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2023年09月26日10:23

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【1994年11月】社内失業中の石鎚山登山と四万十川サイクリング

27年の会社生活で一番のどん底の6年目でした。農薬事業が身売りになって、農薬探索の研究室から物性分析の研究室へ異動してきたのが1月です。大学で量子化学(コンピュータケミストリー)を専攻した私にとって、平成の言葉なら「オワコン」の農薬の分野から高分子や触媒や新素材など化学の広い世界へ踏み出すチャンスだったのですが、期待していたような分子・原子レベルの世界を解き明かす仕事にはありつけません。合成樹脂の生成プロセスのシミュレーションというテーマを与えられましたが「役不足」でした。化学構造式に基づいた分析が求められず実力を発揮できないというのが本来の意味の「役不足」であり、化学工学を学んでいないので本格的なシミュレーションに取り組めないのが誤用されている「役不足」の意味でした。

化学会社二社の合併が実現したのが10月でした。私の担当職務も合併先への異動までの「つなぎ」だった可能性が高く、翌年の二月に横浜への転勤で大学入学以来15年の茨城県での生活に別れを告げることになるのですが、合併直後は大きな会社になった実感がなく、まだ田舎の研究所にこのまま埋もれるつもりでいました。アウトプットイメージがなかなか描けない停滞状況で、ちっぽけなシミュレーション結果を検証するためのチャチな実験でお茶を濁しながら鬱々とした毎日を送っていました。そんな中、同期の照坊と部下で入社三年目のカオリさんが結婚することになり、披露宴では受付を頼まれました。照坊が気を利かして同期のキヨミさんとペアを組まされたのですが、半年前は「運命の人」だったはずの私の甲斐性のなさに既に愛想を尽かされ、離婚寸前の夫婦のような険悪な雰囲気が漂いました。

会社生活はどん底でしたが「一人旅」は進化を続けていました。5年連続のGWの九州旅行はマンネリ気味でしたが、盆休みの北海道旅行は網走の大学に単身赴任していた父との家族旅行に一人旅を繋げて一週間を超えるスケールの大きなものとなり、礼文島の西海岸を歩き通す「愛とロマンの8時間コース」でクライマックスを迎えました。一緒に歩いた仲間11名でサブリーダーの女性の実家(金沢市郊外の自営業の邸宅)で同窓会を開催したのは10月の連休です。一人旅での出会いが発展して、生活や人生への影響が本格化していきました。(旅に目覚めたサブリーダーは半年後に小笠原を旅した時に出会った長野の男と結婚に至ります。)

会社生活は、合併に伴う人事交流の嵐の前の静けさが続いていました。会社がまだ平和なうちに結婚を決めた社内カップルがもう一組あり、結婚披露パーティーのテーブル対抗のゲームで勝ったチームを中心に土浦で更に宴会が盛り上がりました。一方、千葉県柏市の実家が北部の新興住宅地に引っ越すことになったのですが、転居前に旧居を引き払ったので世田谷区の母の実家にしばらく同居させてもらうことになりました。週末に常磐自動車道と首都高速を使って「帰省」して都会生活を満喫する気分を味わいました(翌年2月に転勤で横浜市青葉区に異動して「都会生活」を正式に手に入れました)。

文化の日を含む連休に四国旅行を思い立ったのは、前年の二回の四国旅行の再現/再チャレンジとして、夏の石鎚山登山の感動に更に紅葉探勝を加えることと、徳島大学への出張のついでに四万十川探訪サイクリングを計画しながら雨で断念したリベンジも兼ねていました。ユースホステルの予約は一週間前に済ませました。面河渓の関門ユースは電話に出たのが、かなりのお年らしいお婆さんで「来て下さい」と一言ぶっきら棒に言っただけでした。宿毛ユースはお馴染みのペアレントのお爺さんの声を聞いて懐かしくなりました。土浦駅で寝台特急「あさかぜ3号」の券を購入したのもお馴染みです。三か月前の北海道旅行は、行きの飛行機が取れずに青森‐函館間の夜行フェリーに乗ったり、帰りも臨時便の飛行機を辛うじて確保して帰路についたりと苦労が多く、トップシーズンの北海道のユースホステルがどこも大盛況だったのですが、秋の四国は落ち着いた旅が期待できそうです。

阿見町の社員寮を出発したのは11月2日(水)の16時15分です。日記によると健康保険組合の主催するボーリング大会があるのをサボってフレックスタイムを利用して16時(定時の30分前)に退勤しています。午前中に実験データのパソコンへの転送法の改良に同期の同僚の協力を仰ぎ、ホッとした気分で旅に出られるとの記述がありました。

「あさかぜ3号」では9時ころから6時間、ほぼ十分な睡眠時間を取れました。岡山から「マリンライナー」の始発、坂出で特急「いしづち」という乗り継ぎにも慣れていて、坂出を出てまもなくの6時22分に車内で日記を記しています。関東より1時間ほど遅い日の出を迎えた後の西日本の車窓には雨が降った形跡があり、絶好のコンディションは期待できません。編み笠を被り、杖を持った白装束の中年男性が乗車しています。石鎚山方面の札所巡りに出かけるようです。修行者を一人見かけただけでも心強さを感じます。

伊予西条駅に到着したのは7時半ですが、登山客だけでなく神社詣でだけの高齢者も多く、バスは満車を通り越して座れない人もいました。石鎚山ロープウェイも本来は30分間隔で運行するところを10分間隔に増便しています。どうやら石鎚山のトップシーズンに当たっていたようです。登山中の写真の一枚目は9時47分でしたので、9時頃に登山を開始したと思われます。紅葉の見ごろは終わりに差し掛かり、赤や黄に色づいた木の葉も大部分が登山道に散り敷いています。登るにつれて初冬の雰囲気に包まれていきます。

1年3か月前の前回は、台風直後の天候回復で奇跡的な好天に恵まれ、異常なほどの気分の高揚で感動の連続だったのですが、今回は今一つの天候に会社生活の不安感にも由来する疲労感もあり、足取りが多少覚束ないようです。それでも家族連れや老夫婦の登山者を次々と追い抜く気力と体力は残っています。ただ体調が万全とは言えず、なんとなく心臓に不具合があるような気分がして山中で狭心症発作に襲われるのではと少し不安になります。

写真の時刻によると10時15分には鎖場に到達して登山の醍醐味も深まっていきます。命がけの厳しい登山コースですが、自転車を抱えて鎖場を登る若い4人組の登山者もいました。天候が今一つですが、石鎚山に好天は年に数日しかないそうで、前回の瀬戸内海を望むパノラマも満天の星空も朝の雲海も奇跡だったようです。今回も「前社ヶ森」から瀬戸内海をなんとか眺められたのが幸いでした。山頂も下界もそれぞれ霧に遮られて視界は悪いのですが、時折風で雲が吹き飛ばされると天狗岳(山頂)が顔を出して一瞬のシャッターチャンスが到来します。山頂の手前でお弁当を広げる登山客も多いようです。

晴れ間が覗くこともありましたが、風の冷たさが身に沁みました。冷気で鼻にツンとくる感触に覚えがあり、スキー場のリフトで風が吹きつけた時の脳天に突き刺さるような感覚は冬の到来を予告するかのようです。山頂に到着したのは11時半ですが、霧のため景色はほとんど見渡せず、白骨のような枯れ木が所々に顔を出す中腹の樹林の景色が見えたのも一瞬でした。標高1982mの石鎚山頂上から数十m先の天狗岳の切り立った頂上が霧の中に浮かび上がります。断崖絶壁に挟まれた岩が剥きだしの登山道を這うようにして天狗岳のてっぺんに辿り着きました。危険な上に気温が低いので体が冷える前に引き返して、下山路へ向かったのは12時半ごろだと思います(カメラの電圧が低下したのか時刻表示が薄くなったり消えたりしています)。

下山路は石鎚土小屋方面と面河渓方面とに分かれ、前回は頂上から1時間半の土小屋に降りて一日2本の面河渓行きのバスを3時間以上待ったのですが、今回は面河渓まで6km以上の下山ルートを選択しました。分岐点を過ぎたところで景色が一変、一面の笹原にところどころ這松のような低木の針葉樹が固まって南国の植生とは一線を画しています。稚内や礼文島を歩いた時の記憶が甦ります。風景への感動は高まりつづけますが、下山時は疲労の影響が出始めます。足がガタガタになり膝が笑い4〜5回転倒しました。枯葉の散り敷いた路肩を踏み抜いて2回バランスを崩しました。14時過ぎには山岳の気候から脱出して紅葉のトンネルが出現しました。天候が回復して、赤、黄色、オレンジ色に染まった木々の葉に太陽の光が差し込んで映えています。四国の紅葉は京都や八甲田と比べると見劣りがしますが、ハードな山歩きの後の秋空と紅葉の織りなす風景に登山の達成感が膨らみます。

面河渓に降りてきたのは15時半で、渓谷の散策が続きます。面河川の水の美しさに息を飲みました。深い淵になったところは水底までエメラルドグリーンに透き通っています。頭上の紅葉と侵食された奇岩と緑色の水とのコントラストにも魅了されます。水を少し手で掬って口に含んでみると、落ち葉の成分が溶け込んでいるのか少し酸っぱいような雑味もありますが、天然のミネラルウォーターの美味しさが感じられました。下山してホッとしたものの、関門の旅館街にはなかなか辿り着けません。下山開始時に面河渓まで12kmという表示を見てウンザリしかけたのは、関門のバス停までの距離のことのようです。

予約したはずの関門YHに着いたのは日も暮れた17時頃でしたが、施設が壊れていて宿泊予約の葉書は全て返送したとのことです。電話予約についてはキャンセル手続きが間に合わなかったようです。国民宿舎「面河」が宿泊可能だそうなので、お願いしてみたら夕食と朝食付きで泊まれました。夕食は川魚の甘露煮がおかずで頭と骨まで食べられました。6畳間を一人で占領して快適ですが、ユースのような旅人同士の語らいが無いので手持無沙汰です。テレビをつけると留学経験者の若者を集めたトーク番組をやっていました。身の安全のため銃を所持していたという男もいて、賛否両論のシリアスな議論が繰り広げられていました。「駅前留学」の方が良かったかもというネガティブな意見もありました。午後9時半過ぎから日記の記録作業を始め、伊予西条駅到着から面河渓到着まで書き終えました。一人きりの時間を誰も邪魔しないので、終活に生き急いでいる今のような乱れた筆跡とは異なる丁寧な読みやすい字が大学ノートに残りました。足の疲れが取れず、大量の汗をかいた上、気管支喘息の発作止め(錠剤+吸入薬)を服用したため喉が異常に乾いています。水道の水がやたらに美味しいのは、過去のユースホステル新聞の読者からの投稿記事に関門YHの水が美味しく水筒に入れて温まっても味が落ちなかったという内容と一致します。適度のミネラル分のため、アルカリ性の温泉のようなぬるぬるした感触があるのも特徴です。

翌11月4日(金)は朝食後7時半に出発しました。9時15分関門発のバスまでたっぷりと面河渓の散策を堪能します。景観の雄大さでは層雲峡には敵いませんが、二か月半前の大雨で水が茶色く濁った層雲峡の景色を見ただけに四国の山間部の水の美しさには何度も目を奪われます。エメラルドグリーンに透き通って川底の石の形と色も判ります。浸食を受けて滑らかになった岩場を流れてきた水が急流となって飛沫を揚げている場所もあります。渓谷を見下ろす楓の木は赤や黄色に色づいた葉を散らせています。面河山の山肌の木々もオレンジ色に燃え立とうとしています。三脚を担いで紅葉の写真撮影に励む人の姿も見かけます。四国の紅葉を堪能した後、バスを乗り継いで(久万町で10時30分)松山に着いたのは11時30分頃です。

道後温泉本館へ入ると、雨がちな昨年と変わって降水量が少なかった今年の天候から水不足を来たして節水が続いていました。洗い場の水が出ないので、体を洗うのに天然の温泉のかけ流しの湯を贅沢に用いるしかありません。アルカリ性の湯のおかげで山歩きの疲れも解消したようです。温泉本館の近くでうどんと稲荷ずしを昼食としました。三週間前の連休の金沢での「礼文島を歩いた仲間との同窓会」の記念写真を手紙と一緒に旅先から投函しようと封をした状態で持参し、松山中央郵便局で切手を購入して松山市の消印のあるお手紙を皆さんに送ります。13時半の特急に乗り損ない、14時20分の特急で宇和島へ向かいました。宇和島/宿毛(すくも)間のバスにのって宇和島自動車の宿毛営業所に着いたのは17時50分、宿毛ユースホステルの近くを通る犬除(いぬよけ)行の終バスは10分前に出てしまったので、タクシーでYHへ向いました。

運転手さんは宿毛ユースのペアレントさんの知り合いで、年を取ると田舎暮らしの方が性に合うとか、この近辺では外出時に鍵を掛けないのが普通であること、息子さんが自衛隊に入隊し下総基地(千葉県)から山口県に転勤したばかりだとか色々な話を聞きました。ユースに到着して早速、夕食にありつきました。近海で獲れたに違いない白身魚の煮つけ、酢豚、キノコのお吸い物などボリューム満点です。

この日のホステラーは、富士フィルムの足柄事業所で開発職の男(総会屋との関係遮断に尽力していた専務の刺殺事件の犯人が逮捕されたばかり)、岡山から来たふくよかな女性(11月下旬にまた有休を取って東北へ旅行する予定)、色白で大柄で黒髪が綺麗な倉敷出身のタカイさんという大学生(小さな事務所に就職が内定)、それに遅れてやってきた髪の薄い若い男性ライダーです。タカイさんは、高知大で民俗学を学んでいて高知県の田舎を車で回って色々な調査をしながらの旅だそうです。午後10時頃までホステラー同士の会話に熱中して時を忘れるのは、夏の北海道旅行の稚内モシリパYH以来5泊ぶりでした。ペアレントさんも時々やってきて、塩浴(入浴時に石鹼を使わず塩で体を洗う)の効用を説いていました。ホステラーを「君」付けして呼ぶペアレントさんは、タカイさんのことが気に入って何かと「タカイくん!」を連発していました。

翌11月5日(土)、天気予報では下り坂と言っていましたが朝方は晴れてサイクリングにはちょうど良い天候でした。7時40分にユースから更に山奥へ200mくらい歩いて松田川の清流を眺めてきました。夏には川遊びや水泳も気分が良かった松田川ですが、水不足の影響で水量が減っています。昨年の11月中旬に学会参加で徳島に向かう途中、宿毛に寄って四万十川へのサイクリングを計画したのですが雨のため断念、代わりに関西人女性二人組(研究職と学校職員)と予土線に乗って四万十川に最も近い江川崎駅からご案内して楽しい時間を過ごしたのでした。今回は予定通り、四国のユースが共同購入したサイクリング車(ユース間で乗り捨てできるシステムは終了していた)を借りて、持参した昭文社の「中国・四国道路地図」を携えて9時頃に出発しました。

宿毛の市街地まで松田川沿いに8kmくらい続く県道を1km下ったところで左折し、田舎道を6kmほど走って芳奈口というところで国道56号線に合流します。3km走って有岡で左折した後は四万十川が見えるまで峠越えも含む9kmの苦しい道が続きます。沈下橋ではない川登大橋に到着したのは10時過ぎでした。ここから流れを10km遡り三つの沈下橋も往復する4時間の四万十川探訪を堪能します。四万十川の深い緑色に澄んだ水は美しいけれど、前日に見た面河川のエメラルドグリーンには一歩譲るようです。鮎や鰻などの生態系の豊かさも影響しているようです。(最近は同じ高知県の仁淀川の水の美しさが「仁淀ブルー」として見直されているそうです。)河原の広さも四万十川の魅力、カヌーで降りてくる人やバーベキューに興ずるグループなど楽しみは様々です。

増水で流されないように欄干を除いた三つの沈下橋はそれぞれ形が異なり、川登から少し遡った場所に掛かる高瀬沈下橋は二本足のシンプルな形状、更に4km上流の勝間沈下橋は三本足、その先6km遡った口屋内沈下橋は太いコンクリートの柱の上に乗っています。四万十川の景色は良いのですが、食事処を見つけられず口屋内の雑貨屋風の古い店でアンパンを買って腹を満たしました。口屋内には四万十川ユースホステルがあるはず、元宇和島ユースのペアレントさんがYH協会から独立して始めたユースでカヌー教室を開き、夕食は本格的なフランス家庭料理、ペアレント夫人は元ホステラーだと聞いています。手づくりの木造建築のユースを眺めようと口屋内沈下橋から細い道を延々と辿ったのですが、途中から長い下り坂となり帰路の苦労が思いやられます。舗装していない箇所もあり、ユースまでの4kmの道の半ば(目的地の地名は中半「なかば」)で引き返し、佐藤ペアレントとの再会は断念しました。帰路に向かってからも沈下橋の撮影を続けます。帰りは国道56号に合流する有岡までの道で「山伏トンネル」の手前の坂道を上る気力/体力が尽きてしまい、自転車を押して歩いて登りました。人家もほとんどなくダンプカーが何台も追い抜いていきます。朝の天気予報の「下り坂」は外れではなく、雨具が不要な程度の小雨に何度か見舞われました。

ユースへの帰館は4時半です。風呂に入り、前日と同じくペアレントさんの指示に従って塩だけで体と髪を洗いました。夕食の時間まで30分程睡眠を取りました。宿泊客は他に外国人夫婦だけで外へ食事しに行ってしまったとのことなので、民家風のユースの食堂でたった一人での夕食となりました。イカの刺身、エビフライ、カニコロッケとボリュームたっぷりです。ユースの常連扱いでビールの小瓶一本(キリンラガー)がサービスでした。

夜も暇なので食堂のテレビをつけて「巨人優勝」の記念番組を見ていたら(自称阪神ファン)、ペアレントさんが外人さんを連れて来て、梅酒でも飲みながら相手をしてくださいとのことです。カナダ人でフランス系の奥さんはもう床に就いたそうで、酒は飲まずに水を飲んでいます。英語が大部分、日本語を少し話せるけれど、私の日本語は早口で滑舌が悪い上、なぜか関西なまりに染まって聞き取れないことが多くて英会話の方がスムーズでした。広島県の安浦町で英語の先生をしているそうです。安浦町には他に外国人がいないそうです。週に二回、学校に行って日本人教師の隣に立って英語をしゃべる「テープレコーダー」の代わりのようです。モントリオールに住んでいてフランス語オンリーの友人もいたのでフランス語も少しできるそうです。ビートルズの曲では「Got to Get you into my Life」(ブラストセクションも加わったエネルギッシュな曲)が気に入っていること、ウィンドアンサンブル(吹奏楽?)でクラリネットを吹いていることなど聞きました。テレビの画面はゲオルク・ショルティの最近の活動を放映していて、80代を迎えても相変わらずアスリートのような身振りでアグレッシブな音楽のタクトを取る様子に感心したりしている内に10時になりました。

翌11月6日(日)は7時半のバスで出発し、高知県の南西部から茨城県南部まで12時間以上掛けての帰宅となります。中村発9時14分の特急「しまんと8号」に乗り、高知駅で「土佐かつおのたたき弁当」(保冷剤付き)を買う時だけ車外に出ました。9時30分に土佐湾の白波の打ち付ける様子を車窓からカメラに収めるのに成功しています。土讃本線の車窓は、太平洋の風景に感動を味わう間もなくトンネルに入って轟音に包まれるので、一瞬のシャッターチャンスも貴重です。吉野川は水量が減ってはいるものの美しく、紅葉の景色は小歩危より大歩危の方が優っていたようなので、右側の席を取ったのは失敗でした。見慣れた大歩危の景色を紅葉時に見直す機会を逸したのが心残りです。岡山着は13時31分、「のぞみ」が満席だったので1万円以上払って「ひかり」のグリーン車に乗り、二階のゆったりした座席で贅沢な気分の帰路でした。東京着が18時38分、茨城県阿見町に帰ってきたのは9時過ぎで小雨が降っていました。

普段の会社生活が精彩を欠いているためか、普段の生活に戻る際の疲労度が甚だしく、サイクリングの影響で両手の平が痛くなり、石鎚山登山で転倒した足と腰の痛みも残っています。短いけれど非常にハードな旅でした。この後の三か月は10月の会社の合併を受けて、研究室でもボートのサークルでも相手先の事業所との人事交流がありました。一か月後に横浜の計算科学研究所を訪問したのは「社内失業状態」からの救出のステップに他ならず、翌年の2月に栄転気分を味わうことになります。研究業務の停滞の中、12月上旬には礼文島の桃岩荘ユースホステルの歌って踊る「忘年会」(代々木公園)に参加したり、年末に雫石のユースホステルに宿泊してスキーに出かけたりと旅気分を満喫していたのでした。

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