↓↑ ↓↑ ↓↑
で、婿養子として
拒否された男は・・・「須佐之男」
or
「天之日矛=日桙=天日槍命
天日桙命=海檜槍」で
「阿加流比売=倭人・日本人←阿毎の姫?」
にフラれた・・・比売(姫)は
難波へ向い
難波の比売碁曾(ひめごそ)社の祭神となった
↓↑ ↓↑ ↓↑
「新羅(前57年〜935年)
朝鮮半島南東部にあった国」の皇子
「新羅」=503年に正式国号
新羅、高句麗、百済が鼎立
7世紀中ごろ朝鮮半島統一
内乱や飢饉で弱体化させ
「高麗」に降伏し、滅亡した・・・
高麗王朝
↓↑ ↓↑ ↓↑
高麗(918年〜1392年)
918年
王建(太祖)が建国
936年に朝鮮半島の
後三国を統一
1392年の
李氏朝鮮建国まで続いた
首都は開京
高麗の領土は
朝鮮半島
元山市や 鴨緑江まで
高麗(Korea・Corée)の文物
高麗青磁
高麗八萬大蔵経
等
1234年
銅活字の
青銅製の活字が作られ
1377年
直指心体要節
世界最古の
金属活字での出版
↓↑ ↓↑ ↓↑
弓裔(キュウエイ)
後三国時代の群雄
後高句麗の建国者
姓は金→金王朝=清国=女真(女直)→鮮卑
=燕王朝=渤海=満州=高句麗→高麗
↓↑ ↓↑ 愛新覚羅
(アイシンギョロ)
↓↑ ↓↑ アイシンカクラ・・・阿意晋掛句等?
僧号は善宗
隻眼で
一目大王・・・天目一箇神=一目連神=一目一足
天目山=元は木賊山(とくさやま)
山梨県甲州市
大和町木賊
大和町田野
にある峠の山
天正十年三月十一日
(1582年4月3日)
武田勝頼の滅亡の地
棲雲寺(栖雲寺)がある
=浙江省北西部、安徽省との
省境付近を南西〜北東方向に
走る山地・東天目山と西天目山
最高点は西天目山の竜王山
唐傘小僧=傘(からかさ)の妖怪
唐傘一本足のお化け
江戸時代以後に登場・・・
アメ(雨)の降らない時は閉じる
の別称・・・・一ツ目小僧=唐傘の一目一足になる
天目茶碗=中国宋代に浙江省
天目山の禅院で使用され
福建省建陽県水吉鎮の建窯などで
造られた鉄質黒釉の茶碗
新羅の
第47代憲安王
或いは
48代景文王(憲安王の婿)
の側室の子・・・
↓↑ 901年
自らを王を称し
後高句麗を建国
開城に遷都
国号を高句麗とし
904年
国号を
摩震(摩訶震旦の略)に改め
年号を
武泰と定めた
905年
鉄円(江原道鉄原郡)に遷都
911年
国号を
泰封に改め
年号を
水徳万歳
と定めた
弓裔は自らを
弥勒菩薩と自称
918年
「易姓革命」で
侍中であり有力な部下であった
王建に追放され、殺害された・・・
王建(太祖)が
高麗王朝を建国し
936年に朝鮮半島の
後三国を統一
↓↑ ↓↑ ↓↑
「烏桓=烏丸=鴉満留←高句麗←金(満州)
↓↑
女真(ジュルチン)←渤海国(靺鞨族)
渤海滅亡後、遼王朝に服属
↓↑
「三本足のカラス」?
それでも
案山子は「藁で束ねても男は男」→腐ってもタイ?
・・・寝言を云っている間にタイを喰って腹痛?
↓↑ ↓↑ ↓↑
足=あし・たり・ソク=葦(蘆)・垂り・促(即)
脚肢・多利・速則
足=頭領・大王・天皇・盗賊の首領
・・・鎌足=金を兼ねる足(たり)?
↓↑ ↓↑ ↓↑
「足=たらし=垂し・あし=阿史=阿毎」
第六代孝安天皇
日本-足-彦国押人
(やまとたらしひこくにおしひと)
第十二代景行天皇
大-足-彦忍代別
(おおたらしひこおしろわけ)
第十三代成務天皇
稚-足-彦
(わかたらしひこ)
第十四代仲哀天皇
足-仲彦
(たらしなかつひこ)
↓↑
足羽山(あすわやま)の
第二十六代継体天皇・・・足柄山の金太郎?
男大迹王
(をほどのおおきみ)
↓↑
第三十四代舒明天皇
息長-足-日広額
(おきながたらしひひろぬか)
第三十五代=三十七代
皇極天皇=斉明天皇
天豊財重日-足-姫
(あめとよたからいかしひたらしひめ)
↓↑ ↓↑
桓武天皇・・・桓=marking post
↓↑ たけしい・めぐる・うれえる
カン・ガン
=郵亭(宿場)のしるしとして
宿場の周りにたてた木
棺を墓穴に降ろすため四隅に立てる柱
烏桓(呉音:ウガン・漢音:オカン
拼音: Wūhuán)
=紀元前1世紀〜紀元後3世紀
中国北部(内モンゴル自治区)
に存在し民族
↓↑ 「烏丸」とも表記
光仁天皇の第一皇子
794年平安京に遷都
↓↑ 坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方に派遣
で実務官僚
山背国葛野郡宇太村
を選んで
平安遷都の建設を進言し
延暦十二年(793年)
造営大夫
↓↑
備前国
藤野郡(岡山県和気町)出身
神護景雲三年(769年)七月頃
宇佐の神官を兼ねていた
大宰府の主神(かんつかさ)
中 臣 習宜 阿曾麻呂
(なかとみのすげのあそまろ)
が宇佐八幡神の神託として、
天皇が寵愛を与えていた
道鏡を皇位に就かせれば
天下太平になると
称徳天皇へ奏上
道鏡はこれを信じ
皇位に就くことを望む
↓↑
称徳天皇は側近の尼僧
和気広虫(法均尼)・・・和気の広い虫(むし)
訳 のマダレのムの中のム?
を召そうとしたが、
虚弱な法均では
長旅は堪えられぬため、
弟の清麻呂を召し、
姉に代わって
宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる
清麻呂は天皇の勅使として八幡宮に参宮
宝物を奉り宣命の文を読もうとした時
神が禰宜の
辛 嶋 勝 与曽女・・・・・よそ目=余所目
(からしまのすぐりよそめ)
よそ目=よそから見たところ・はたの見る目
よそみ・余所目をはばかる
よそのことのように見る
傍観する
第三者の目で観る・客観的な目
第三者的視点・客観的視点
世間の目・他者の目・他人の目
他人の視線
に託宣、
宣命を訊くことを拒む・・拒む
清麻呂は不審を抱き、
改めて
与曽女に
宣命を訊くことを願い出て、
与曽女が再び神に顕現を願うと、
身の丈三丈、
9mの僧形の大神が出現し
大神は
再度宣命を
訊くことを拒むが・・・・拒む
清麻呂は
与曽女とともに
大神の神託、・・・・・・拒まれたのだから
「神託」は無かった?
↓↑
「天の日継は必ず
帝の氏を継がしめむ。
無道の人(道鏡)は
宜しく早く掃い除くべし」
↓↑
を朝廷に持ち帰り
称徳天皇へ報告
(宇佐八幡宮神託事件
神護景雲三年(769)九月二十五日)
清麻呂の報告を聞いた
称徳天皇は怒り、
清麻呂を
因幡員外介にいったん左遷
さらに
別 部 穢 麻呂
(わけべ の きたなまろ)
と改名させ
大隅国(鹿児島県)に流刑
神護景雲三年十月一日(769年11月7日)
称徳天皇が詔を発し
道鏡に皇位は継がせないと宣言し
事件が決着した・・・?
↓↑
神護景雲四年(770年)八月
称徳天皇は崩御
道鏡は失脚
清麻呂は
光仁天皇により
従五位下に復位
後、
播磨・豊前の国司を歴任
美作・備前両国の国造に任じられた
延暦四年(785年)
神崎川
と
淀川
を直結させる工事
平安京方面への物流路を確保し
延暦七年(788年)
23万人余を投じ
上町台地を開削し
大和川を直接
大阪湾に流し
水害を防ごうと
工事を行ったが
費用がかさんで失敗
清麻呂は
桓武朝で実務官僚として重用
山背国葛野郡宇太村
を選んで
平安遷都の建設を進言
延暦十二年(793年)
自ら造営大夫として尽力
延暦五年(786年)
民部卿として
民部大輔の
菅野真道
とともに庶政の刷新にあたった
桓武天皇の勅命により
天皇の母
高野新笠・・・「高野の新笠」って名前か?
新笠=立木斤竹立
720年頃生〜延暦八年十二月二十八日
(790年1月21日)
父は高野乙継(和乙継)・・・和の乙の継ぎ
母は大枝真妹(土師真妹)・・・大枝=大江
↓↑大江音人は備中権介・大枝本主の嫡男
光仁天皇の宮人、後に夫人
桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母
桓武天皇の即位後、皇太夫人
薨去後、贈皇太后、贈太皇太后
諡号は
天高知日之姫尊
の出身氏族
和氏の系譜を編纂・・・「和」氏の系譜とはナニ?→「倭」氏
和氏譜として撰上
子の広世・真綱
らは、父の没後に
官人として活躍
広世は最澄を招聘し
高雄(たかお)の
法華会(ほっけえ)を開き、
天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、
唐へ留学させ、
五男・真綱と
六男・仲世は
高雄山で
最澄と共に
空海から密教の灌頂を受け
仏法に帰依
姉の
和気広虫(法均尼)・・・和気清麻呂の姉
は夫
葛城戸主(かつらぎのへぬし)
とともに、
孤児救済事業・・・
ーーーーー
・・・???・・・アメの降らない時も差す・・・parasol→葉等素留・・・ハライソ(paraiso)・・・
ログインしてコメントを確認・投稿する