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ヴィクトール・ユゴーVictorHugoコミュの死刑囚最後の日(序文)1

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 本書の初めの諸版は、著者の名前なしでまず出版されたものであって、冒頭には次の数行しかついていなかった。


 本書の成立を会得するのに、2つのしかたがある。すなわち、黄ばんだ不揃いなひとたばの紙が実際あって、一人のみじめな男の最後の思想が、それに一つ一つ書き留められているのが見出されたのだと。あるいはまた、哲学者とか詩人とか、とにかく一人の者が、芸術のために自然を観察している夢想家があって、本書のなかにあるような観念を心にうかべ、それを取りあげて、というよりむしろそれに捉えられて、それからのがれる途はただ、それを1冊の書物として投げ出すよりほかはなかったのだと。
 その2つの説明のうち、どちらなりと好きなほうを読者は選ぶがよい。


 右のことでわかるとおり、本書が出版された当時、著者は自分のすべての考えをすぐに述べるのが適当だとは思わなかった。そして自分の考えが人に理解されるのを待つほうを好み、はたして理解されるかどうかを見るのを好んだ。ところが著者の考えは理解された。で今や著者は、文学という潔白清純な形式で普及させようとした自分の政治的思想や社会的思想を、あからさまに持ち出すことができる。そこで著者は言明する、というよりむしろ公然と告白する、『死刑囚最後の日』は、直接にかあるいは間接にかは問わずして、死刑の廃止についての弁論にほかならないと。著者が意図したところのものは、そして後世の人がかかる些事にも気を配ってくれることがあるとすれば、後世の人から作品のなかに見てとってもらいたいと著者が思ったところのものは、選ばれたる某罪人についての、特定の某被告についての、いつでも容易なそして一時的な特殊の弁護ではなくて、現在および未来のあらゆる被告についての、一般的なそして恒久的な弁論である。大いなる最高法院たる社会の前においてあらゆる人が陳述し弁護する、人間の権利に関する重大な一事である。すべての刑事訴訟より以前に永遠に打ち立てられている、最上の妨訴抗弁であり、血に対する嫌悪である。すべての重罪審の底で、法官らの血なまぐさい修辞学の熱弁の三重の厚みにおおわれながら、ひそかにうごめいているほの暗い避けがたい問題である、生と死との問題であり、なおあえて言えば、衣をはがれ、裸体にされ、検事局の堂々たる世迷よまい言ごとをはぎ取られ、むごたらしく白日の明るみにさらされ、正当の視点にすえられ、本来あるべき場所に、実際ある場所に、本当の環境に、恐るべき環境におかれ、法廷にではなくて死刑台に、判事の手中にではなくて死刑執行人の手中におかれた、生と死との問題である。
 著者が取り扱おうと欲したものは右のとおりである。あえて望みかねることではあるが、それをなした光栄をもしも将来いつか著者が得ることがあるとすれば、著者にとって本懐の至りである。
 そこでなお言明しくりかえすが、著者は無罪のあるいは有罪のあらゆる被告の名において、すべての法廷や裁判所や陪審や審判の面前に席を占め、本書はすべて裁判官たる者に掲示されるものである。そしてこの弁論は、事件が広範にわたると同様に広範にわたるべきものであるから、したがって、『死刑囚最後の日』はそういうふうに書かれたのであるが、主題において各方面に削除をほどこし、偶発的なこと、事件的なこと、個人的なこと、特殊なこと、相対的なこと、変更できること、枝葉のこと、珍しいこと、結末のこと、人物の名前などはすべて除いてしまって、ただ特定のものでなしに、ある罪のためにある日処刑されたある死刑囚の事件を弁論する、というだけに限らねばならなかった(それが限るということになるならば)。もし著者が、ただ自分の思想だけの道具でかなり深く穿鑿せんさくして、3重の青銅板で張られている一司法官のかたくなな心に断腸の思いをさせえたならば、仕合せである。自ら正しいと思っている人々を憐れむべき者となしえたならば仕合せである。裁判官の内部を掘り返して、時としてそこに一個の人間を再現させることができたならば、仕合せである。
 3年前本書が世に出た時、ある人々は著者の観念を非議すべきものだと考えた。そして本書を、あるいはイギリスのものだとし、あるいはアメリカのものだとした。ふしぎな癖である、事物の源を百里のかなたに探し求めようとするとは、われわれの街路を洗っている溝をナイル河の水源池に流れさせようとするとは。遺憾いかんながらこのなかには、イギリスの書物もなく、アメリカの書物もなく、または中国の書物もない。著者は『死刑囚最後の日』の観念を書物のなかから取ってきたのではない。著者は観念をそう遠くに探し求める習慣をもってはいない。著者が本書を思いついたのは、誰でもみなが思いつきうるところ、誰でもおそらく思いついたろうところ(というのは、死刑囚最後の日を頭のなかで考えるか想像するかしなかった者があろうか)、ただ単に公けの広場、グレーヴの刑場においてである。ある日そこを通りながら著者は、断頭台のまっかな木組の下の血の溜りのなかに横たわってるこの避けがたい観念を拾いあげたのである。
 それからというもの、最高法院の悲しむべき木曜日のなりゆきにしたがって、死刑決定の叫びがパリの中におこる日がくるたびごとに、グレーヴの刑場に見物人を呼び集める嗄しわがれたわめき声が窓の下を通ってゆくのを聞くたびごとに、著者は右の痛ましい観念に再会して、それにとらえられ、憲兵や死刑執行人や群集などのことが頭にいっぱいになり、死にのぞんでいるみじめな男の最期の苦悶を刻々に見る気がし――ただいま彼は懺悔ざんげをさせられてる、ただいま彼は両手を縛られてる――そしてただ一介の詩人たる著者は、そういう恐ろしいことが行なわれているのに平然と自分の仕事をしている全社会にむかって、すべてのことを言ってやらずにはおられなくなり、せきたてられ突っつかれ揺すられて、詩を作っている折にはその詩を頭からもぎとられ、ようやくできあがりかけてる詩をすべて打ち砕かれ、あらゆる仕事を妨げられ、万事に途を遮られ、ただその観念におそわれつきまとわれ攻めつけられるのだった。それは一つの刑罰であって、その日とともに始まって、他方で同時に苦しめられているみじめな男の刑罰と同様に、四時まで続くのだった。4時になってようやく、切られし頭死せりと大時計の凄惨せいさんな音が叫んでから、著者は息をつくことができ、精神の自由をややとりもどすのだった。そしてついにある日、ユルバックの処刑の翌日だったと思うが、著者は本書を書きはじめた。それ以来はじめて胸が和らいだ。司法的執行といわれるそれら公けの罪悪の一つが行なわれる時、著者はもはやそれについて連帯の責がないことを良心から告げられた。グレーヴの刑場から社会の全員の頭上にほとばしりかかる血のしたたりを、著者はもはや自分の額に感じなくなった。
 とはいえ、それではまだ足りない。自分の手を洗い清めるのはよいことである。が、血を流すことをやめさせるのはさらによいことであろう。
 それゆえ著者はもっとも高い神聖な荘厳な目標をめざしたい。すなわち、死刑の廃止に協力すること。それゆえ著者は、もろもろの革命がまだ引き抜いていない唯一の柱たる死刑台の柱を打ち倒すことに数年来つとめている、各国の殊勝な人々の希願と努力とに、心底から左袒さたんする。そして弱小な者ではあるが、喜んで自ら斧おのの一撃を加えて、多くの世紀をさかのぼる昔からキリスト教諸国の上につっ立っている古い磔刑たっけい台に、六十年前ベッカリアが与えた切り口を、力のおよぶかぎり大きくしたいのである。
 今言ったとおり、死刑台はもろもろの革命から転覆されていない唯一の建物である。実際、革命はめったに人間の血を惜しまない。社会の葉を刈り、枝を刈り、頭を刈るために到来した革命にとっては、死刑はもっとも手放しにくい鉈なたの一つである。
 それでもうちあけて言えば、死刑を廃止するにふさわしくそれができそうに見えた革命があるとすれば、それは七月革命であった。まったく、ルイ11世やリシュリューやロベスピエールなどの野蛮な刑罰を除き、人間の生命の不可侵性を法律の額に記入することは、近代のもっとも寛仁な民衆運動たるこの革命の仕事であるようだった。1830年は1793年の肉切り庖丁を折り捨てるにふさわしかった。
 われわれは一時そのことに望みをかけた。1830年8月には、多くの寛仁と憐憫とが空中に浮かんでおり、穏和と文明との強い精神が衆人のうちに漂っており、美しい未来が近づいてくる輝かしい心地を人に深く感じさせたので、われわれのじゃまとなっていた他のあらゆる悪事と同様に死刑も、暗々裡の衆人一致の合意で正当に一挙に廃止されるもののように、われわれには思われた。民衆は旧制度のあらゆる古着を燃やして祝い火としていた。そしてこんどのは血ににじんだ古着だった。われわれはそれが多くの古着の積み重なっているなかにあると思った。他のものと同様に燃やされたのだと思った。そして数週間のあいだ、信頼しやすく信じやすいわれわれは、自由の不可侵性とともに生命の不可侵性が未来に対して確保されたものと思った。
 はたして2か月とたたないうちに、セザール・ボヌザナの崇高な理想を実際法律上に解決せんがために、一つの試みがなされた。
 不幸にもその試みは、粗悪で、拙劣で、ほとんど偽善的なものであって、一般の利害よりも他の利害のためになされた。
 1830年10月、人の記憶するかぎり、ナポレオンを円柱塔の下に埋めようとの提議を議事日程で退けた数日後、議会は全員泣きはじめ嘆きはじめた。死刑の問題が議題にのぼったのである。どういう機会でかは後ですこし述べるつもりであるが、その時、それらすべての議員の心は突然異常な慈悲の念にとらえられたらしい。各人が争って口をきき、うち嘆き、両手を天に差し出した。死刑とは、ああ何と恐ろしいことか! ある老年の検事長は、血色の法服のうちに老いて白髪となり、血に浸った論告のパンを生涯かじってきた男だったが、突然哀れっぽい様子をして、神に誓って断頭台を憤る旨を述べた。二日間たえまなく、議政壇上は泣き女めいた長広舌で満たされた。それは一つの哀歌であり、喪の歌であり、挽歌の合奏であり、「バビロンの河の上に」の聖歌であり、「マリア立ちいたりき」の聖歌であり、合唱隊つきのト調の一大交響楽であって、議会の上席を占め白昼いかにもみごとな音を出す雄弁家などの楽隊によって演奏されたのである。ある者は低音をもたらし、ある者は金切声をもたらした。なにひとつ欠けてるものはなかった。このうえもなく悲壮な痛ましい光景だった。ことに夜の会議は、ラショーセの戯曲の5幕目のように、情け深いやさしいまた悲痛なものだった。善良な公衆は、何のことかわけもわからずに、目に涙をうかべていた。――(われわれは、その時議会で述べられたものの全部を、同じ軽蔑のうちに包みこもうとするものではない。あちらこちらで、品位ある立派な言も発せられた。われわれもすべての人々とともに、ラファイエット氏のまじめな率直な演説を喝采かっさいしたし、また他のある意味で、ヴィルマン氏の注目すべき即席演説を喝采した。)
 それはいったい何の問題についてであったか。死刑の廃止についてであったか。
 そうでもあるし、またそうでもない。
 事実はつぎのとおりである。
 上流社会の4人の男、申し分のない男、社交場裡に立ち交って敬意をもって遇せられた人物、その4人の男が、ベーコンに言わせれば罪悪となりマキアヴェリに言わせれば企図となるような大胆な行いを、政界の中心で試みた。ところで罪悪にせよ企図にせよとにかく、万人に対して横暴な法律はそれを死刑で罰した。そして4人の不幸な男は、ヴァンセンヌのみごとなアーチ建築のなかに閉じこめられ、法律の捕虜となって、3色の帽章をつけた300人の者に護られていた。どうしたらよいか。どういうふうにしたらよいか。われわれと同じような四人の男を、四人の上流の男を、それと名ざすことさえはばかられる役人と背中合せにし、いやしい太縄で縛りあげ、荷車に乗せて、グレーヴの刑場に送ることは、どうも不可能なことではないか。マホガニーでできている断頭台でもあればまだしも!
 だから、死刑を廃止するだけのことだ。
 そこで、議会はその仕事にとりかかる。
 ところで代議士諸君よ、昨日まで諸君はこの死刑の廃止を、単に空想で理論で夢想で狂愚で詩だとしていた。がその荷車や太縄やまっかな恐ろしい機械に諸君の注意を呼ぼうとするのは、これがはじめてではない。そしてこの醜悪な器具がようやく突然諸君の眼につくというのは、ふしぎなことである。
 いや、そこに問題があるのだ。われわれが死刑を廃止しようとしたのは、それは民衆のためにではなく、われわれのため大臣ともなりうるわれわれ代議士たちのためにである。われわれはギヨタンの機械が上流階級をついばむのを欲しない。そこでわれわれはその機械を壊す。もしそのことが一般世人のためになれば仕合せというものだ。しかしわれわれが考えたのはわれわれだけのことである。隣りのユカレゴンの宮殿が燃えている。その火を消せ。いそいで、死刑執行人を廃し、縄を取り除こうではないか。
 そういうふうにして、利己主義の混和はもっとも美しい社会的結合を変質させ不自然になす。それは白大理石のなかの黒脈である。それが到るところに通っていて、鑿のみの下に不意にたえず現われてくる。彫像は造りなおさなければならない。
 たしかに、ここに言明するにもおよばないことではあるが、われわれは4人の大臣の首を要求する者ではない。それらの不幸な人々がひとたび捕縛されるや、彼らの犯罪によって惹起された憤怒の念は、われわれにおいてもすべての人におけると同様に、深い憐憫の情に変わった。われわれは思いやった、彼らのうちのある者たちのかたよった教育のこと、1804年の陰謀の熱狂的な頑固な再犯者であり、牢獄のしめっぽい影の下に早老の白髪となっている、彼らの首領の偏狭な頭脳のこと、彼らの共通な地位が宿命的に要求していたもののこと、1829年8月8日に王政自身がまっしぐらに駆け降りたあの急坂を、途中で立ちどまることの不可能だったこと、それまでわれわれがあまり考慮を払わずにいた、王家の者の勢力のこと、ことに、彼らのうちの一人が彼らの不幸のうえに緋ひの衣のように広げかけていた威厳のことなどを。それでわれわれは、彼らの命が助かることを衷心ちゅうしんから希望する者であり、そのためには常に尽力を惜しまない者である。万一彼らの死刑台がグレーヴの刑場に立てられることであったとすれば、たとい空想にもせよわれわれは信じたいのであるが、たぶんその死刑台を転覆するために暴動が起こったであろう。そして今これを書いている著者はその神聖な暴動の仲間にはいっていたであろう。なぜかなれば、これもまた言っておかなければならないことであるが、すべて社会的危機においては、あらゆる死刑台のうちでも、政治的死刑台はもっとも呪うべきものであり、もっとも痛ましいものであり、もっとも有毒なものであり、もっとも根絶しなければならないものである。この種の断頭台は敷石のなかにも根をおろして、わずかの間にあらゆる地点に生え広がる。
 革命の時には、切り落とされる最初の首に注意しなければいけない。それは首に対する貪欲心を民衆におこさせる。
 それゆえわれわれは個人的には、4人の大臣に死刑を免れさしてやろうと欲する人々に賛成であり、感情的にも政治的にもあらゆる点で賛成であった。ただ、死刑の廃止を提議するのに議会が他の機会を選ぶことこそ、われわれのさらに好むところだった。
 もしその望ましい廃止が、チュイルリーの宮殿からヴァンセンヌの牢獄へ落ちこんだ4人の大臣についてでなく、ある大道の強盗について、あるみじめな者について、提議されたのであったならば……。みじめな人々、街路で諸君のそばを通っても、諸君はそれにほとんど目もくれず、言葉をかけもせず、その埃まみれの肱を本能的に避けようとする。不幸な人々、幼年時代にはぼろを着て、四つ辻の泥のなかをはだしで駆けまわり、冬は河岸べりにうち震え、諸君が食事をしに行くヴェフールの家の料理場の風窓で身をあたため、あちこちで塵埃塚ちりのなかからパンの皮を掘り出し、それをふいてから食べ、終日鉤かぎで溝をかきまわしては一文二文を漁あさり、楽しみとしてはただ、国王の祝日の無料の見世物と、もう一つの無料の見世物たるグレーヴの死刑執行だけである。憐れな者ども、空腹から窃盗をするようになり、窃盗からその他のことをするようになる。邪険な社会の裸一貫の子供たち、12歳で懲治監ちょうじかんに引き取られ、18歳で徒刑場に送られ、40歳で死刑台にのぼらせられる。不運な人々、一つの学校と仕事場とを与えられれば、善良な者となり、正当な者となり、有用な者となるはずなのを、なすすべを知らぬ諸君のために、ただ無益な荷物として、あるいはツーロン徒刑場の赤服の群のなかに投げこまれ、あるいはクラマール墓地の黙然たる囲壁のなかに投げこまれて、自由を盗まれた後に生命を強奪される。もしそれらの人々の誰かについて、諸君が死刑の廃止を提議していたならば、おお、その時こそ、諸君の会議は本当に立派な偉大な神聖なおごそかな尊むべきものとなったであろう。トラントの崇あがむべき教父たちは、異端者らの改宗をも希望したので、神聖会議は不信者の帰依を希うがゆえに、神の内臓の名において異端者をも会議に招いたが、そのトラントの会議以来、諸君の会議は人の集会としては、もっとも崇高な顕著な慈悲深い光景を世に示したであろう。弱い者や微賤な者のことを図ってやるのはいつも、真に強い者や真に偉大な者の仕事である。バラモン僧の会議は第四階級の事件を取りあげる時に立派なものとなる。そしてここでは、その第四階級の事件はすなわち民衆の事件である。民衆のために、そして諸君自身の利害が問題となるまで待つことをせずに、死刑を廃止するのであったら、諸君は政治的な仕事以上のものをなすことになり、一つの社会的な仕事をなすことになるのであった。
 しかるに、死刑を廃止せんがためにではなく、武断政略の現行を押さえられた四人の不幸な大臣を救わんがために、それを廃止しようとすることによって、諸君は一つの政治的な仕事をさえもなさなかった。
 そこでどういうことになったか。諸君が真摯しんしでなかったと同様に、人は諸君を信用しなかった。
 諸君が民衆をだまそうとしてるのを民衆は見てとって、その問題全体に憤慨し、そして注意すべきことには、自分たちだけでその重みをになっている死刑に対して味方した。民衆をそこまで導いたのは諸君の失策である。その問題に間接に不正直に手をつけて、諸君はそれを長く害そこなった。諸君は芝居をした。芝居は失敗に終わった。
 それでもその茶番狂言を、ある人々は親切にも本気で受け容れてくれた。あのすてきな会議のすぐ後で、正直な司法卿は、あらゆる極刑をいつまでということなく停止するよう、検事長らに指令を与えた。それは表面上一大進歩だった。死刑反対者らは息をついた。しかし彼らのいたずらな望みは長くつづかなかった。
 大臣らの裁判は終結した。どういう判決が下されたかを私はしらない。4人の生命は赦ゆるされた。ハムの牢獄が死と自由とのあいだの中庸として選ばれた。そういう種々の処置がひとたびなされてしまうと、国政を指導する人々の頭からすべての恐怖が消えうせ、恐怖とともに人情も去った。極刑を廃止することはもはや問題でなくなった。そしてひとたびその問題の必要がなくなると、彼らのいわゆる空想はふたたび空想となり、理論はふたたび理論となり、詩はふたたび詩となってしまった。
 けれどもなお監獄のなかには、数人の不幸な平民の囚人らがいて、5、6か月前からその中庭を歩き、空気を吸い、入獄後おとなしくなり、生きられるものだと信じ、死刑執行の延びるのを赦免のしるしだと思っている。けれども、早まってはいけない。
 実をいえば、死刑執行人はひどく恐れた。立法家が人情や仁愛や進歩などを説くのを聞いた日、彼はもう万事だめだと思った。みじめな彼は断頭台の下にうずくまり、夜の鳥が真昼の光に遭あったように7月革命の太陽に不安をおぼえ、自分を忘れようとつとめ、耳をふさぎ息をひそめた。そして6か月間姿を見せなかった。生きてるしるしさえ示さなかった。けれどもしだいに彼はその闇黒のなかで安心しだした。彼は議会のほうに耳をすましたが、もう自分の名が口にのぼせられるのを聞かなかった。ひどく恐れていたあの響きの高い堂々たる言説ももう聞こえなかった。『犯罪および刑罰論』の大げさな注釈ももう聞こえなかった。人々は他の事柄に頭を向けていた。ある重大な社会的利害問題、ある村道問題、オペラ・コミック座に対する補助金問題、あるいは、卒中患者みたいな15億の予算からわずか10万フランの出血治療をなす問題、などに頭を向けていた。もう誰もかの首切り人のことを考えていなかった。それを見て彼は心がおちつき、穴から頭を出して四方を眺めた。そしてラ・フォンテーヌの物語の中のあるはつかねずみのように、一足二足とはい出し、それから思いきってその木組の下からすっかり外に出で、次にその上に跳び乗って、それを修繕し修復し研みがき擦すり動かし光らして、使われなかったために調子がくるっているその古いさびた機械にふたたび油をぬりはじめる。そして突然彼はふりむいて、監獄のなかから手当りしだいに助かるつもりでいる不運な者を1人つかまえ、その頭髪をつかんで自分のほうへひきよせ、何もかも剥ぎ取り、縄でゆわえ鎖で縛る。そしてふたたび死刑執行がはじまる。
 それは恐るべきことではあるが、しかし事実である。
 実際、不幸な囚人らへ6か月の猶予が与えられた。そのため彼らは助かるかもしれないという望みを懐くことによって、いわれなく刑を重くされたようなものである。6か月後のある朝、理由もなく、必要もなく、なぜかもわからず、面白半分に、猶予が撤回されて、それらの男たちは規定の切断機へ冷やかにまわされた。ああ、諸君にたずねたい。それらの男たちが生きているということがわれわれ皆の者に何のわずらいとなったか。フランスには万人のために呼吸する空気が十分にないのか。
 ある日、司法省のいやしい一使用人が、どうでもよいことなのに、椅子から立ちあがって、「さて、もう誰も死刑廃止のことを考えていないから、また首切りをはじめてみるかな。」と言ったとすれば、その男の心のなかには、きわめて奇怪な何かがおこったにちがいない。
 それにまた、あえていえば、この7月の猶予撤回の後、死刑執行にはもっとも恐ろしい事故がともなって、グレーヴ刑場の話はもっともいまわしいものとなり、死刑の呪うべきことをもっともよく証明した。そして人の嫌悪を倍加させたことは、死刑法をふたたび実施した人々の受ける正当な懲罰である。彼らはそのなせるわざによって罰せられてあれ。あっぱれ出来しゅったいしたるものかな。
 死刑執行が往々にしていかに恐ろしい非道なものであるかについて、ここに2、3の実例をあげなければならない。検事夫人らの神経を痛ませなければならない。女は時として良心である。

<後半に続く>
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1005521&id=78727705

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