのワンネスを隠すために作られました。エゴは知ってい
ます・・私たちは再びシンボルの世界の内側で話しています・・もし私たちが
ワンネスの、聖霊の、声を聞くなら、私たちは夢から目覚めて、もうエゴではな
くなるだろうということを。だから、エゴは引き裂かれた・・聖霊の愛から切り
離された・・心を作り上げました・・それが神の愛から切り離されたシンボルと
なったのです。

だから、エゴは、引き裂かれた身体・・分離された思考に満たされた身体を・・
そして、誰もが、どんなものもがお互いから分離しているかのように現れている
世界を、作り上げました。そして、身体と世界は、愛と、光と、そして心の合一を、
カモフラージュする煙幕です。だから、引き裂かれた心が教師であることはあり
えないのです。私たちには、私たちの心の内側で自分たちに話すことができ、
でも、引き裂かれた心によって制限されることのない、ワンネスのシンボルが
必要です。そして、そのようなシンボルとは、聖霊です。
7.4 しかし、それ(ワンネス、或いは聖霊)は、この心がそうだと考える
   条件のなかで、この心が理解できる言葉を使うに違いない。

ペン
聖霊は、概念とシンボルを使って、分離の言葉を話す必要があります。なぜなら、
それが、私たちに理解できるものだからです。私たちは、自分たちは神から分離
していると信じているのですから。私たちは、自分たちのガイドとしてエゴを選択
することによって、神は怒り、悪意があり、復讐するので、防衛しなければなら
ないと、自分たち自身を教えてきました。

だから、そのようなものを取り消すために、聖霊の贖罪の物語のシンボルに代表
される、反対のシンボル一組が私たちには必要です・・神は怒ることはないし、
神は赦し、そして、神は私たちを愛しておられるのです。

私たちが体験しているようなやり方で、神が私たちを愛したり、イエスが私たち
を愛したりするのではありません。しかし、これは、私たちが、自分たちの切り
裂かれた心を超えている、愛を受け取ることができる唯一のやり方なのです。

だから、聖霊は、私たちに語りかけます・・そして、聖霊の言葉の表われとして
の奇跡のコースは、私たちに語りかけます・・私たちが受け取ることと理解する
ことができるレベルで。
7.5 そして、それ(ワンネス)は、幻想を真実へと移す学習すべて
   を働かせるに違いない。あなたであるものの偽のアイディア
   すべてを用いて、あなたがそれらを超えて、それらを超えた
   真実へと導びかれるように。

ペン
それは、イエスと彼のコースの目的である、聖霊の目的です・・私たちを、偽の
アイディアすべてを超えて導くという目的です。だから、私たちは、最初に偽の
アイディアをもっているのです・・私たちは分離しているので、攻撃することや
特別であることは理にかなっています・・そして、私たちはそれを修正します。

私たちはひとつの幻想をもっています・・赦しという幻想です・・それが、分離
と攻撃の幻想を、修正し、取り消します。分離と攻撃の幻想すべてが、赦しの
幻想によって取り消されたとき、両方が消滅します。残っているのは、真実です。

コースは特別なシステムでユニークです。なぜなら、神と彼の愛の絶対的な純粋
性に関して・・神はどんな非現実、或るいは、幻想とも無関係です・・とても
明確だからです。同時に、コースは、私たちに、まさに実践的な思考システムと、
まさに実践的なスピリチュアルな道を与えてくれています。そして、私たちは、
自分たちだと信じている場所で・・形の世界のなかで、自分たちに出会えます。
そのアイディアとは、形の世界を超えて、ある思考へと導くことです。その思考は、
まだ分離の思考ではあるけれども、それに関係している、攻撃、殺人、特別であ
ること、などの概念をもちません。そのように、私たちはまだ、私たちが向かって
行こうとする自分たちの心のうちで、イエス、或いは、聖霊を体験しているのです。
私たちが完全な贖罪の思考になるとき、私たちはイエスのようになります。
イエスは消滅し、私たちは消滅し、離れていたものすべては聖霊の愛です。
そして、それもまた、そのとき、消滅します。

・・・・・・・・
エゴの枠組みの内側には、そこはコースが私たちのもとにやってくるところですが、
さらに解説する価値のあるふたつの論点があります。まず、エゴは、現実には私た
ちのひとつの切り裂かれた心の一部分ですが、それをまるで、私たちから分離して
いるかのように話しているところに価値があります。心の内側にふたつの声がある
と考えることは、助けになります。折に触れて、私は切り裂かれた心について、
3つの部分をもっているように話してきました・・エゴ、聖霊、そして、それらの
どちらかを選ぶ私たちの心の一部分です。現実には、それは全部ひとつです。

なぜなら、時間は・・直線的な過去、現在、未来・・ありません。そして、現実に
は分離しているものはありません。しかし、私たちは分離していると信じている
ので、そして私たちは過去、現在、そして未来があると信じているので、心を、
私たちがこれから耳を傾けようとする教師を選ぶ、教室だと考えることが助けに
なります。
私たちは皆成長してきました、意識してきたにせよ、してこなかったにせよ、
エゴのなかにしかいないと信じながら、そして、私たちは・・分離していて、
罪深く、罪悪感があり、怒り、悪意があり、意気消沈していて、孤独な人間だと
信じながら。だから、他の何かを象徴している、私たちの内側の、他の思考や
他の人間という幻想をもつことが、助けになります。私たちが、自分たちは幻想、
夢、シンボルの世界の内側にいると信じているうちは、私たちは、そのようなもの
と共に働かなくてはなりません・・しかし、それらが現実だからなのではありま
せん。結局は、私たちはすべてひとつだと認識するでしょう。
2番目の論点は、コースの神という言葉の使用が、真実、現実、ワンネス、知識、
その他・・のような、単に、人間を超えた(impersonal)言葉というよりはむしろ、
意図的だと理解することです。コース全体の論点は、私たちが神についてもって
いるすべてのネガティブな連想を、私たちの意識に上らせることです・・厳しい
男性、厳しい父、などなどとしての神ですから、私たちは彼らを赦すことができ
ます。それは、コースが、ユダヤ教とキリスト教共通の言葉に現れているからです。
そこでは、神はとても男性的な父だと見られています。そして、イエスのアイデン
ティティは、赦さない人々・・ユダヤ教徒とキリスト教徒の両方・・が彼に抱い
ているすべてが理由で、コースの中核をなしています。だから、コースは、偏見
と先入観すべてを、苦痛すべてを、恐れすべてを提起します。その結果、私たち
はそれらを見ることができるのです。
私たちが話している神の概念は、現実の神である何かではない、ということを付け
加えておきましょう・・私たちは、エゴが現実の神から作ったものについて話し
ています。だから、コースは、西欧世界の誰もが・・ユダヤ教徒であれキリスト
教徒であれ・・提起してきた名前を用いています。私たちは赦さなければなりま
せんが、じつはそれは偽の神です。

コースで、イエスは、ある箇所で自分自身について言及していますが、彼から作
られたむごい偶像、と語っています(用語解説5.5:7)。私たちがイエスについて考え
るとき、むごい偶像すべてが思い起こされます・・迫害、犠牲と死、排除と特別で
あること、などなどです。特別であることについての段落を終えるにあたって、
素晴らしい一行を紹介しましょう。「あなたの父を赦しなさい。あなたが十字
架にかけられているのは、彼の意志ではなかったのです」(テキスト24.III.8:13)。
じつは、私たちはイエスについても同じことを言うことができるでしょう・・
イエスを赦しなさい。私たちが十字架にかけられているのは、彼の意志ではなかっ
たのです。

 終わり
でぃーさんへ
お疲れ様でした。
ありがとうございます。
翻訳してくださる方たちのおかげで本来は読めないものが読めて本当に感謝します。ハート達(複数ハート)
八十さん

ありがとうございます〜。

ワプニックさんの解説は、コースの全体像を語ってくれて
いるので、とても、役に立ちました。

この講演の続きは、「祈りの歌」の解説になっています。

続きが読みたい方は、「自由に日本語訳コミュ」へどうぞ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35671110&comment_count=7&comm_id=3314973


えと・・皆様

八十さんには、打ち明けた(笑)のですが、ほんとに
わたしは英語力も単語記憶力もなく、辞書とネット辞書と参考書
と何度もいったりきたりしながら、ただ読みたいという気持ちだけで
訳しています。心意気です。。最近は少しずつ、向上中。

中学卒業の英語力あれば、誰でも訳せると思います。

自分で訳すと、ほんとに意味がよくわかります!

間違えても、誰かが指摘してくれて勉強になるし、
英語訳をみんなで少しずつ、していきながら、コースを
読んでいけたらいいなと思うのですよ。

日本語コミュに「みんなで訳そう・・テキストコーナー」
(ちよっと名前は違いますが・・)があるので、

ぜひ、よろしく〜双子座
マルさん、さっそくご参加くださってありがとうございますクローバー

えと・・
ケンさんのワークシッョプ「イエス;聖霊の顕現」の続きはこちらに
載せることになりました。

というのも・・

とてもだいじなことを「祈りの歌」の解説に入る前に言ってくれてるのに、
「祈りの歌」の訳をすすめてしまっていて、書く場所がない!からです。

というわけで・・↑の続きは↓です。
Part IV

私は今、私が今まで言ってきたことと、次に話すことに橋渡しをしたいと思ってい
ます。このワークショップのもうひとつの大きなテーマは・・私が話してきたこと
のなかに暗に含まれているのですが・・コースは多くの異なったレベルで書かれてい
るというアイディアです。じつは、これは、後できちんと取り組むことになります。

以前言ったこともあるのですが、コースにおけるいくつかの言明は、文字通り
受け取られています。一方、他のものは隠喩として、或いは、象徴的に受け取られ
ています。神は私たちのために泣いておられるというアイディア、或いは、神は
私たちがいないと寂しがっておられる、或いは、イエスまたは聖霊は私たちのため
に世界で仕事をしている、これらは、私たちが作った間違いを修正するための隠喩
やシンボルとして受け取られるべき言明です。イエスは私たちの象徴体系を用いま
すが、それに違う意味と違う内容を与えています。
このようなものすべてを論じる理由は・・また、このワークショップの重要な動機
のひとつでもあります・・私たちは、コースを自分たちのレベルに持って行こう
とするのではなく、むしろ、コースが生じているレベル、コースの真の源である愛
を達成しようとしているレベルへと、成長しようとすべきだということです。

イエスがコースで常に強調している、ある重要なテーマとは、私たちの役目が、
幻想を真実に持って行くことだということです。真実を幻想ではなく。私たちは、
愛を恐れに持って行きません・・私たちは、恐れを愛に持って行きます。
私たちは、暗闇を光に持って行きます、光を暗闇に持っていくのではなく。
私たちは、この世界とそこにあるすべてを作り上げたひとつの者たち(the ones)
です・・そして、私たちはそれを、神への攻撃として、彼の愛に対する防衛として、
作りました・・それは、意味がありません。私たちは、世界に神を引っぱりこむ
ために言います。「それを直してください。」 神は私たちを見て言います。
「何を直すのですか?」 神にはそう言うための口があるわけではありません・・
もちろん、私は隠喩として話しています。

むしろ、私たちは、世界の製造に導いた思考を、神に持っていくべきです。
そして、私たちの分離した心のうちの神の存在とは、コースが聖霊として言及し
ているものです。私たちはいつもこの世界で、自分たちの問題を作り上げるよう
にと誘惑されます。現実には、その問題は神を締め出そうと企てているのです。
そして、私たちはこの魔法の神を世界に引っ張り込みたがっているので、神は、
この世界の私たちの問題を直してくれるでしょう。そのようなことは、コースが
説明しているように、真実を幻想に持っていくことです。

コースは私たちに、その代わりに幻想を真実に持っていくよう求めています。
じつは、私はこう言いたいのです。「私たちは、それ(真実?) は多くのレベルで
私たちにやってくるということを認識して、敬意と尊敬の度合いによってコース
に接近すべきです」。もっとも高いレベルとは、私たちが目指そうとする何かで、
私たちが達成したいと願う何かです。
少し後に、私は「祈りのはしご」について話します。そのイメージは「祈りの歌」
のパンフレットで使われています。はしごには多くの踏み段、或いは、段階があっ
て、私たちは一番下です。はしごの頂上は、神の現実で、それについては以前に
論じました(紫の線の上)。

私たちがパンフレットの始まりについて論じるとき、イエスの重要な目的は、次の
ように語りかけられていると気づくでしょう。「私たちは、はしごの一番下の踏み
段から始めることがりっぱだ」と。なぜなら、それが、私たちがいるところだから
です・・しかし、それは終わりたいと願うところではありません。私が以前に話し
た「共和制」の一節で、プラトンは尋ねています。「私たちは現実のものを手に
入れることができるのに、なぜ、模造品、或いは、模写でよしとするのだろうか?」
フランツ リストが書いた手紙から短い抜粋を読もうと思います。それは私が語り
たいことに関連しています。フランツ リストは、もちろん、19世紀の偉大な音
楽家です。彼はまた、19世紀の偉大なドイツの作曲家リチャード・ワーグナー
の義父でした。ワーグナーのオペラ、或いは「音楽ドラマ」、彼はそう呼んでい
ますが、いつも、かなり冗長な傾向があります。

あるオペラの上演後に、リストは友達に手紙を書きました。彼はその手紙でワー
グナーの作品ついてよく目にする批判について述べています。・・それらはあま
りに長く、難しすぎると。そして、次のはリストが言っていることです。

「偉大な作品とは、身体と魂、形と志向、スピリットと生命すべてが抱擁される
ものでしょう。人は、その長さで決してワーグナーをとがめてはいけません。
人の物差しを彼のまで大きくするほうがいいでしょう。」ワーグナーを引きずり
おろすよりむしろ、人は彼の天賦の才にまで成長しようとすべきです。
このことは、コースの観点から見るとさらにはっきりするでしょう。二千年前の
イエスのメッセージに関して、キリスト教がした大きな間違いのひとつは、彼が
教えていたものにまで成長しようとするよりもむしろ、キリスト教がイエスと彼
のメッセージを世界のレベルまで持ってこようとしたことです・・もちろん、
それはまさにエゴの応答です。

だから、キリスト教のメッセージは、まさに苦しみと犠牲、殺人と死、罪悪感、
特別であること、排他性、儀式と形などなどに満ちたメッセージになりました。
人々は、イエスが言ったことや教えてくれたことを自分たちは理解していると思
いました。だから、彼らは、彼の本質を見失っていたと認識することなく、彼の
メッセージを伝道し始めました。だから、今、コースに関して同じことをするの
は、とても簡単なことです。
このことは、コースの観点から見るとさらにはっきりするでしょう。二千年前の
イエスのメッセージに関して、キリスト教がした大きな間違いのひとつは、彼が
教えていたものにまで成長しようとするよりもむしろ、キリスト教がイエスと彼
のメッセージを世界のレベルまで持ってこようとしたことです・・もちろん、
それはまさにエゴの応答です。

だから、キリスト教のメッセージは、まさに苦しみと犠牲、殺人と死、罪悪感、
特別であること、排他性、儀式と形などなどに満ちたメッセージになりました。
人々は、イエスが言ったことや教えてくれたことを自分たちは理解していると思
いました。だから、彼らは、彼の本質を見失っていたと認識することなく、彼の
メッセージを伝道し始めました。だから、今、コースに関して同じことをするのは、
とても簡単なことです。
この誤りを生じさせた大きなものは、シンボルをリアリティと混同すること、形を
内容と混同することです。コースの大部分が、象徴的なレベルで書かれている
ことを理解するのはとても大切です。そこがわたしたちのいるところなのですから。
もし私たちがシンボルに成長するなら、私たちはそのようなものが終わりだと認識
するでしょう。シンボルはリアリティに、常にそこにある愛に、消滅します。
このことが、私がこれから展開するワークショップの主要なテーマです。

・・・・・・
さて、「祈りの歌」を読みましょう。初めのふたつの段落からいくつかの文章を
読みます。ここには極めて重要な内容が含まれているのですが、あまり時間を費
やしません。

ここでは、その言葉を実際に用いるのではなく、イエスが、出現(appearance)と
現実(reality)、シンボルと真実(truth)の違いについて語っている部分に焦点を
当てます。

ここは彼が、コースの言葉のなかで矛盾して現れているものを表現している箇所
でもあります。しかし、彼は、それらがまったく矛盾していない理由を説明しよ
うとしています。この議論は、イエスが明らかに現実とシンボルのどちらでもあ
ることと、シンボルの重要性を、私たちに考えさせてくれる手助けとなるでしょう。
このパンフレットでは隠喩が用いられています。初めのページで顕著ですが、
その隠喩は、はしごについてです。はしごの頂上は「祈りの歌」と呼ばれ、
183課で言及されているものと同じ状態です。

「宇宙には、父に呼びかける神の子以外は存在しない。そして、彼の父の声は、
父の聖なる名において答えを与える」(ワークブック 183課 11.4)
「祈りの歌」は、父が子に歌い、子が父に歌う、愛と感謝の歌です。しかし、
音符のない音のない歌です。「歌」という言葉はここでは、まさに隠喩です。
テキストの素晴らしいセクション「忘れられた歌」(テキスト 21.?)と呼ばれて
いるものと同じです・・それは同じ隠喩です。

私たちが忘れてしまった歌は、神とキリストにつながる歌です。祈りの歌、或いは、
はしごの頂上は、まさにチャートの紫の線の上に表されているものです。私たちが、
自分たちのスピリチュアルな旅を完成させるとき、はしご全体が消滅し、そして
私たちは、その結果、祈りの歌のなかに消滅します・・つまり、私たちは祈りの
歌になります。そういうわけてで、パンフレットの初めのページはこの隠喩を表
しているのです。
このあと、ワークショップは、「祈りの歌」本文の解説に入りますが、

ケンさんのワークショップ訳は、細切れに・・ふたつのコミュで進行し、
さらに、一番初めの講演内容はいまだ読めていないという、
この世界のような分離状態です。

統合しなくては・・と、思うので、かなりめんどくさい気がしますが冷や汗
やっぱり、初めからぜんぶ読みたいので、

自由に日本語訳コミュで、一番初めから読むことにします。

そして、ぜんぶ繋げるという・・壮大な計画です。。。

時間はそのためにあるのだから、ぼちぼちいきます。

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