『神がいるなら、なぜ悪があるのか――現代の神義論』と言うクラウス・フォン・シュトッシュの著作が、加納和寛の訳で出版されているニャ。
「神がいるなら、なぜ悪があるのか」この問いかけは、世の多くの教会では「神義論」という未解決の議論とされているのニャ。
ではどうして、未解決の議論とされているのでしょう。
彼らは、なぜ神は悪の存在を認めているのかと言う根本的な問いでつまづいているからニャ。
創世記 1章 26節には、こうあるニャ。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自らの似姿として造られたとあるが、それは見た目だけではなく能力や可能性と言う点でも自らの似姿とされているのニャ。
なぜなら人が神の目にかなうようにあらゆるものを治めるには、神の目的を正しく理解している必要があるからニャ。
だから聖書には、「主イエスを着なさい」「真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」「新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。」と繰り返されるのニャ。
私達には、何が善で何が悪か自分で理解でき判断できるようになるだけではなく…。
なぜ善でなぜ悪なのかも自分で理解でき判断できるようになるようにも、求められているのニャ。
神が、私達に自分と同じ能力を身につけることを求めているからなの…。
悪がなければ、何が悪でありそれがなぜ悪なのかも知ることはできないのニャ。
だから神は、あえてサタンに堕落したルシファーの企みを許しておられる…。
サタンの企みを逆手にとって、私達に神のような知恵と知識を授けようとしておられるニャ。
そうでなければ、どうしてヨブ記のような記述が残されているのニャ。
正しいものとされたヨブでさえ…。
神に対する理解を深めるために、サタンの試しをされているのニャ。
しかし人は、迷い悩み時として神の御心の真意を見失う…。
神はそのような人の弱さを許したいので、救いの計画としてイエスの贖罪を用意しておられるのニャ。
人は誰でも、神の目に罪とされることを犯してしまうけれど…。
イエスの十字架の贖罪を自らの贖いとして、御父に許しを求めることができるのニャ。
人は失敗から多くを学んで、成長するから…。
多くの学びを重ね、精神的にも神の似姿に限りなく近づいていくように御父から期待されているのニャね。
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