年を取るにつれ、酒の飲み方が変わってきた。
20代や30代前半くらいの若いころは、スピリッツならロックかストレートのみ。ごくごくたまにトワイスアップ。水割りもハイボールも、それしかなければ飲むが、自分から好きで飲む気はしなかったのである。
うろ覚えだが、「スコッチなんかはストレートで飲むことを前提に蒸留されブレンドされているのだから、ハイボールはまだしも、水割りなんて台無しだ」みたいな言葉が山口瞳のエッセーにあり、その言葉を忠実に守っていたような感じ。
それが不惑を超えた今では、スコッチやバーボンなんかのスピリッツを、水割りにしてもソーダ割にしても好んで飲む。甲類焼酎のお茶割もレモンサワーも好きだし、ホッピーも悪くない。ときには、日本酒をロックで飲むことだってある。
もちろん、加齢なり何なりの衰えで、強いアルコールを一度に飲むのがきつくなってきたことは間違いない。実際、何杯か飲んできついアルコールが胃に落ちると、ウっと吐き気がやってくることもよくある。ただ、自分にとっての酒の味の感じ方が変わってきたというのも、見逃せない。
かつて水割りやソーダ割は、酒を薄めたものだと思っていたし、そう感じてもいた。むろんそれは事実である。しかし今は、発想が変わり、水や炭酸水に酒で風味をつけたものが水割りやソーダ割だと感じるようになったのである。
例えば、グレンリベットの12年を多めの水で割る。するとただの水が微かだが素晴らしい香気を放ち、文字通り「生命の水」へと変わる。炭酸水にタリスカー10年をほんの少し注ぐと、炭酸の泡に香りが爆ぜて、これも素晴らしい。ぺルノなんかも、酒を多めに入れるよりも、水に数滴たらしてわずかに白濁させるくらいがちょうどよく、夏の冷たい飲み物として秀逸だ。
つまり酒ではなく水として炭酸水として味わうのが楽しく、そこに彩りを添えるのが酒なのである。ある意味、コペルニクス的転回と言っても過言ではあるまい。
人は、変わる。
酒の飲み方一つとってもそうなんだから、今の僕は、ものの考え方も容姿も、20代の僕とはかなり変わってしまったに違いない。それでも、僕は僕なのだ。時は移ろうけど、変わったものも変わらないものも全てひっさげて、これから先も生きていくしかない。
そう。生きるために、これからも、変わる自分も変わらない自分もどちらも愛し続けようとは思うのである。
それは、酒を愛するように。
ではまた。
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