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2020年10月21日07:43

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キリシタン紀行 森本季子ー262 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー121

彼らの見聞記については省略する。が、八年五ヶ月を費やした、日本人最初の驚嘆すべき大旅行であった。その頂点が、目的でもあるローマ教皇との謁見である。
 グレゴリオ十三世、と言えば、私たちはグレゴリオ暦(西暦と称しているもの)の制定者として思い出す。また、彼はグレゴリオ聖歌(チャント)の改正をも行っている。(制定はグレゴリオ一世)グレゴリオ聖歌はカトリック教会で用いた典礼聖歌であって、ラテン語歌詞の旋律に、四角形の音符が使用された。今は日本語典礼歌が用いられているが、古い信者にはなつかしいラテン歌詞とメロディーである。
 天正十三年二月二十二日(一五八五・三・二三)、使節一行がバチカン宮殿へ荘厳な行列を組んで、華々しく迎えられた。日本キリシタン大名の名代として謁見したのは、このグレゴリオ十三世であった。
使節が教皇に謁した「帝王の間」は有名なシスチーナ聖堂に接している。八十四歳のグレゴリオ十三世は少年使節らを涙をためて迎えたもうたので、臨席の貴人たちも感動のあまり落涙を禁じえなかったという。(「天正少年使節」松田毅一)
 この謁見から十八日後、グレゴリオ教皇は逝去。その葬儀にも、次期教皇シクスト五世の戴冠式にも日本の使節たちは参列した。めったにめぐり会えない盛儀である。新教皇にも謁した。ローマ市は彼らにローマ市の名誉市民権を与えている。二か月半のローマ滞在の日々は、少年たちにとって、現実とも思われない華々しいものであった。キリスト教社会とは、ローマとは、西欧の文化とは・・・。頭も心も吸収し切れない豊かな体験に溢れていた。

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