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2019年01月10日08:07

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沖縄感傷旅行 ジャー・ヒロ

 去年の12月、観光ツアーで沖縄に行った。我が奥方の要望によるもので、三泊四日の駆け足旅だった。泊まるの高級ホテル、バスで目指すは観光地又は観光センター。だから、当然、沖縄の基地反対闘争とは無縁の旅だった。道中、首里城近くで「辺野古基地反対」の、のぼりが数本、道端にはためいているのみ。そして移動中の高速道路で、広大な米軍住宅を垣間見た位だ。予備知識のない日本人観光客には、常夏の楽園、のんびり過ごせる観光地としか、目に映っていないのだろう。観光ツアーだから、当然といえば当然なのだが。

 しかしバスでの移動中に気になる事が幾つかあった。まず、こんなに狭苦しい高速道路は初めてだ。それに一日目、那覇空港への着陸が遅れ、ホテルの到着が遅れていまい、真っ暗な高速道路を走る羽目になってしまった。明りの灯らない高速道路を走るのは生まれて初めてだ。そしてまた、周りの町々の灯も暗い。乗客達も呆れ声を上げていた。

 そして昼の移動で気になったのは、あちこちの家々の屋根の上に鎮座する輝くステンレス製のドラム缶の事。添乗員さんに聞くと「断水が時々あり、その対策に水を貯めている」との事だった。そうそう、那覇空港でよく着陸が遅れるという、添乗員さんの話も不気味だった。空港の容量以上に旅客機の利用が多く、今日は15分の遅れだが、1時間遅れることもザラにある」と聞き、驚いた。そして旅から帰り、さほども経たない頃、那覇空港の滑走路に穴が開き、飛行機が着陸出来ない、との報道があり、乗客達の不安、苦衷を察して、気の毒になる。

 沖縄には、本土と呼ばれる日本との違いが明確にある。そんなことを思っていると、昼に寄った沖縄料理店で、沖縄の歴史、すなわち琉球王国の歴史を絵入りで、詳細に綴ったビジュアルな歴史書を入手する。現在鋭意勉学中であるが、この本、沖縄の人々が未来の沖縄の人達に、心魂こめて伝えようとする気持ちに圧倒された。そして不遜な言い方かも知れないが、沖縄差別の原点が、この沖縄の歴史そのものにあるような気がした。すなわち、天皇制の外側にいる彼等を侮蔑し、弾圧し、愚弄する悪党共の存在を感じる。

 照明も路肩もない危険な高速道路、断水の多い町、容量オーバーを放置されている那覇空港、辺野古基地建設反対運動の人々に対する機動隊員の「土人が!」という侮蔑の言葉。海保の許し難い無数の暴力行為。その全ての背景に、この歴史的差別観が存在するような気がした。そして沖縄の人々の苦悩は、日本の魔手からの逃亡(もしそれが可能なら)しか解放されることはないだろう、と深く思うのだった。悲しい事だが、日本人の為政者達の沖縄差別は余りに残酷すぎるのだ。帰宅後、ケーブルテレビで、沖縄戦の戦場遺跡を詳しく観た。そして首里城の地下に陸軍大本営の巨大トンネル施設があり、首里城周辺を決戦の地として、血みどろの接近戦を行い、結果、米軍死者1万5千人、日本軍死者7万5千人、そして一般住民死者15万5千人という悲惨な結果となる。このアメリカ製のドキュメントでは、米軍の許可を得て、基地内の日本軍の戦争遺構も紹介されていた。そして現在でも戦場のトンネル群がそのまま那覇の町の中に残っていることも驚いた。沖縄の民の苦しみ、無残は、永遠に語り継がれる沖縄民族の惨禍の歴史。そういう事を深く心に刻んだ。

 しかしそれでもなお、沖縄が大好きになる。素朴すぎる表現だが、あの青い海、白い砂浜、そして青空。人懐っこい沖縄の人々の笑顔。我が村が、町が戦禍を被り、想像も出来ないほどの苦痛、恐怖を味わった沖縄の人々。一日本人として、申し訳ない気持で胸が一杯になる。そして不図、亡くなった父親の言葉が頭に浮かぶ。歯科医だった父は、晩年よく母と海外旅行をした。ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアに行った。しかしアジアには足を向けなかった。それは「日本が蹂躙した国を観光する気持にはならない」からだ。僕も沖縄そして沖縄の人々に対して、同じような、申し訳ない気持を抱きながらも、それでもどうしても大好きなのだ。沖縄のビール、オリオン・ビールも最高だったしなあ・・・。

                   平成31年1月10日 札幌

(絵で解る 琉球王国 歴史と人物 JCC出版
ISBN978−4−905463−00−9
C0021 ¥1500E)

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