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2018年11月14日07:24

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我が町ー5−2 世田谷区深沢−2 ジャー・ヒロ

昭和の時代の深沢は近くの駅といえば大井町線(今は田園都市線かな?)の等々力で、歩いて等々力に行くか、バスに乗って渋谷に行くか、という不便で辺鄙な町だった。だから畑が多いのも当然で、平成になって実家が売られ、後に寄ってみると小さなマンションになっていた、というような未来はまったく予測できなかった。東深沢小学校の頃は、近くに「営団」と呼ばれる小さな一戸建てが並ぶ都営団地が小川沿いにあり、そこには外地から着の身着のままで帰国した家族が暮らしていた(という噂を覚えている)。「エイダン、エイダン」と周辺の子供達が差別していた。その一人に僕の友達もいた。千原君といったがやはり貧しかった。その後どんな人生をたどったのかなあ。僕には変な自慢があり、それは「小学校から大学まで自転車で通った」ということ。深沢中学、都立大付属高校、都立大学と自転車で15分位の距離ですましたのは、単にものぐさだったからだろう。また青春をお手軽に過ごし分、その後の人生がはちゃめちゃになったのかも知れない。とにかく小学、中学は真面目一方で過ごした。中学時代は読書部と自動車部(中学に自動車部!ってすごいよね。校内にコースがあって、古い車を乗り回したんだから。理科の先生が顧問だった。当時はのんびりしてたんだね。)に所属。特に読書部では部長として一応活躍した。成績もよかったし、親には満足すべき息子だっただろう。でもそうはいかないのが人生。お坊ちゃんだった僕は、とんでもない誓いを中学卒業の時に立てた。それは(もう真面目には飽きた、これからは不良になってやる!)というもの。これだけは、お喋りな僕でも、誰にも明かしたことはなかったな。だから付属高校に入学して最初の授業を抜け出して、初めて会った途端に意気投合した悪友と校庭でバイクを乗り回した。今でも不思議なことだが、何も言われなかった。一年からタバコを吸った。担任の先生に「タバコを吸うのはかまわないけど、くわえタバコで校門の出入りはよせ!」と言われた。学校中でそんな馬鹿は僕たち二人だけだったから、放置されていたようだ。まっ、勉強も一応やってたしね。

中学も自動車を乗り回す不思議な中学だったけど、高校も学園祭ではみんなが飲んだくれて、酔いつぶれる不思議な高校だった。リヤカーで酔った生徒を家まで運んだっけ。そうそうファイヤーストームというか大きな焚き火も校庭でやり、薪(たきぎ)が無くなって、隣接するお寺の墓地に侵入して卒塔婆を片っ端から引っこ抜いて燃やした。そんな罰当たりを平気でやった。それでも純情で女の子には気軽に話しかけられない男だった。好きな子もいたのに、片思いで終わるような男だった。悪の相棒のH君は中学時代に女の子を孕ませたというつわもので、その後の人生も「女とやる」ということを目的に生きたようで、それでも無事に会社を定年退職して遊んで暮らしている。こんな何百人の女を強姦したか分からないような男(そのためだけにヨットを買ったと昔言っていた。海に出ると逃げ場がないからと。そんなとんでもない奴)が無事に生きていることに、最近会ったけど、人生の不思議を感じてしまった。それだけ生命力の強い奴なのだろう。弱肉強食の人生の現実を体現しているような男だった。それでも何十年ぶりに再会した時、「大阪に泊りがけで遊びに濃いよ」と言う優しい男でもあった。人生は一筋縄ではいかないことを感じる。別の高校時代の友人は或る大会社の社長になった途端に海の事故で死んだと聞き、彼の人生が幸福だったのか不幸だったのか分からないと感じたことを思い出す。本当に人生は崇高でも残酷でもグロテスクでもあるんだよね。だから筋を通して生きることが難しい。僕なんかはマイペースに好きなように生きてきたんだろうな。その幸福を時々感じます。この文章は自由気ままに思いついたとおり、感じたとおりに書いてるだけなので、気軽に笑って読んでくれるといいし、そこであなた自身の生きるヒントを見つけてくれるともっと嬉しいですね。正気では書いてはいるけど、書くことに酔ったような気分で書き進めています。書くのが好きなんだね。また話が飛ぶけど、同級生に長崎の五島列島から来たというごつい男がいて、噂によれば、そこでは「男は喧嘩に強くないと男でない」という思想があり、兄貴が家の前を通りかかる男に頼み弟の彼と「喧嘩してくれ」と頼むらしいと聞き、皆が恐れた。あれほんとだったのかな?いやはや、今思うと、ずいぶん野蛮な時代に生きていたんだね。

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