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2015年06月09日02:07

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 【質問】 劇辛って何?(下書き)

 【回答】
1)
 特に辛い料理の辛さを示す言葉.
 「激辛」とも表記される.

2)
 (1)より派生した,辛辣なコメントなどにつけられる形容詞.
 例:「セルジオ越後の劇辛トーク」
 もっとも,そう自称するコラムなどは,だいたいにして単なる「世論に対する逆張り」であったり,ただの「老害」であったりする例も散見される.

3)
 劇辛は中国の戦国時代末期の燕の将軍.
 生年不詳.

 趙の出身だが,燕の昭王が斉に対抗するため,臣下の郭隗の献策により,有能な人材を諸国に求めたとき,それに応じて燕に移った.
 同じように燕に移った者には,魏の将軍・楽毅や斉の陰陽家・鄒衍がいる.
 このときの献策が,現代まで伝わる
「先ず隗(かい)より始めよ」
のエピソードであるが,有名な逸話であるので詳細は割愛.

 劇辛は以後,昭王から喜まで5代の燕王に仕えた.

 BC242年,趙将の李牧により武遂と方城が奪われる.
 しかし,喜は,趙がたびたび秦に敗北し,さらに既に名将・廉頗が,出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て,劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した.
 劇辛は趙にいたころ,龐煖と親しくしていたため,
「龐煖は与(くみ)易きのみ」
と答え,趙に攻め入った.

 劇辛は易水を渡って中山路を取り,常山に至った.
 対する龐煖の趙軍は東垣に屯営して塹壕を掘り,塀壁を高くして守った.
 龐煖は言った.
「劇辛は自らの才能を恃んで来ている.
 必ずや敵を軽んずる心があるだろう.
 今,李牧が代郡を守っており,軍を率いて燕軍の退路を断てば, 彼は腹背に敵を受けることになろう.
 これを迎撃するわけだから,彼を虜にできよう」

 燕軍には栗腹の子,栗元もいた.
 栗元は父の仇を討ちたいと欲して劇辛に言った.
「進撃させて下さい」
 劇辛は言った.
「であれば,もう一人をお前の助けとして附けよう」
 劇辛は武陽靖に,栗元とともに出撃するよう令を下した.

 しかし,趙軍は強弩を乱射して応戦.
 武陽靖は箭で死に,栗元は燕軍陣地に逃げ帰った.
 劇辛は大いに怒り,全軍を率いて趙軍の陣地に突入を試みた.
 龐煖は強弩でこれを防ぎ,燕軍には相当の損害が出た.
 龐煖は使者をやって 劇辛に言わせた.
「代の李牧が退路を塞ぎに兵を動かしている.この地にいれば帰れなくなるぞ」
 栗元が劇辛に言った.
「将軍,もし,使者の言うとおりだとすれば,大変危険です」
 劇辛は言った.
「なんぞ李牧を恐れることがあろうか」

 だが,劇辛は兵を退かせた.
 龐煖は兵をやってこれを追跡させる.
 劇辛が龍泉河に至る頃,
「前面に旌旗がはためいて路を塞いでいる」
という報告が入った.
 聞けば,代の李牧の軍だという.
 劇辛は驚いて言った.
「龐煖は私を欺かなかった」
 そこで劇辛は進路を変えて東に進んだが,胡盧河に至ったところで, 龐煖の軍に追いつかれ,戦となった.
 劇辛は兵破れ,言った.
「今更何の面目あって趙の虜囚となれようか」
 劇辛は自ら頸を刎ねた.

 【参考ページ】
http://page.freett.com/lunarwarfare/jin/enn.html
http://www.geocities.jp/shokatusei/QinShihuang/25.html
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