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2016年09月24日11:55

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人は神とも成れる存在。人として優れているとは霊能力に秀でているではない

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人は神にも成れるとされています。ただ、その神とは【創造神】ではないのです。人は「創造神」その方には成れないのです。その下に存在する神の分野です。

大本教神諭に「枝葉の神ばかりが栄えて、根元(創造神たる存在)を枯らして何とする」とありますが、人は根元神とは違うのです。
そこを間違えて、人は1人1人が創造神だ!。そんなことを言っている方は「バカにつける薬は無し」の典型なのです。自己の力量の限界が解っていないなのです。「謙虚」を知らないなのです。


大本教神諭に「人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらず」という記述が存在します。人は創造神は無理としても神社などに鎮座されている神霊程度には成れるのです。ただ、無条件ではありませんし、神社の御神霊と言えどもピンキリと言えます。
ですから、別に神社や仏閣に静まっている神霊が特別に偉いとか地位が高い存在で、人間は下っ端だとはならないのです。お釈迦様もイエスも人としての肉体を持たれた存在ですが、その格の高さは通常の神々を上回るのです。


考えてもみてください。稲荷の祠で神霊として鎮座する白狐がどう頑張ってもお釈迦様やイエスには成れないのです。この世に人として生まれ出て来て、お釈迦様やイエスの様に成ったならば、そちらの方が遙かに高い世界に行くなのです。


人の身である時は、高い世界に進めるチャンスなのです


神と人とを別物と思ってはいけないのです。

だとすれば、人は神の道を目指し、神らしい人と成る努力をしないといけないのです



ただ、お釈迦様もイエスも神仏の存在を説く方であり、無神論者ではありません。

いくらあの方は立派な人だと言っても、無神論者であれば神への道は閉ざされるのです。それは本人が神を求めていないからです。


私は霊能者をしている身ではありませんが、一応名だたる御神霊に拝謁したりはして来ました。


そうした中で人を見ていて、この方の今の世の地位とか財産ではなくて、今の世を終えて霊界に帰られた時、この方は天国天人とか神霊と呼ばれる座に坐られる方だなと感じる方がママあります。そうした方は人としての基礎が出来上がっておられます。人としての魂も磨かれておられるのです。ですから天国の門も開かれて、神霊段階にと進めるのです。

一方、自分には霊能力があり神社に行くと神霊を見る力はあると豪語されていても、これでは死後に天国門は開かないと感じる方も多数居られます。性格の問題です。
霊の中には鼻がひん曲がるような臭い匂いを放つ霊が居ます。生前自分を偉大な者、大きな者と見せてきた行者・霊能者の死後の世界に渡っての臭い(自分は大きい)者なのでしょう。


私は伏見稲荷山を修行場としておりましたが、そこに何十人者の信徒達を引き連れて来られた教祖を見ていて、一目見るなりなんと人格の卑しい教祖だろうと、その一団の後ろに回って付いてその一団の行動を拝見していたことがあります。
確かに主立ったお塚でその教祖様に神霊は降りていました。だが、その教祖の人格が卑しいので降りている神霊もまた卑しいとか低い霊です。神霊が祀られている場に立ったからと言って、降りている神霊はその人の格に応じた存在でしかないのです。

卑しい神霊を降ろすだけあって、現世御利益だけは確かのようでした。ですから信者も多数教祖と一緒に伏見稲荷山に上がって来るでした。
こうした霊能者は世俗的なことはよく当てるのです。だが、人を導きその魂を磨くような教えはそこにないのです。

それ自体は今の神霊界が現世御利益に頼る仕組みの上に成り立っているので、とやかく言えませんが、その信徒さん達が天国界に行くなどはまずないでしょう。

逆に、同じ伏見稲荷山でこれはと感じた男の教祖さんを見て、その一団の後ろに付いてその教祖さんが信徒さん達に何を説くかと聞いていて感心したがあります。この教祖さんは主立ったお塚でその信徒さんに現世御利益ではなく、神霊に対する感謝と人としてあるべき道を懇々と説いていかれます。この教祖さんならば信徒さん達を天国に連れて行かれるだろうなです。


ある方から私の元に伏見稲荷山のある社で撮られた霊的写真が送られて来て、その写真を見た時にその方に降りているのは邪心の神霊。その霊的写真は処分しなさいと忠告したのですが、そうした霊的写真が撮れたことにご本人は破棄することを拒否して、真夜中にその社に通う道を選ばれました。死後に魔界に行きたければ行けばよいで、私はその方に対する忠告は一切打ち切りました。
その社に常時、邪心の神霊が祀られているのかどうかは解りませんが、その方が撮った霊的写真は間違いなく邪心の神霊を写しているからでした。


私が伏見稲荷大社の夏祭りの宵宮。伏見稲荷山の清明瀧の横にある伏見稲荷大社の宿泊所の清明舎で師匠共々宿泊していると、クーラが無いので蚊取り線香をつけて戸を開放して眠っていると、夜中の2時か3時頃になると横の瀧場から瀧音と一緒に男性の声で「天津祝詞」や「般若心経」を上げている声が聞こえて来ます。
行者が丑三つ時の真夜中に瀧に入って天津祝詞や般若心経を上げているのではないのです。生前は行者や神主や霊能者であった霊が、真夜中の瀧場に来て一生懸命に天津祝詞や般若心経を上げているのです。はっきり言えば、死後に天国界に進むことも出来ずに迷い霊として死後も瀧場で瀧行に励んでいるのです。

霊場とは霊が集まる場所であり、正神とか善神が集まるではないのです。昼と真夜中では違って来たりします。そうした霊を哀れと思えども、そうした行を積まないと天国とか神の世界に行けないと思っていることが根本的間違いの元なのです。


生前、行者や霊能者をしていて死後に天国にも行けず、何百年間も信者諸共迷っている霊等は別に珍しいことではありません。

私が玉置神社に参拝に行った時、同行していた霊能力がある女性に平安時代と思われる行者の霊とその信徒の一団の霊が懸かって、大変なことになったことがあります。
その前夜、その女性が十津川の温泉ホテルで1人で入浴しておられると、その風呂場で行者霊が般若心経を上げるで、その女性は霊の声に震え上がってしまわれた。霊と言えども相手に自分の裸を見られているわけですから怖いと言うよりないわけです。


その翌日にその行者霊と何百体という信者霊を一気に上げるになってしまったのです。その女性は若豊受神の御魂の持ち主なので、半分の霊はその女性が天河弁財天を通じて、残りの半分は私が大峰山の洞川・龍泉寺で結果として上げるになりました。
と言っても肉体の私が自分の意思で上げたではなくて、私を守護している背後霊団の霊達が私の肉体に入ってお経で上げて龍泉寺の八代龍王に託したのです。

私は自分の肉体をそうした守護霊に貸して、自分の言葉としてお経を上げただけの話です。数体の霊ならば肉体の私のお経でも可能とはしますが、それだけの数ともなれば私個人では手に負えません。守護霊を通じて神社とか仏閣にお願いするとなります。


霊的世界を見聞していますと、天国界に行けずに迷っている霊や落ちている霊は数知れません。で、そうした霊が既存の神社に参拝したら、その神社の御神霊に助けていただけた等の話はあまり聞きません。
どちらかと言うその御神霊のお代(取次者)をしている霊能者が不憫と思って、その霊能者が御神霊にお願いすることによって、力を貸してくださるなのです。助けてくださるなのです。


玉置神社で何百体という霊が何百年と迷っていたわけです。そこにたまたま若豊受としての分魂を持った肉体の女性が現れたのでその人に助けて欲しい霊達が懸かったことによって、天河弁財天様も力を貸されたであって、肉体を持った者が介在しないと霊だけでは単独に霊界で上がるのは困難なのです。


​はっきり言えば、神社や仏閣に鎮まっている神霊が、地獄に落ちている霊や迷っている霊を積極的に助けるなどないのです。ですからそうした霊は何百年も誰からも助けてもらえずに迷っているのです。


行者は魔界の霊と取引すれば、霊力を得ることは出来ます。しかし、そうした霊力を得られたとしても、自分自身の天国への道は閉ざされてしまうのです。


この世で霊力を得ることは、必ずしも天国に近づくにはあらず


天国天人界に進むのと神霊と成るのは必ずしも同じ道ではありません。世に悪神と呼ばれる存在は多数あります。そうした悪神は天国天人界に行くではないのです。天国界は良心や正義や博愛の精神を持つ者達の世界です。

この世を自分勝手に生きて来た者が渡る世界ではないのです。


一部の方に、自分はみろく世行きの切符を数枚所持しています。その数枚の切符の中から、一枚を貴方に差し上げます等の話があります。お金で売るではありません。


私はそうした話に別に「異論」は唱えませ。それはみろく世行きの切符を数枚持っていると言われる方の魂には正守護神が出ていて、その肉体はそれなりに神業をされています。またその切符を貰われた方も同じ系列の御神霊が背後に在ったりするからです。同じ神系列の魂の誼(よしみ)です。
それはスピリチュアルで言うソウルメイトの話ではなくて、背後の御神霊が同一系統だから起きる話です。


スピリチュアルの言葉を世に広めたのは霊能者は江原敬之さんで、それはご自身が豪語されています。確かに霊的なことはよく見えておられます。しかし、江原敬之さんは落ちている霊を救う。不浄仏霊を助ける力がまったく無いこともオーラの泉などのテレビを見ていたら誰の目にも明らかでした。
それは霊的な事柄を見る能力と、霊を助ける力とでは違うということなのです。


そうした超常現象を紹介するテレビでも、なんとなく見ているではなくて、深い洞察力で見ていれば霊界の仕組みはある程度解るのです。


テレビなどのあの方の前世は何々であった等、人は輪廻転生の過去を背負って現在があるのであって、過去世のことをほじくり返すなどはほとんど意味も必要もないことだからです。


今の人生をもって、霊界の位置が決まると言われるように


誰しも「今生が勝負」であって、過去世の勝負ではないのです



自分は過去世で高い姫であった。そんなことを言われても、今の貴方に何の関係があるのですかなのです。過去世が過去世がと言って、過去世の自分の地位が今の世に戻って来るではないのです。


常に今生が神上がりの勝負時なのです


今生の自分の生き方が、死後の霊界での天国行きや神上がりをするなのです。

他人さんが自分を上げてくれるのではないのです。自分自身の道なのです。


それは人の身である時がチャンスなのです。


霊界に入ってからでは遅いのです(それでは後の祭りよ)

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