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ヴィクトール・ユゴーVictorHugoコミュの関連:土井晩翠の生涯

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*写真は左が野口明・画の40歳頃と思われる晩翠像。
*右は80歳の文化勲章の晩翠と作品群。

*年齢は数え歳です。

1871(明治4)年1歳
ヴィクトール・ユゴー風に言えば、「土井晩翠が生まれた時、明治時代は4歳だった」ですね。
「私(ユゴー)が生まれた時、今世紀(19世紀)は2歳だった」を真似すると。
土井家は仙台の質屋で、言わば金貸し業で財産があった。
父親から八犬伝や太閤記を聞かされ、祖母から和歌の手ほどきを受けて育った。

1880(明治13)年10歳
小学校で「十八史略」を教わった。後に終生の愛読書となる。

1884(明治17)年14歳
小学校を出たが祖父に進学を阻まれ、質屋の丁稚(でっち)として働かされる。

1885(明治18)年15歳
ヴィクトール・ユゴー没。
《自由之燈》には2,30回に渡ってユゴーの伝記評論が載せられ、晩翠は終生忘れない感銘を受ける。

1887(明治20)年17歳
仙台英語塾が開かれ、晩翠も通う。「フレデリック大王論」などを学ぶ。

1888(明治21)年18歳
前年に開いた第二高等中学校(旧制二高の前身)に入学。
森鴎外の西詩訳集『於母影』などを耽読。

1894(明治27)年24歳
第二高等学校を卒業して東京帝国大学(英文科)に進む。

1898(明治31)年28歳
5月、カーライルの"Heroworship and the Heroic in history"を翻訳し春陽堂から『英雄論』として出版。
11月、《帝国文学》に「星落秋風五丈原」(三国志の名軍師・諸葛亮孔明を惜しんだもの)を発表。

1899(明治32)年29歳
4月、詩集『天地有情』を博文館より出版。
附録としてカーライルの『英雄論』、エメルソンの『論文集』、
ユゴーの『光と影』の訳文を載せている。
『若菜集』の島崎藤村と並び称される新体詩人となる。
12月末、東大の友人の妹・林八枝と結婚。
翌年、母校・第二高等学校の教授として仙台に帰郷。

1901(明治34)年31歳
3月、仙台城や会津若松城を想った「荒城の月」の作詞が『中学唱歌』に掲載され、滝廉太郎の作曲とともに広く国民に親しまれた。
4月、博文館の『世界歴史譚』の第22編として「那破翁」(ナポレオン)を刊行。
6月休職、後に辞任し、私費で欧州留学。ロンドンのユニヴァーシティ・コレージで英文学、パリのソルボンヌ大学で仏文学、ライプツィヒ大学で独文学の研究を行う。イタリアにも行っている。ロンドンでは夏目漱石を訪問。
1904(明治37)年11月帰国。

1906(明治39)年36歳
1月より、《太陽》誌上でミルトンの失楽園の翻訳を載せるが、翌2月、連載は打ち切り。訳はその後も続けていたようである。
長女・照子出生。

1908(明治41)年38歳
5月、イポリット・テーヌの『現代フランスの起源』からの抄訳『ナポレオン性格論』を出版。

1919年(大正7)年49歳
5月、第4詩集『曙光』を刊行。
11月、『晩翠詩集』を刊行。
『天地有情』『暁鐘』『東海遊子吟』を合わせたもの。
*『東海遊子吟』はバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』に着想を得たものと指摘されている。
*後に『曙光』と翌1920年刊行の『天馬の道に』を合わせた改訂版も刊行している(1927年)。

1924年(大正13)年54歳
4月、バイロンの100年祭記念として『チャイルド・ハロウドの巡礼』全訳を刊行。

1932年(昭和7)年62歳
6月23日、長女・照子が27歳で病没。
8月、第6詩集『アジヤに叫ぶ』刊行。
この年、土井の読みをツチイからドイに改める。

1934年(昭和9)年64歳
9月、随筆集『雨の降る日は天気が悪い』刊行

1935年(昭和10)年65歳
ヴィクトール・ユゴー50周年祭にちなみ、《東京日日新聞》に「詩人としてのビクトル・ユーゴー」を寄稿。
昭和8年に病没した長男・英一の遺書にしたがい、西洋に日本の良さを紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の記念碑を上野に建てる。
なお、若くして病没した照子・英一は、晩翠が「こういうと親馬鹿と言われるのは請け合だが、2人は共に鳶が生んだ鷹であった」と評しただけあり、非常に霊性の優れた人だったようです。

1936年(昭和11)年66歳
この頃からだんだんと心霊学に興味を持ち、11月《主婦の友》の座談会「心霊の世界を語る」に出席。
盛岡の小林寿子という人が霊媒。
星猛夫と共に「東北心霊科学研究会」を作り、後に「福来心霊研究所」の所長となった白川勇記を会長とする。

1937年(昭和12)年67歳
12月、第7詩集『神風』刊行。

1940年(昭和15)年70歳
11月、『イーリアス』の原典韻文訳詩を富山房より刊行。

1943年(昭和18)年73歳
2月、『オヂュッセーア』の原典韻文訳詩を完成し富山房より刊行。
ホメロスの2大叙事詩完訳を記念し『自選詩抄』を刊行。

1945年(昭和20)年75歳
7月10日未明、仙台市空襲で自宅、貸家、蔵書3万冊余を焼失。

1947年(昭和22)年77歳
《心霊研究》第一号に「心霊科学について」を寄稿。

1949年(昭和24)年79歳
5月、本多光太郎、志賀潔両博士と共に最初の仙台名誉市民となる。
晩翠会から旧居跡に草堂が建設され贈呈された。
仙台市の都市計画により青葉通に南面した所。

1950年(昭和25)年80歳
11月3日、詩人としてはじめて文化勲章を受賞。

1952年(昭和27)年82歳
10月19日急性肺炎で亡くなられた。
10月24日、一般市民2000人が参列し仙台市葬。

*80歳を過ぎるまで生きた事、娘さんを失って心霊研究に熱中した事など、ヴィクトール・ユゴーと共通する所が見られますね。ナポレオン崇拝もあり、心情も似ていて、影響も大きいものと見えます。

コメント(2)

左は1901(明治34)年、晩翠31歳。

真ん中は1920(大正8年)頃、50歳頃の晩翠。

右は1923(大正11年)頃、53歳頃の晩翠と家族。
上段左が次女・(中野好夫に嫁いだ)信子、
真ん中が妻・八枝、長女・照子。
下段左が長男・英一、右が晩翠。
左は1949年(昭和24)年79歳12月志賀潔が晩翠邸を訪問した時の写真。

真ん中は1951年(昭和26)年頃、81歳頃に草堂にて。

右は1951年(昭和26)年、81歳の晩翠。

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