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2024年04月27日10:10

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4/25 エッシェンバッハ/N響 シューマン2他

シューマン/歌劇「ゲノヴェーヴァ」 序曲
シューマン/チェロ協奏曲 イ短調 作品129
シューマン/交響曲 第2番 ハ長調 作品61

チェロ
キアン・ソルターニ

ゲノフェーファの最初の音を聞いて、今日は前週のような惨事にはならないと確信。やはりエッシェンバッハは一定程度以上の粘度があってナンボ。冒頭から濃厚な表現をする意図が見える。

ただ、意図はわかるのだが、いまいちそれが音楽の末端まで浸透しないもどかしさも若干。強いシューマン臭にオケ(フェアに言うと、聞き手の自分自身も)がうまくアダプトできていない印象。チェロ協奏曲も、自分がそもそもこの作品をうまく消化できない(長年苦手な作品…)ところが主だろうが、ソルターニも極めて洗練されてはいるが最後に心を掴む何かが所在無げな。

こういうもどかしさが2番でようやく解消。結局は自分のシューマンの消化能力の問題だったのかもしれない。この作品は良く知っている(変な言い方だが)。そして自分の感じている解釈のカギとなるポイント一つ一つにネチネチ手を突っ込んでくる。時には地味に、時にはそこまでやっちゃいますかとこっちが気恥ずかしくなるくらいに。これくらいでなきゃ。
第二楽章まではそれでも一定程度の良識というかバランス感覚もあったが、第三楽章で変態度全開。こんな濃厚な音楽だったとは正直知らなかった。そして、濃厚濃密ではあるが、決して頂点には至らない、頂上が見えてくるたびに湿度の高い強烈な下降気流が忍び下りてくる。この閉塞感、満たされない感。これぞシューマンの本分。終楽章も躁状態のハ短調で始まりつつコーダの前で一旦ハ短調で静かに閉じてしまうという病的な曲想をここまで見事に表現できる演奏はなかなかない。見事の一言。ご存じのとおり20世紀の悲惨な歴史そのものである彼の前半生のトラウマが音楽に憑依したかのような病的な視点が彼の再現芸術家としての持ち味で、それを他人の演奏で具現化させなくてはいけないという指揮の性質上、彼自身のピアノのようにうまくはいかないことが多いが、ここで数年来書いているように、ようやくそれが(あの棒でも)達成できる境地に至ってきている気がする。打率低いけど。

月曜のシューマンVn+ブラ2は他予定との兼ね合いで残念ながら見送り濃厚。来季のN響にはクレジットされておらず、ひょっとしたらこれが一時期は「おらが町の監督」としても世話になった彼との最後の実演かもしれない。仮にそうなってしまったとしても、懐かしく振り返ることができるような2番だった。
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