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2023年10月31日00:12

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10月31日の日記

今日の出来事:1863年−天誅組の変(大和義挙):天誅組壊滅、1868年−秋田戊辰戦争:刈和野奪回戦、1884年−秩父事件、1976年−日本ビクターが世界初の家庭用VHS方式ビデオテープレコーダ「HR−3300」を発売、1984年−インドのガンジー首相が暗殺

今日は、天誅組の変(大和義挙):天誅組壊滅です。
「天誅組結成」:孝明天皇は攘夷の勅書を14代将軍・徳川家茂に授けました。徳川家茂は、攘夷の策略については上洛の上で回答する旨を奉答しました。翌年に徳川家茂は上洛し、幕府は尊攘派の圧力に屈する形で、攘夷を決行すると約束させられました。幕府は通商条約の破棄について諸外国との交渉を開始する事とし、諸藩には海防の強化を命じました。尊攘派が主導する長州藩はこれを拡大解釈し、下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して「攘夷」を決行しました「下関戦争」です。この武力行使には、急進的な攘夷派公卿の侍従・中山忠光(19歳)が参加しており、中山忠光の京からの出奔には土佐脱藩浪士・吉村虎太郎が加担していました。長州藩は続いてフランス船、オランダ船を砲撃し、朝廷からも攘夷決行を称賛する沙汰が下されました。しかし、米仏艦隊による報復攻撃に長州藩は敗北、中山忠光は京へ戻ると謹慎を命じられ、侍従の職を剥奪されました。その後、天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられました。「大和行幸」です。この「大和行幸」を推進したのが、長州藩に気脈を通じる三条実美ら攘夷派公卿でした。吉村虎太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太ら攘夷派浪士と共に、「大和行幸」の先鋒となるため、大和国へ赴く事を決議しました。吉村虎太郎らは中山邸を訪ねて中山忠光を方広寺へ誘い出しました。中山忠光を大将とする同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)は方広寺を出発して大和国へ向かいました。一行は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路で堺へ向かい、船中で中山忠光ら同志一行は断髪して決意を示しました。挙兵に際して淡路の大地主で勤皇家・古東領左衛門は財産を全て処分し、軍資金として供出しました。彼らは「天誅組」と称しました。
「天誅組挙兵」:堺に到着した「天誅組」は高野街道を通って河内をめざし、狭山に入りました。「天誅組」は吉村虎太郎らを軍使として狭山藩の陣屋へ送り、藩主・北条氏燕との面会を申し出ました。北条氏燕は急病と偽って面会を断り、家老・朝比奈縫殿が代って対応しました。中山忠光は朝比奈縫殿に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じました。対応に苦慮した狭山藩はとりあえず「天誅組」にゲベール銃など銃器武具を贈り、天皇親征の節には加わる旨を回答しました。「天誅組」は下館藩の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させました。「天誅組」は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、士気を高めました。その後、「天誅組」は河内檜尾山観心寺に入りました。軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流すると出発し、国境の千早峠を越えて大和国へ入りました。幕府天領の五条に到着した「天誅組」は、代官所を襲撃する事を決めました。代官所を包囲した天誅組は代官・鈴木源内に降伏を要求し、ゲベール銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村虎太郎が率いる槍隊が裏門から突入しました。代官所の人数は30人程で、「天誅組」に抗する事ができずに代官所方は敗北し、鈴木源内は殺害されました。「天誅組」は代官所を焼き払い、桜井寺を本陣に定めました。「天誅組」は鈴木源内を梟首し、五条を「天朝直轄地」と称して、この年の年貢を半減する事を宣言しました。そして、「天誅組」は主将・中山忠光、総裁・吉村虎太郎、松本奎堂、藤本鉄石、御用人・池内蔵太、監察・吉田重蔵、那須信吾、酒井伝次郎、銀奉行・磯崎寛、砲隊伍長・安岡直行、参謀兼記録方・伴林光平、小荷駄奉行・水郡善之祐とする職制を整え、槍隊、鉄砲隊が編成されました。脱藩浪士が指揮し、兵士の主体は十津川郷士でした。自らを「御政府」または「総裁所」と称し、「五条御政府」と呼ばれました。近隣の高取藩に那須信吾らを恭順勧告に送ると、高取藩もこれに服する旨を伝えてきました。一方、「天誅組」の挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすため、平野国臣を使者に送りました。
「高取城攻撃」:大和で「天誅組」が挙兵した直後、京では政局が一変していました。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた中川宮朝彦親王が尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こしました。「八月十八日の政変」です。これにより、「大和行幸」の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任が決定されました。これらの決定は会津藩ら諸藩兵により御所を封鎖した上で行われ、宮門に駆けつけた長州藩兵との間で一触即発の事態になりました。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は官位を剥奪されて失脚しました。「七卿落ち」です。こうして。朝廷の実権は公武合体派が握る事になりました。平野国臣が「天誅組」の本陣がある桜井寺に入りましたが、平野国臣は当初の目的に反して「天誅組」と同調してしまいました。しかし、直後に京での政変が伝えられ、「天誅組」が暴徒として追討の命が下された事が明らかとなりました。中山忠光らは協議の末、本陣を要害堅固な天の辻へ移す事を決め、本陣を定めました。吉村寅太郎は五条の医師・乾十郎とともに元来尊王の志の厚い事で知られる十津川郷士に募兵を働きかけ、十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)に入って反乱に加入を説得した結果、野崎主計ら十津川郷士960人を集めました。「天誅組」は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくりましたが、その装備は貧弱なものでした。十津川郷士も半ば脅迫でかき集められた事もあり、「天誅組」の強引な指示に疑問を持つ者が少なくありませんでした。玉堀為之進と上田主殿は「天誅組」の作戦に抗議し、天の辻で斬首されました。先に「天誅組」に恭順を約した高取藩は態度を翻し、兵糧の差し出しを拒否したため、「天誅組」は高取城攻撃を決定しました。中山忠光が率いる本隊が高取に向かい、吉村虎太郎は別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えました。「天誅組」の進発を察知した高取藩は防備を固めました。1000人余の「天誅組」に対して、2万5千石の小藩である高取藩の兵力は200人程でしたが、地理を熟知していました。狭い小道を進軍してきた「天誅組」に対して、高取藩兵は大砲と鉄砲で攻撃、烏合の衆である「天誅組」はたちまち大混乱に陥りました。「天誅組」は潰走して五条へ退却しました。吉村虎太郎は決死隊を編成して夜襲を試みました。決死隊は高取藩の斥候に遭遇し交戦しましたが、味方の誤射により吉村虎太郎が重傷を負い退却し、天の辻の本陣へ戻りました。中山忠光は、紀州新宮より海路で移動して四国、九州で募兵する事を提案しましたが、吉村虎太郎らが従わなかったため、中山忠光は別れて別行動をとりました。また、三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥らが脱走しました。
「天誅組壊滅」:幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などに「天誅組」討伐を命じました。朝廷からも「天誅組」追討を督励する触書が下されました。中山忠光が吉村虎太郎らに再度合流して天の辻の本陣へ帰りました。諸藩の藩兵も動き出し、紀州藩兵が富貴村に到着、「天誅組」は民家に火を放って撹乱しました。「天誅組」先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退けました。「天誅組」は軍議を開いて大坂方面へ脱出する事を策しました。幕府軍は総攻撃を攻囲軍諸藩に命じました。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍しました。「天誅組」は善戦しましたが、主将・中山忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされました。統率力を失った中山忠光の元から去る者も出始め、「天誅組」の士気は低下しました。紀州・津の藩兵が吉村虎太郎らの守る天の辻を攻撃、吉村虎太郎は天の辻を放棄しました。中山忠光は天険を頼りに決戦しようとしましたが、朝廷は十津川郷に中山忠光を逆賊とする令旨を下したため、十津川郷士は変心して中山忠光らに退去を要求しました。進退窮まった中山忠光は遂に「天誅組」の解散を命じました。「天誅組」の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みましたが、重傷を負っていた吉村虎太郎は一行から落伍しました。一行は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇しました。那須信吾は中山忠光を逃すため、決死隊を編成して敵陣に突入して討死、藤本鉄石も討死し、負傷して失明していた松本奎堂は自刃しました。一行から遅れていた吉村虎太郎は鷲家谷で津藩兵に撃たれて討死し、「天誅組」は壊滅しました。中山忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐって脱出に成功し、大坂に到着すると長州藩邸に匿われました。その後、中山忠光は長州に逃れて下関に隠れていましたが、「禁門の変」の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)によって絞殺されました。平野国臣はこの後、但馬国生野で代官所を襲撃して挙兵します。これが「生野の変」です。

次に、秋田戊辰戦争:刈和野奪回戦です。庄内軍の一番大隊と二番大隊は帰国して本土防衛戦に徹する事になりました。しかし、最後に庄内武士の誇りと一番大隊、二番大隊の勇猛さを示すため、酒井吉之丞は最後の一戦をする事にしました。一番隊は刈和野を出発して上淀川に行き、亀ヶ崎隊と協力して敵を打ち払う予定でした。峰吉川を過ぎて峰の山峠に差し掛かった頃に、荒川方面に新政府軍がいるという情報が入りました。そこで、荒川に向かいましたが敵はいませんでした。午後2時頃、刈和野付近で一関藩兵と新政府軍との間で銃撃戦が始まり、油断しきっていた一関軍は敗走をはじめ、庄内軍に援軍を要請しました。新政府軍は、久保田藩、新庄藩、島原藩を後方に置いて、薩摩藩、福岡藩、平戸藩、大村藩の九州連合軍1000名の精鋭で進撃を開始しました。そこに、庄内藩二番大隊が刈和野二度目の奪回戦を展開する事になりました。酒井吉之丞は病床にあり、副将・右膳が指揮を執りました。新政府軍は前回のように胸壁陣地を築く暇がなく、遮蔽物がない中で戦闘を行いました。敗走してきた一関軍に弾丸を与えて踏みとどまらせ、夕方まで戦いぬきました。100メートルの距離で、新政府軍と庄内軍が銃撃戦を展開しました。庄内軍は川を飛び越えて向こう岸より刈和野の敵を横撃する、大胆な迂回作戦を考えました。両軍の間に激しい銃撃戦が続いて膠着状態になっていた時に、病床の酒井吉之丞が駕籠に乗って指揮して味方を叱咤激励しました。すると庄内軍は勢いを取り戻し、新政府軍は押され始めました。ついに、神宮寺から駆けつけた一番大隊の竹内大作隊が背後から攻撃を始めた事をきっかけに、午後2時頃に新政府軍は角館方面に敗走し始めました。新政府軍は、薩摩藩が戦死者3名、負傷者5名、福岡藩が戦死者4名、負傷者4名、大村藩は戦死者7名、負傷者32名、平戸藩は戦死者14名の被害を出しました。一番大隊も、新政府軍の追撃を食い止め、引き上げを容易にするために撤退戦を行っていました。午前10時頃、新政府軍が襲来して銃撃戦が始まりました。新政府軍の兵力が増加しつつあったため、午後2時頃からひそかに撤退を開始しました。庄内藩一番大隊と二番大隊は午前2時に刈和野を出発して帰国の途につきました。神宮寺で昼食を取った後、雄物川を渡って午後には大曲に着きました。ここで山形藩と別れ、午後3時頃には大曲を出発して、夜中に横手に着きました。新庄方面が新政府軍の制圧下にあるという情報が入ったため、西へ迂回して酒田に帰りました。三番大隊と四番大隊は国境の警備を行いました。

最後に、秩父事件です。秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党」を組織し、2度の山林集会を開催しました。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行いましたが不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙されました。蜂起の目的は、暴力行為を行わず、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等について政府に請願する事でした。自由党解党2日後の10月31日、下吉田の椋神社で決起集会が行われ、蜂起の目的の他、役割表や軍律が制定され、蜂起が開始されました。秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄しました。しかし、当時既に開設されていた電信により、いち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、汽車を利用して警察隊・憲兵隊等を送り込みましたが苦戦しました。最終的には東京鎮台の鎮台兵を送って郡境を抑えました。こうして、「秩父困民党」指導部は事実上崩壊、鎮圧されました。一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出しましたが、その一隊も佐久郡東馬流(現・小海町の馬流駅付近)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅しました。その後、主だった指導者・参加者は各地で次々と捕縛されました。事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下されました(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決、井上は北海道に逃走し、1918年に死去。菊池は後に甲府で逮捕されましたが終身刑に減刑され、1905年出獄しました)。

今日の誕生日:蒋介石、シアヌーク、灰谷健次郎、浜木綿子、つげ義春、岡部幸雄、ピーター・ジャクソン、ラリー・マレン・ジュニア(U2)、ドゥンガ、マルコ・ファン・バステン、池田鉄洋、大河内志保、飯島愛、SEAMO、山本耕史、杉崎美香、中村憲剛、中村勘九郎 (6代目)、斉藤瞳(元メロン記念日)、須田亜香里(元SKE48)、金川紗耶(乃木坂46)、L(エル・ローライト)、クロミ、宇髄天元

今日の記念日:ハロウィン、世界勤倹デー、ガス記念日、陶彩の日、天才の日

今日の「今日訓」:本日は、ハロウィンです。起源は、古代ケルト人の1年の終りが10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていました。時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るため、仮面を被って魔除けの焚き火を焚いていました。これに因み、10月31日の夜、カボチャを繰り抜いた中に蝋燭を立てて「ジャックランタン」を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱えます。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開きます。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい事になっています。秋の収穫を祝い、死者の魂たちが家族の元に帰るとともに悪霊が跋扈し、11月1日に現れるとケルト人たちに信じらていた悪い神や霊などを退散させる宗教的な祭りでした。ハロウィンの語源は、カトリック教会で11月1日に行われる「諸聖人の日(万聖節)」の前晩にあたる事から、「諸聖人の日」の旧称、「ハロウズイブ」が訛って、「ハロウィン」と呼ばれるようになりました。現代では、主にアイルランド、イギリス、アメリカ、カナダ、プエルトリコ、ニュージーランド、そしてオーストラリアの一部で広まっています。これらの国ではハロウィンが盛大に祝われますが、プロテスタント信徒が多いため、その翌日にある「諸聖人の日」には、行事は催されません。日本では、2000年頃までは英語の教科書の中やテレビで知られる程度の行事でした。しかし、現在ではハロウィンが行われるようになりました。クリスマスなどと同様に、日本では宗教的背景の上でハロウィンを開催しておらず、イベントとして楽しむ娯楽化、商業化されたものです。ハロウィンのパレードとしてJR川崎駅前の「カワサキ・ハロウィン・パレード」が有名です。このパレードは約3000人による仮装パレードで、約10万人の人出を数えます。東京ディズニーランドでは、1997年10月31日に園内に仮装した入園者が集まるイベント「ディズニー・ハッピーハロウィーン」が開催されました。2000年10月31日には400名の仮装した入園者とディズニーのキャラクターが園内をパレードする「Happy Halloween Twilight Parade」が開催されました。2001年からは10月中に開催されるイベントとして園内パレードも行われるようになり、次第に秋のイベントとして恒例化していきました。現在では9月初旬から始まる大きなイベントとなりました。
1872年10月31日に横浜の馬車道で、日本初のガス灯が点灯された事を記念して「ガス記念日」、1924年にイタリアのミラノで開催された「国際貯蓄会議」の最終日に決定された「世界勤倹デー」、「陶(10)彩(31)」の語呂合わせで「陶彩の日」、「天(10)才(31)」の語呂合わせで「天才の日」となりました。
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