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2015年09月17日20:45

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旅順開城

安保法案、参院特別委で可決
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3621220

 1905年1月15日,旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏し,旅順を開城しました。日露戦争です。勝利を得たのは,第三軍司令官乃木希典大将です。
 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を少しずつ読んでいます。第5巻を読み終わり,残すは3巻になりました。日本陸軍がやっと二○三高地を奪取し,旅順攻撃が終わりました。
 旅順攻撃の前半戦は乃木軍の作戦行動のまずさが目立ちます。要塞に対して単純な歩兵突撃をくりかえすのみでおびただしい兵士の犠牲を強いていきました。満州軍総参謀長の児玉源太郎大将がやむを得ず代わりに指揮をとることになり,やっとのことで二○三高地を落とします。
 その戦績は? 

<以下引用>
P318
 旅順における両軍の兵員の損害を比較すると,ロシア軍の戦闘員は四万五千,このうち死傷は一万八千余。さらにこのうち死んだ者はわずか二,三千人にすぎない。この大要塞に守られて巨大な火力をもっていたとはいえ,これだけの激戦で死者二,三千人というのは攻撃側の日本軍のそれに比してきわめてすくない。
 日本軍の場合は,兵力十万。
 そのうち死傷六万二百十二人で,六割の損害というのは世界戦史の上でもまれである。さらにこのうち死者は一万五千四百余人で,一割五分という凄惨さである。さらに第一線で戦闘した将校の死傷率は最も多く,全期間を通じて無事開城まで戦線に立ちえたのはわずか十余人にすぎなかった。とくに下級将校は白刃をふるって隊のまっさきに進まねばならないため,まっさきに機関銃の餌食になってしまったのである。
 ステッセルは,それをよく知っている。日本軍主力の歩兵はあれほど勇敢に,おそらくこれまた世界戦史に類をみないほどの勇敢さで戦いながら,その死の多くは単に要塞の砲火の機械的犠牲になったのみで,とくに前半は要塞防御をおびやかすほどの効果があったとはおもえない。ステッセルは日本歩兵に対してはたしかに勝ったという実感のもとに,工兵と砲兵と,そして二十八サンチ榴弾砲の機械力をほめたのであろう。
<以上引用>

 死者だけで比較するとロシア軍は多くて3,000人日本軍15,400人余りです。これでもかったのは日本です。開城後,水師営で敗者ステッセルと勝者乃木の会見が行われます。その後乃木は神になり乃木神社に祀られます。ステッセルはロシア本国で裁判にかけられ死刑判決を受けます。
 でも,この戦争の勝利は無残に死んでいった日本兵15,400人に報いることができたのだしょうか。
 戦争とは誰のためのものなのか? 乃木のため? ステッセル? それとも,日本兵15,400人(+ロシア兵3,000人)のためなんでしょうか?
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