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2015年08月23日22:51

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今日はツィンマーマンのレクイエムを聴く

今日はオケ練がありまして、そのあと家に荷物を置いて以下の演奏会に行きました。

○サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015
ザ・プロデューサー・シリーズ 長木誠司がひらく
レクイエム〜詩と声と命の果つるところ
開演:2015年8月23日(日) 18:00
会場:サントリーホール
曲目:ツィンマーマン/ある若き詩人のためのレクイエム(1967-69) <日本初演>
出演:
ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
ソプラノ:森川栄子
バリトン:大沼徹
ジャズコンボ:スガダイロー(ピアノ)、吉田隆一(サクソフォン)、類家心平(トランペット)、東保光(ベース)、服部マサツグ(ドラムス)
エレクトロニクス:有馬純寿
新国立劇場合唱団
東京都交響楽団
指揮:大野和士

まさに傑作。以前ラッヘンマンのマッチ売りの少女を聴いた時はじゅ。には峻厳すぎて傑作かどうかは留保したが本作品は傑作中の傑作中の傑作。第1次世界大戦終了後の20世紀音楽では極論するとヴォツェック以上の傑作と言ってもいい。
終演後に完全に脳内トランス状態となる。
昨日マーラーの大地の歌を聴いたばかりだからかもしれないが、冒頭部分は大地の歌の第6楽章冒頭を思わせる。そして全編にわたってルクス(光)が結節点として用いられているのはまさにマーラーの第8交響曲だ。交響曲に声部を入れるのはベト9以来本格的にはマーラーにより開始されたがそれの終局点と言ってもいい。声部として引用される音声や詩句は単なる手段としてのコラージュではなく作曲者の肉声を間接的に表現するものとして扱われ作曲者の置かれたソ連崩壊前の資本主義が共産主義に代替されても理想郷に至らない閉塞の時代性をも反映する。また引用されるベト9の終楽章とビートルズのヘイ・ジュードは光明に向かって進む方向性を示しこれらが閉塞の打破への希求として提示されるがそこにそれを否定するように暴力的洪水のような圧倒的な管弦楽をおっ被せるというある意味救いの少ない音楽である。つまり大地の歌で普遍化された希求をここでは否定して普遍化してしまっていると言える。「詞」の内容を音楽・音響と組み合わせて高度に普遍化する系譜の最後に位置する作品かもしれない。
後半に木のハンマーが3回鳴らされるがこれは裁判官の審判の比喩だろうか、マーラーの交響曲でもハンマーが鳴らされることがあるがこれも審判の比喩かもしれない。

あと、ナレーターは我らが長谷川初範が若い塩田泰久に押されていた。

終演後にお友達でトルコ料理屋でツィンマーマンに乾杯しました。
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