mixiユーザー(id:64820359)

2016年10月09日09:56

2846 view

天皇のクーデターの技・・抜け道・・自由になって日本棄損に励みたい。

伝統の破壊者を含めて全部読んでみてください。

http://blog.goo.ne.jp/soraoayumu/e/dcf0cb3f30f9ead7e499fdf863b80aaa

午後の雨やどり

つれづれパラレル日記

私見・平成皇室 <3>

2016年10月08日 23時42分50秒 | 皇統・皇室


【10代8人の女性天皇】

今上天皇は第125代目の天皇である。この125代の中にいわゆる「女性天皇」が8人いる。うち2人は重祚(ちょうそ・同一の天皇が再度即位すること)しているので、10代8人という表現になる。

わずか8人しかいないので、かんたんな一覧表にしてみる。というか、平成17年の小泉政権下で行なわれた、かの有名な「有識者会議」・第3回で資料として配布されたものがあるので引用。使えるものは何でも使って手間を省く。



一覧のなかで、青枠で囲った女性天皇はいずれも当時の権力闘争が背景、もしくは幼い継嗣の成長を待つために、中継ぎ・・・つまり一時しのぎで即位した天皇である。

推古天皇のときは蘇我氏の専横、崇峻天皇暗殺など権力闘争が背景、皇極(斉明)天皇のときは、大化の改新、有間皇子との後継争いが背景、実質は息子である中大兄皇子(後の天智天皇)が政務を執っており、動乱の時代に老母(重祚のときはすでに62歳)が矢面に立った。

持統・元明・元正天皇の3代は、壬申の乱以降の天武天皇系を確保するため、ありていに言えば天智天皇系に絶対に皇位を渡したくなかったために、幼い皇孫(後の文武天皇)が成長するまでの、まさに中継ぎリレーである。

孝謙(称徳)天皇は、聖武天皇の娘。腹違いの皇子・安積(あさか)親王がいたが、孝謙天皇の母親が、藤原不比等の娘で臣下から初めて皇后になった光明子。長屋王の変などを経て藤原氏が実権を握り、ごり押しで初で唯一の女性皇太子から天皇に就く。これもいわば権力闘争が背景。

ひとつとばして江戸時代後半の後桜町天皇。当ブログ「船を漕ぐ」シリーズに詳細がある。次々に早世していく父帝や弟帝のために、ワンポイントリリーフとして立った、皇統史上最後の女性天皇である。

このように8人中7人の女性天皇は、共通した背景をもっている。政情が安定したとき、幼い継嗣が成長のあかつきにはお役御免となっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところが、ただ一人、きわめて稀有な事情で皇位に就いたのが、江戸時代初期の明正天皇である。命名も安直で「元明」「元正」の2女帝から一文字ずついただいた。

明正天皇の父親は、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇である。この父帝は1596年の生れであるから、江戸幕府開府の7年前に生まれた。後水尾天皇は、昭和天皇が記録を破るまで歴代天皇のなかで最も長寿であった(84歳で崩御)。

そんな長命の父帝がいるのにもかかわらず、娘である明正天皇はわずか7歳で即位することになった。有識者会議で配布された資料には、






とあるが、最後の行の「、男性の皇嗣の誕生を待つためのものであったと見ることができる」との解説は、あまりに嘘くさい。後水尾天皇が譲位した時、年齢は33歳。母である和子(徳川秀忠の娘)はまだ22歳。皇子誕生はいくらでも望めた。

後水尾天皇は気力体力ともにエネルギッシュで、正妃・和子との間には、2男5女をもうけている。が、驚くべきは側室6人との間に28人もの子供をもうけ、合計で35人の皇子女がいることである。最後の子供は61歳のときの子だ。

こんな精力絶倫、元気ハツラツな天皇が突如として譲位して、859年ぶりに女帝を誕生させたのは、日本史の教科書では「紫衣事件」が原因とされている。

要するに、江戸幕府に対する抗議の手段として「譲位」を選択した。この時代、幕府と朝廷の権力闘争というのは正確ではない。徳川将軍家が権力を手中にし、朝廷に対しては「禁中並公家諸法度」で厳しい統制をしている。

天皇は幕府の監視下に置かれるという、屈辱的な立場になった。経済的にも力を削がれた天皇(朝廷)は、それに従うよりほかなく、天皇は政治に介入するな、お勉強だけしていればよいとのお達しがくだんの諸法度である。

天皇の外戚となることを目論んで和子を入内させた徳川将軍家に反発心の強かった後水尾天皇が、皇統に徳川の血を入れないための奇策として女帝を立てた(女帝は未婚が不文律)のだと、一般には解釈されている。

こと徳川の血を云々は、後水尾天皇の代では言えることであるが、じつは後水尾天皇の第19皇子である霊元天皇(58歳の時の子供で第112代天皇)は、さらにレベルアップした「院政」を開始した。

後水尾、霊元両天皇に通じるのは、元来、朝廷のおけるトップはあくまで天皇であり、「院政」がその法体系の枠外のものとして発展してきた経緯から、幕府が「禁中並公家諸法度」では譲位した天皇を縛りきれないことを露呈させたことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まとめるならば、肝要なのは、権力を持たない天皇が、時の政権に対して起こしたクーデターの手法が『譲位』であったということである。

そして、当時の政権下の法規、「禁中並公家諸法度」17か条は、天皇の権限を制約するものであって、院政の条項がなく、これを利用すれば、比較的自由な立場を確保できる。

このひと月、神代から再度見直していて気づいたことである。10代8人の女性天皇のなかで、ひときわ異彩を放つのが、明正天皇の即位の経緯であった。つい『女帝』ということに目を奪われるが、そこではない。

政治介入はおろか、きわめて不自由を強いられた当時の天皇が、反感を抱く政権に起こしたクーデターが「譲位」という抜け道であったこと。「院政」という正式な規定がないために、幕府の統制に限界があったこと。

譲位して「天皇」の地位を離れれば、制約を受けず比較的自由な立場を確保できること。それを歴史は証明していたこと。正直に申せば、「その手があったか」という感想が、この事例を以て納得にかわった。

現憲法には「天皇」に関する条文しかない。「譲位」の項目はないというより、天皇の譲位は認められていない。それを「生前退位」という言葉にすり替えて、「法体系の枠外」をねらっている。

天皇よりも自由で気楽になり、法の縛りのなくなった今上天皇が、上皇となったあかつきに、いったい何をしでかされるのか。それは重々危惧されることである。高齢で疲れたから隠居したいのが本心ではあるまい。

韓国に謝罪と称して出かけられるのか、中国政府の思惑に乗せられて訪中でもされるのか。まるで、鳩山元総理と同じような行動をされるのではないかと、強く危惧している。

安倍首相がどのような決着をつけるのか、もう少し時間を待たないといけないが、法体系をすり抜けることがないように、退位後の上皇にも、国益を損なうことが無いよう制約を必ずもうけほしいと祈るばかりである。



ジャンル:ウェブログ
2 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する