mixiユーザー(id:1762426)

2020年08月03日08:33

71 view

キリシタン紀行 森本季子ー197 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー55

豊後の大分では弘治元年(一五五五)、アルメイダが私財を投じて乳児院を開設した。彼が日本における社会福祉事業の祖と言われるのはこのためである。翌年イエズス会に入会して修道士となった。三十歳の時である。
 ついで大分に病院を設立し、アルメイダ自身は外科を担当した。日本で西洋医学による外科治療もまたアルメイダをもって嚆矢とする。病院経営の費用は彼の貿易商時代の財産をもってまかなわれた。大分市の遊歩公園に、南蛮医学伝来の碑が建っている。
 神は何事も無駄にはなさらない。外科医としての技術も、貿易商人としての富も、当人の思いも及ばなかった日本で役立つことになった。その後彼は布教に専念し、鹿児島、大村、島原、五島と九州各地から関西にまで活動の範囲を広げている。そして、永禄九年(一五六九)麟泉の招きにより志岐に姿を見せる。
 下島の南部、河内(こうち)浦(現河浦町)には天草五人衆の最有力者・天草氏が本拠を構えていた。天草鎮尚(しげなお)の請いにより、アルメイダが河内浦に宣教を開始するのが永禄十二年(一五六九)。それから約一年後、鎮尚、久種親子が受洗し、熱心なキリシタンとなった。(久種については大矢野種基入信の項でちょっと触れておいた)
 アルメイダはそれまでイエズス会の修道士として布教活動に従事していた。が、天正八年(一五八○)マカオに行き、司祭に叙階された。翌年、再度天草に渡来、この地区の院長となった。天正十一年(一五八三)河内浦で生涯を閉じるのだが、それについては河内浦・天草氏の項で述べることにしたい。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する