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2019年01月16日16:08

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“負けの美学”を是が非でも認めない、ガラパゴス競技と取り巻く社会。

毎度毎度、不祥事の連続でも一向に改善しない相撲界を遠巻きにして、
もうすっかり呆れ果て観なくなり、関心もなくなって久しい大相撲。

本件は不祥事絡みとは違い、純粋に土俵上の部類ではあるものの、
以前からずっと引っ掛かっていた部分でもあるのでツラツラと。

つい先日、立川志らくだったかが、
「どうせ引退するのなら千秋楽までとりきるというのも手だ。10連敗しても出場する。
で一回でも勝ったら優勝したような騒ぎになる。明日負けて引退したら
兎に角弱かっただけの横綱で終わってしまう。負け続けても土俵に上がり続けた横綱。
相撲ファンの語り草になる。駄目かな・・」という見解を示してたが。

この主旨、ずっと前から素朴に抱いていたものとほぼ一緒で、
単純に共感したというよりも、寧ろこの時代でも依然として「相撲の伝統」とやらに
固執し続ける相撲界の風習、それを甘受し続ける社会的空気とやらに
益々「スポーツ興業として近代社会に最も相応しくない代物」という思いが
一層増したわけで。

その伝統性。本件については「横綱ラベル」・・即ち「横綱の品格性」に絡むもの、
と言うべきか。俗に言う「横綱は強くてはならない」「勝ち続けなければならない」
といった“無茶な要件”。

大関以下は陥落を認める一方、横綱には適用しないのは、まさに横綱の権威や品格性を
特別視するからに他ならないわけだが、そこに延々何の疑いも持たず、
時代の潮流も一切に渡り受け付けずに来たことは、本来別問題の不祥事案件における、
各界に拠る絶望的な管理運営能力の無さを容易に想起させるんだな。

日本の前時代性に観られる「強さ」「勝ちの美学」・・。
尋常じゃないほど強いことに憧れ、頂点の座に座り続ける権威性を美とし、
大衆世俗もそれに追従、支持し続けて来た一方性は、戦後様々な社会変化や
発展を前にしても尚、日本社会や国民性の何処かに存在し、社会全体がそれを
能動的に堅持しようとさえあるかのような構図。

その美学自体日本に限らず、あるいは他のスポーツでも垣間見ることは出来るが、
他方では「負けの美学」、「再起/再チャレンジのドラマ性や美学」というのが
広範に存在し、各々で強さの復活に観る人間の潜在能力や、どん底から這い上がる
プロセスにあらゆる発見であったり、後に続く者の礎にも大いになり得ることが
少なくない。

その点で、横綱という制度はそれを認めず、横綱という看板(領域)と
制度の保全を優先し、弱くなった途端に一人の純粋な選手個人を排除する・・
という有り様である。これ即ち「横綱の神聖化」。
横綱は神であって、神である以上品性を持つのを当然にして、一度でも弱さを
露呈した途端、神として認めない(許さない)ということだろう。

これ、前時代の産物として、歴史建造物のように「保全」しておくだけなら
いいだろうが、1ミリでも「発展性」を目指し、未来にも鋭意継続しようとする限り、
負けの美学を認めない競技は今後もあらゆる弊害や、社会性との乖離を益々顕にし、
その歪が各種の不祥事に繋がり、それは今後もなくならないだろうね。

こうして、以前から引き続き序盤から連敗し、場所の皮切りで引退を迫られる・・
という外形は、別角度から見れば「早々な逃げ」であり、あるいは
「早く逃げることを要請している」のでもあり。

横綱という一個人・選手ではなく、制度と神聖領域を絶対化することにより、
「負けに拠る逃げ」を推奨する競技・・ということだ。
この本質に目を瞑り、または観ないふりをし、伝統や品格なんぞの抽象性を
重要視するさまは、企業や組織における保全的・保守的な日本風情とも共通し、
一方では「お上」への盲目的な追従体質や、「肩書き」を重視し盲信する
大衆風情によって、逃げを「潔さ」という言葉に変換している、または
誤魔化しているに過ぎないんだな。

こんな頑なな伝統保全を重視しながら、その実「行事審判」の神聖概念は低く、
相当早い時期から「ビデオ判定」を導入しているという歪さ。
その点では、野球やテニス等の競技の方が遥かに“審判の神格化”に長く固執、
近年になってようやく最新技術の導入に舵を切っていることに比較すれば、
相撲の方がずっと“先進的だった”とさえ言える。

にもかかわらず、制度や競技の歴史性と伝統性を不均衡な格好で堅持し、
全体的に抽象概念で覆う、相撲という競技のなんと滑稽なことか、っていう。

稀勢の里が、あるいは過去同じような経緯で引退していった力士が、
実際に各々どういう本心であるか、あったかは誰にも知る由がないけども、
“純然たる一アスリート”として「負け続けても最後まで、自分の納得がいくまで
土俵で勝負したかった」という者が何人居たか・・
横綱から陥落しても体力がある限り、哀れみを受けたとしても尚一力士として、
一兵卒からでも出直してみたい・・という純粋な欲求があったとしたなら、
その場が僅かでもあるというのが、本来の「競技環境」であるはずだろう。

相撲はれっきとした「興業」である。至極単純な話「人気商売」だ。
動員してなんぼ、マーチャンダイズで儲けてなんぼの営利商売なんである。
その事に鑑みる時、本件で言えば冒頭の志らくのように、稀勢の里が一勝でもする場面を
場所中に観たいという客の思いや願いを読めない・汲み取れない興行主、
プロモーターは、ビジネス資質に大きく欠ける・・というのが一般的な
エンタメビジネスにおける基礎中の基礎だ。

「いやいや、それは相撲の伝統性や権威性がそもそも許さないのだ」というなら、
そんなもんは単なる歴史保全物として、地域伝統行事のように粛々と行っていれば
いいわけで、「公益財団法人」として国から補助されながら、尚も多額の入場券で
一般興業ビジネスを行う資格すらない。いや、その有り様はもはやまやかしでしかない。

そのまやかし商売に、毎度不祥事が起きようとも「土俵上の真剣勝負は別だ」とし、
本質を見ないふりしてせっせとお布施し、体たらくな角界の興業を満員札止めして
差し上げているうちは、協会も力士も本当の危機意識なんて持てないし、
延々と体質も変わらないばかりか、相撲界の発展なんぞの日はずっと来ないだろう。

■横綱稀勢の里が引退へ 初場所、初日から3連敗で決断
(朝日新聞デジタル - 01月16日 09:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5458147
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