mixiユーザー(id:1762426)

2018年09月23日05:57

130 view

ラスタとして生きるー24 ジャー・ヒロ

「カメレオン・マン」

 不思議なタイトルと思うかもしれませんが、実は僕のこと。或る時、突然頭の中で浮かんだ言葉だった。原宿トレンチタウン時代には、いろいろそんな可笑しな言葉を考案しては楽しんでいた。店は原宿と渋谷の間の明治通りの裏道になったけど、ビルとビルの間の路地で、違法駐車の車が進入していることも多く、また厄介なことに、その路地が途中で折れ曲がっているもんだから、反対側からは店が見えないという場所にあった。だから、近くまできても店を発見できず、悲鳴のような電話がよくきた。「もう30分も近くをぐるぐる探しているけど、分からない」という電話が。仕方なく、迎えに行った。そんな店の分かりにくさを称して、「原宿のバミューダ・トライアングル(昔から船が消息を絶つとして有名)」と呼んだ。それから、店が竹の葉や幹で覆われていて、写真だけ見ると、原宿にある店とは思えない感じだったので、それに何故か前の道は舗装もされておらず雑草が生えており、雨上がりには水溜りが出来ていた。だから「原宿のチベット」と呼んだ。そして建物は二階建ての古い木造だったから、店は一階なのに、雨漏りがした!それで呼んだ言葉は「原宿のバングラデシュ」。まあ、そんな余裕があった時代でした。

 そこで「カメレオン・マン」。いろいろな場で思い当たる節があって、或る日、急に誕生。
まず最初の思い出としては、まだ店をやっていない頃の話で、当時はTシャツやトレーナーのシルクスクリーン印刷の仕事をしていた。横須賀のジュピターという店が上得意で、急ぐ場合、横須賀まで届けに行った。その店は、当時全盛だった、暴走族御用達の店で、「ピエロ」とかの仕事もあったし、「E・YAZAWA」の商品で大儲けしたと聞く。まあそれは置いておいて、或る日の夕方、商品を届け終わった後、気まぐれに一軒のバーに入る。そのジュピターは、米兵の歓楽地として有名な「どぶ板通り」にあり、70年代後半の当時には、ベトナム戦争の余韻もあり、米軍兵士が沢山飲みにきていた。その雰囲気を味わいたいと、無謀にも、入った訳だ。そこは白人専用の店だった。後で黒人兵士達がぞろぞろ入ってきたが、店を見渡して、引き返して行った。(隠れた人種差別だ)と思う。そのうち、僕も酔って、調子がよくなった頃、ある兵士が僕に話しかけてきた。そして「俺は海兵隊だけど、お前はどこの人間だ?」と聞く。「僕はただの日本人だ」と答えたっけ。それでも、酒の勢いで、その男と仲良くなり、「外で飲もう」ということで、店の外壁にもたれて、前を通る日本人を、英語で、からかった。(なんだか変だな)と思いながら。

 そして海外の体験になる。最初に旅したイギリスやフランス、そしてアメリカやジャマイカでは、常に一人旅だったので、(まずその街に慣れるには呑み屋に入り浸ること)というモットーと、そしてもう一つ(自分はここに住んでいる人間のような顔で、地元の人間しかこない店を選ぶ)という原則の下に、店を選んだ。店はどこでもお客さんは歓迎してくれるし、込んだ店には入りずらいが、空いてる早い時間に(常連のような顔をして)飲んでいれば、誰にでも「やあ、やあ」という雰囲気になれる。1983年のニューヨークでは、最初の、よくアメリカ映画に出てくるようなでっかいカウンターの呑み屋に入った途端、カウンターの二人の客が殴りあいを始めて逃げ出した。(やっぱりニューヨークだなあ)と思う。次に選んだ店はアイルランド人の溜まり場の店で、若い男が一人で20人近い客を軽々とさばいているのに感心。何度か行くうちに、最初の一杯を「俺のおごりだ」とおごってくれた。或る日には、普段アイルランド民謡を弾き語りするミュージシャンが、「日本人のお客さんに捧げる」と言って、「上を向いて歩こう」を唄ってくれた。

 その店では面白い出来事があった。或る夜、カウンターで飲んでいると隣に若い白人の女の子が座り、なんとなくお喋りになった。彼女は「来年、家族で初めてイギリスに行くの」と言い、とても楽しみにしている様子。そこで前の年にイギリスに行った僕としては黙っていられなくなり、ロンドンの様子や当時のパンク・ファッションの連中について語った。内心(日本人の僕がアメリカ人の彼女に旅のウンチクを語るなんて可笑しいな)と思いながら。ニューヨークは、そういう意味でも、コスモポリタン(国際的)な大都会で、初対面の人は必ずと言っていいくらい、まず「何年前にニューヨークにやってきた」と言う。僕の泊まっていたホテルは若いアーティストが運営する変わった宿だったが、そこでのクリスマス・パーティに招待された時、会った人、会った人が皆、「何年前にきた」というのが印象的で、「アメリカは移民の国」ということを実感した。そこで「あなたは?」と聞かれ、「一週間前」と答えたのが、なんだか変だった。そのホテルは売春婦が仕事に使うような猥雑な宿で、観光客なんかまず来ない所だったから、土地っ子と思われたのだろう。そのパーティは出るバンド、出るバンドがみんなゲイで、それも皆とびきり上手くて驚いた。そしてもう一つ驚いたのが、ホテルの近くでいつも物乞いをしている老人がパーティの受付をしてたこと。そのパーティは入場料がいったのだが、僕が払おうとすると、「お前はいいよ」と言った。何故か気に入ってくれたらしい。そうそう、この猥雑なニューヨークを象徴するようなパーティで面白いというか、忘れられないことがあった。そのホテルのスタッフの一人で頭はリーゼントでいつもお洒落な長身の白人青年(名前はもう忘れたけど)が、いろいろ喋った後、「旅の記念にお前にやる」と言って、使い込んで茶色に染まった陶製のマリファナ・パイプをプレゼントされた。ジャマイカの旅を終えた帰り道だったから、頭がほとんどジャマイカンになっていて、なんの警戒心もなく、バッグに放り込む。

 そして成田空港で、今思うと当然だが、大変な目に遭った。税関で平気でバッグを開け、「旅はどうでした?」「いい旅でしたよ」と和やかな会話をしている最中に役人が取り上げたのが例のマリファナ・パイプ、即別室に連行された。何人もの税関職員に取り囲まれ、(大麻も持っているに違いない)と、パンツ一枚にされて、徹底的に調べられた。(僕のドレッドの知人は肛門の中まで調べられたと言ってたが、僕はそこまではされなかったけど)結局、パイプ以外は何も出ず、嫌味な親父に説教され、パイプは取り上げられて、無罪放免になった。あの頃は「一人ジャマイカ」してたからなあ・・・。

 話が横道にそれたので、「カメレオン・マン」に戻ります。イギリスからフランスに渡るのに、列車からフェリーに乗り替え、そして列車でパリにという方法でドーバー海峡を横断した。船の上で、フランス入国時に提出する書類が渡され、それを書いていると、黒人の少年が書き方を聞きにきた。(日本人の僕が教えるのも変な話だ)と思いながらも、知ってることを教えた。船が着くと、乗客達がぞろぞろとフランス税関に向かう。僕の前にその少年もいた。その子は一言、二言役人と言葉を交わした後、別室に連れ去られた。これからどういう運命を辿るのか?と哀れだった。そしてパリ。パリで可笑しかったのは、あちこちで人に声をかけられたこと。大きな荷物を抱えた女性が「ちょっとこのドア開けてよ」と頼まれたり、若い男に「今何時?」と聞かれたりと、ここまでは依頼に応えることが出来たが、「ここに行きたいんだけど?」と道案内を頼まれたのだけは、「ごめんね」だった。いつも小汚い格好で旅をしてたから、とても観光客に見えなかったのだろう。なんだかどこにいても、そこの風土に同化してしまう自分を、自分ながらに「変な奴だなあ」と思う。

 その変な奴の究極の話が、ニューオリオンズ空港での出来事。1985年の二度目のジャマイカ行きの帰り道、ジャズが好きだった僕は、ジャズの故郷と言われる、この街に一度は訪問したかったのだ。洪水で破壊される前のニューオリオンズは旧市街も郊外も絵に描いたような綺麗な街だった。ついでに訪れたオーデボン動物園は、動物達の自然環境を可能な限り再現した、とても素晴らしい動物園だった。(大洪水の際、スタッフ総出で動物達の救出活動を行い、僅かな犠牲しか出さなかったと聞き、僕は喜んだ)昔ながらのニューオリオンズ・ジャズも堪能して、三日目の朝、ロス行きの飛行機に乗ろうと空港に行く。そして時間に余裕があったので、お土産に何か買おうと何軒もの店に寄った。それらの店々で「あなた昨日きたでしょ」と言われたのにはたまげた。どうもそっくりさんがいるらしいと気持ちが悪くなった。

 83年か、85年か、もうはっきりしないけど、帰りの飛行機で隣り合った白人女性と妙に話しが弾んだ。目、鼻は整っているけど、ごく普通の人に見えたから、「私モデルなの」と聞き、思わず「えー、信じられない」と失礼なことを言ってしまう。しかし飛行機が日本に近づくと化粧を始めて、次第に美しくなり、念入りな化粧が完成すると、正しく美女が誕生。僕はびっくりした。ほんと、あの頃は「カメレオン・マン」として、あちこちで受け入れられて、自分の中にあった人種的偏見を脱ぎ去っていった時代でした。無数の職業も経験し、その時々に「カメレオン・マン」として職場に順応して、「この仕事をするために生まれた男」のような顔をして、生きてきました。「カメレオン・マン」も悪くないね。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する