mixiユーザー(id:9665296)

2023年08月25日14:08

168 view

【1992年11月】定福寺ユースホステル三連泊(高知県大豊町)

バブルの真っ盛りに入社して三年が経過していました。仕事も遊びも全力投球をモットーにしていたつもりの会社生活にもバブル崩壊の影響が忍び寄っていました。職場や社内のスポーツのサークル、独身寮の仲間との宴会などのイベントが盛り上がったのも、この年の夏がピークでした。不景気のためリストラが水面下で進行し始めて、筑波研究所の和気あいあいとした人間関係にも疑心暗鬼から綻びが生じつつありました。会社の人間関係のしがらみを離れた一人旅の楽しみを持っていたのは幸いです。ゴールデンウイークの九州、盆休みの四国のいずれも三年連続の旅で離島へ足を伸ばすなどスケールが広がり、旅先の出会いも帰宅後に長く余韻を残し、次回の旅への渇望を掻き立てました。

盆休みの旅行は、筑波研究所が主催した地域のための盆踊りに参加した翌日、寝台特急「あさかぜ」での出発でした。大洲の古い街の散策、高知県南西部の離島での海水浴、清流四万十川、祖谷渓、徳島県と高知県の境の秘境散策、徳島の阿波踊り参加と盛りだくさんの旅の初日には、大洲の街を一人旅する若い女性(愛媛県の中学の英語の先生)との「男はつらいよ」のワンシーンのような出会いがありました。四度目の四国の旅で、四国が心の故郷になったような気分になり、社内報に掲載した四国旅行の紀行文も好評だったので、春一回、夏三回の旅歴に紅葉鑑賞を目的とした初めての秋の旅を追加することにしました。大洲で出逢った女性から写真のお礼の葉書が届いたり、宿毛(高知県南西部)のユースホステルで飲んだメンバーから宴会での写真が届いたりしたことも四国旅行の後押しとなりました。

二回の四国旅行の間の二か月半の会社生活では何かが崩壊しつつあったのですが、当時の日記を読み返すと研究所の20〜30代のメンバーが今のうちに人生を楽しんでおこうとイベントが目白押しだったことに驚かされます。農薬探索のラボのアイルランド人研修生と化学品合成のラボのタイ人女性研修生の任期が満了となったので、社員寮の庭で盛大なバーベキューパーティーが開かれました。同期を中心としたメンバーでの赤城山でのキャンプがあり、車の運転と料理の両方が得意なメンバーが大活躍しました。更に体育の日を挟んだ連休には社内のアウトドアスポーツのサークルで二泊三日の槍ヶ岳登山を実施し、上高地の紅葉も堪能しました。独身寮生4名でシステム部の「リボンちゃん」を囲む「逆ハーレム」状態で土浦の花火大会を見物しました。戸田の漕艇場での「オール**」(**は財閥名)に参加し、あと一歩で入賞を逃した女子クルーのメンバーの一人(新婚三か月)は「家族計画を変更して次回も頑張ります!」と宣言しました。

社員の誰もがみな、生き急いでいるような日々でした。自分の所属していた農薬探索の研究も明るい将来の展望が描ける状態ではありません。気に入らない上司や同僚をセクハラ疑惑等で貶めて失脚に持ち込もうとする女子社員もいて、職場の雰囲気も悪化していきます。独身寮の隣人は社内のサッカー班のキャプテンで練習後の焼肉「食道苑」&スナック「あい」というコースに私を誘うのが恒例でしたが、三年を超える社内恋愛にけじめをつけて11月に結婚の運びとなりました。社外では中学と高校の同級生で銀行員の友人が職場結婚するので披露宴に招待され、コンサートマスター経験者の新郎を中心に学生オーケストラやアマチュアオーケストラの仲間による演奏が披露されました。

私個人の心には隙間風が吹き始めていました。キャンプも登山も計画から車の運転、食事の用意、現地の設営までリーダーシップを取ることなく、自分の意見も言わず、ほとんど人任せのツアー参加なので、本来は気ままな一人旅の愛好者の本領発揮には程遠いものでした。協調性に欠ける人間ではないつもりですが、生活下手だけでなく遊び下手も自認せざるを得ません。体育会系社員が幅を利かす社内にも音楽愛好家は存在し、10名の男性コーラスでの茨城県南部の音楽祭への出場を12月に控えていました。研究生活の低迷と社内の人間関係の微妙な変化の中で自分の個人的な趣味の充実を主体に生活する方向が強まっていったようです。一方、呼吸器系と消化器系の持病のそれぞれが悪化し始めたのもこの頃でした。

高知県大豊町の定福寺ユースホステルの三連泊を予約し、岡山までの寝台特急「あさかぜ3号」の切符を購入したのは旅の10日前のことでした。10月30日(金)はフレックスタイム制(定時は8:00から16:30)を適用して、16時に退社するまでの時間を研究報告書の作成に費やしました。上野駅に到着したのが18時過ぎ、夕食は「神田川寿司」(ガード下の回転寿司)で13皿を平らげました。混んでいましたが客の回転も速くてネタの鮮度も悪くなかったと思います。東京駅に着いたのは19時。19時20分発の「あさかぜ3号」はほぼ満席のようです。横浜駅を過ぎた頃、デッキへ移動してアサヒグラフの「幻のタイガース優勝特集号」を読みながら、缶ビールを4本空けました。

喉の具合が悪くなったので喘息の発作止めの「アスクロン」を服用した後、21時半に就寝、5時間くらい眠れたと思います。岡山駅に4時15分に到着、アーケード街に入ったところにサウナを見つけて汚れと疲労を取り除きました。深夜料金が掛かって3500円しましたが、清潔で高級感があり泡の出る浴槽やアルカリ性の白湯もあります。瀬戸大橋線のマリンライナーは6時14分発なので、ホームで30分くらい待ちながら日記を記しました。

高松駅に到着したのが7時過ぎ、高徳本線の列車の待ち時間が1時間あるので高松港の方面を少し散歩します。信号のない横断歩道が多いけれど、道がゆったりと広いところに四国の街らしさを感じます。マリーゴールドの黄色い花や紫色の可憐な花が花壇を彩って、秋の四国を初めて体験する期待感が高まります。徳島駅でも牟岐線の列車を1時間待ち、目的地の日和佐に着いたのは11時7分です。日和佐駅から日和佐城まで「四国の道」と名付けられた道を歩き、更に千羽海崖の遊歩道を歩き進めました。アップダウンが激しい道だったので、翌日に予定した梶ヶ森登山に備えて軽登山靴で来たのが正解です。喉の調子を崩して前の晩に引き続き喘息の発作止めを服用しての出発でしたが、復調に少し時間が掛かりました。

日和佐城は小さな再建物で登城する価値はないと思い、素通りですが高台からは湾内に瓦屋根の家々が密集する眺めを見渡せました。千羽海崖は高知県南西部の大堂海岸(一年二か月前に探訪)に比べるとスケールで一歩譲りますが、海に向かって切り立つ断崖に太平洋の白波が打ち付けている景色には迫力があります。海の色の美しさも格別です。エメラルドグリーンが晴天のもとに輝いていて、前年のGWに訪れた五島列島を思い出します。12kmあるという遊歩道のうち3kmくらいを歩きましたが、ほとんど山の中で断崖の景色を眺められる場所も限られて、休憩所からの眺めが蜘蛛の巣に遮られていたりします。海を覗き込もうとすると、タンポポのようなどこか懐かしさを感じさせる花の香が漂ってきて秋の気配も濃厚です。日和佐駅に戻ってきたのは13時半でした。

阿波池田の駅の待合室で17時に日記を付けていました。高松から日和佐までの記録です。四国は本州より温暖な分、秋の訪れが遅いようです。紅葉にも早すぎるようで、ミカンの色づきもまだでした。列車が阿波池田駅を出発する前からすっかり暗くなり、車窓に広がるはずの吉野川も真っ暗で何も見えません。乗客は学校帰りの高校生が多くて、定福寺ユースのホステラーらしい姿は見かけらず、女子三人組の旅行者は大歩危駅で下車してしまいました。土讃本線の豊永駅に到着したのは18時30分です。定福寺までの2kmの登り道は「国道439号線」ですが名ばかりの「酷道」で街灯一つありません。星と月の明かりだけが頼りだと思いましたが、地元の車がたまに通り抜ける際に照らすライトで辛うじて現在地を見失わずに済みました。酷道の整備状況は夏から進展があったようには見えませんが、土地勘が僅かでも残っていたのが幸いです。

YHはトップシーズンの盆休みと違って閑散として受付に人が来るまでしばらく待たされました。広い談話室兼食堂も静かで男性ホステラーばかり5名たむろしているだけだったので不安になりましたが、やがて女子ホステラーも4〜5人揃ってきてYHらしい華やいだ雰囲気を取り戻しました。夕食後に素泊まりで宿泊にやってきた大阪からのビックリしたような大きな目が印象的な色白の美人は、三和銀行の営業部に内定したところだそうです。私と誕生日が10年違いで一緒でした。来春から高収入のはずですが、学生の内は貧乏旅行で食事もカップ麺ばかりだそうです。

宿泊者は16名、JR東日本の社員、彼と仕事での関係がある省庁の職員の正田さんという人、オノ・ヨーコさんに似た中年女性の一人旅(定福寺YHの宿泊経験は10泊以上)、岡山からの25歳くらいの女性ライダーは制服の会社勤務、埼玉県桶川市からの出っ歯で口の閉まらない不細工な顔の男などでした。バブルの好景気に浮かれて自分を見失わず、地に足のついた生き方を心がけ「自分探し」を目指した簡素な「一人旅」に出かける若者も多くなった時代でした。アクティブな旅の出会いを求める旅人に男女別の相部屋というユースホステルの健全なスタイルが合致して、1970年代の文化を引きずっていたユースホステルの新たな時代が始まっていました。定福寺YHはユースホステル復興の代表的な存在でもあったのです。この日は若い朝日新聞の記者が取材を兼ねて宿泊、翌日はホステラーの「修行」に同行して記事を書くそうです。

ヘルパーは男女二人ですが、ユースで知り合って結婚予定、定福寺にて仏前で挙式するそうです。(仏前結婚式は「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」(花嫁はシリーズ初登場の美保純)でしか見たことがありません。)女性(照子さん)は1969年生まれ、大きな目で高校と大学の後輩の千尋さん(千葉の高校の書道教師二年目)に顔も声もソックリでしたが、言葉は関西弁、体つきのふくよかさが少し優っていました。

翌11月1日(日)は天気が曇りで今ひとつでしたが、定福寺の「修行」と称するユースホステルのオリジナルコースの一つ「梶ヶ森登山」を選択しました。一年前の夏に高知・徳島県境の京柱峠を越える40kmのサイクリングコースを走破(同行者3名)、二か月半前には渓谷に突き出た「霧石」での瞑想(?)修行(同行者10名ほど)をこなしたので、本日三つ目の修行を達成すれば「笑い地蔵共和国」の「国民栄誉賞」となります。今回は同行者がなく単独行となります。新聞記者さんは女子ホステラーの霧石へのハイキングに同行しました。

梶ヶ森の山頂までアスファルトの車道が整備されていますが、森の中の道を延々と登る登山コースを辿ってこそ「修行」です。ユースの近くを流れる吉野川の支流の南大王川を越え、森に入ると道が急になって息切れし始めました。森を抜けると桑畑になって人家もありコンクリートを敷いた道を歩きましたが、蛇の抜け殻や死骸も転がっていて恐怖を感じました。インディ・ジョーンズ博士は蛇が苦手だったことを思い出し、テーマ音楽を心の中で口ずさんで切り抜けます。「梶が森登山道」の表示を見つけたので、しばらく畑の中の畦道を登り、不安になって通りがかりの軽トラックの地元の農家の人に道を確かめたりしました。車道を横切るときに「頂上まで7km」の表示を見つけて、少し気が楽になりました。

「LEBEN」(ドイツ語で生命、人生、生活等の意味がある)と言うログハウスの喫茶店に辿り着いたので、休憩することにしてサンドイッチとコーヒーを頼んだら、ユースに宿泊していた外国人ホステラーが自転車でやってきました。Bernyさんというカナダ人、高知で英語の講師をしているそうです。天候が少し悪化して小雨が時折ぱらつく中、Bernyさんと「竜王の滝」を見るため山の中へ出発しました。日本南西部もこの辺りから紅葉の見どころも出現します。「竜王の滝」は落差が20mほどあり、なかなかの迫力でBernyさんは周囲の冷気にも強い印象を受けたようです。滝をバックにした記念写真のシャッターをお願いしました。ここからは石がゴロゴロしている道を辿り、落ち葉を踏みしめ、右からは滝の流れの音を聞きながらの登山が続きます。Bernyさんは、この日の夕方までに高知へ帰りたい(翌日に仕事)と言い出し、登山を断念して自転車を停めた場所まで引き返していきました。

再び単独行の山登りとなります。「定福寺奥の院」に辿り着きました。古くて朽ち果てかけた建物で、畳が腐って真っ黒になりキノコも生えています。部屋の壁は落書きの相合傘だらけでした。ユースホステルとなっている「定福寺」は居心地の良いところですが、「奥の院」は現役の時から厳しい修行の地だったことを伺わせます。この先に「眞井の滝」があり不動明王が睨みを利かせ、清流の源流を辿るような山歩きが続きます。霧に包まれだした中で、梯子を登ったり、鎖につかまったりと本格的な登山スタイルを経験しました。急な鎖場を抜け出すと笹ヤブとなり、四国特有の変成岩があちこちに顔を出しています。後ろを振り返るとガスっていますが、時折風でサッと眺望が開けて紅葉の風景が顔を出します。

アスファルト舗装の車道に出て景色も開けました。曲がりくねった車道に対して登山道は階段でショートカットを繰り返すので得した気分になります。標高1400mの頂上に辿り着いた瞬間、霧が晴れてなんとか吉野川まで見渡せたのも束の間、再び視界が霧に包まれました。車道は頂上までつながって鉄塔も立っていて風情を損なっています。登山客よりもドライブ客がメインでコーヒーを沸かしたりバーベキューを楽しんだりするグループばかりです。肌寒く小雨も降ってきたので、長居は無用です。頂上の写真だけ撮影して下山することにしました。

「梶が森山荘」の裏手へ回って降りていく帰路は、車でアクセス可能な山頂よりはるかに魅力に満ちていました。赤や黄色に色づいた木々に囲まれ、あちこちに地殻変動の名残の変成岩が顔を出して、紅葉の眺めとコントラストを成しています。まるで人気のない散策路に忽然と岩肌に弘法大師が修行したという「御影堂」が出現しました。人を寄せ付かない厳しい佇まいで入り口も見つかりません。周辺を歩いているうち、方向を見失いお堂の位置も分からなくなりました。この先の「ゴロゴロ八丁」は歩くべき進路が明確でなく、道に迷っているのではないかと不安になりますが、やがて行きに通った道に合流できたので安心しました。アスファルトの道に出たところで晴れてきたのが癪でしたが、また曇ってきて不安定な天候です。桑畑の広がる地域に帰ってきましたが、行きの道は忘れています。油断して一度転倒して腰を打ちました。下山完了として南大王川の流れをしばらく眺めた後、ユースに帰館したのはまだ明るい16時過ぎでした。

この日のYHの夕食もかつおのタタキなど豪華な内容でした。ホステラーの前にはほとんど顔を出さない住職の奥さんが一人で食事を仕切っているそうです。毎日違う献立を考え、この前の夏のスイカの下に蓮の花びらを敷いて仏像のように盛り付けたのも奥さんの発案で、ヘルパーはただ奥さんの指示に従って野菜を切るくらいの簡単な作業をこなすだけだそうです。お寺の家庭菜園の野菜などを使った煮物もおかずでした。

昨年の「京柱峠越えのサイクリング」、夏の「霧石での瞑想修行」に加えて「梶が森登山」と「三大修行」を達成したので「笑い地蔵共和国 国民栄誉賞」の受賞となりました。二年前の夏に初めて定福寺ユースに宿泊した時は、YHオリジナルのコースに参加して修行達成を誇っているホステラーの盛り上がりに「引く」ものがあったのですが、四国の旅にハマって気が付いたら「修行達成者」の仲間入りをしていました。賞状と「笑い地蔵」のペンダントを貰いました。昨日から同宿の新聞記者さんは女子二名の「霧石瞑想修行」に付き添って、愉快な記念写真が撮れたそうです。ミーティングの後、新装なった宝物殿の見学会があり、「笑い地蔵様」6体に再会しました。湿度の調整や盗難の監視など気を遣わなければならないことが多いそうです。

翌11月2日(月)は飛び石連休の中日で有給休暇でした。天気が回復していたので、霧石を再訪する計画を変更して、四番目の修行「大豊町の三大史跡を巡るサイクリング」に出かけることにしました。昨日登った梶が森の頂上に樹氷が張っているのが見えたと日記にありましたが、初冬にも至っていない時期なので本当は何を見ていたのか謎です。

真言宗の定福寺では、朝のお勤め「すわろう会」に参加できます。前日は朝7時に目が覚めたけれど寝過ごしたと思ったので二度寝したら、7時45分頃に太鼓の音が聞こえてきたので参加しそこなったことを知りました。本日は忘れずに参加。読経の後、足を楽にと言われたのですが、一緒に座っていたアイルランド人の姉妹(姉は髪の長い陽気な美人、多少ずんぐりした妹は大人しく内気)が足を崩さないので、付き合って正座を続けたら後から強烈な足の痺れに襲われました。

「三大史跡巡りサイクリング」のコースは約40kmで、高知・徳島県境の峠を越える「京柱峠コース」のサイクリング約70kmと比較すると楽で安全です。でも自転車の点検が不十分で油が切れていたので、豊楽寺の帰りに自動車整備工場に寄って油を注してもらうまでペダルの重さに難儀しました。ユースを出発して国道439号を降りて、南大王川と吉野川との合流点の近くで国道32号線に入りしばらく吉野川の上流へ向かってのサイクリングが続きます。二ヶ月半前の四国旅行の時は台風で増水し茶色く濁っていた川が、本来の深く澄んだ緑色を取り戻し、急流の浸食を受けた奇岩の連なる様子も楽しく眺めました。国道から右折して最初の目的地の「豊楽寺」へ向かう道は、3kmも急な坂が続き、途中から自転車を降りて押して歩いても息が切れ、喉の調子を崩したので喘息止めの薬を服用しました。寺の案内板が見えてからも階段を延々と登らなくてはならず、早くも疲労困憊となりそうでした。見下ろす吉野川の景色、川のずっと向こうに広がる梶が森の眺めで、前日の登山と先ほどまでの道のりに達成感を得られました。

豊楽寺薬師堂は正面から見ると古ぼけたお堂ですが、斜めから見ると屋根の軒先の反りあがりが美しく見映えが良いので写真を撮影しました。参拝客は誰もいなくて、中年女性が一人で庭の掃き掃除に励んでいるだけです。大豊町の史跡巡りの二番目の「立川御殿」までは国道32号線に戻って5km西に進んでから、県道を10km以上立川川に沿って北上します。柚子の木に黄色い実が生っていたり、狸を飼っている家があったりで田舎の雰囲気が感じられます。緩やかな登り坂が続きますが、向かい風にまともに直撃されて進行を阻まれました。立川川は吉野川より一段と透明度が高く、「水色」はこの川の色をイメージしたのかと思えるくらいに深い色合いに澄み切って、川の流れを眺めるだけでも気分が高揚して疲労を軽減しました。支流の紅葉と渓谷美も吉野川に引けを取りません。やっと到着した立川御殿は平日で閉館していましたので、見事な茅葺屋根の建屋の写真を二枚撮っただけで入館は叶いません。子供が2〜3人遊んでいました。

帰り道は緩やかな坂道なので自転車のペダルをほとんど漕がない走行で気分爽快、急な坂ではないので「京柱峠越え」のジェットコースターのような下り道より遥かに安全です。昨年の夏の四国旅行で使う予定で購入した昭文社の「中国・四国道路地図」が今回の旅でも重宝しました。三番目の目的地の「大杉」までのちょっとした近道を見つけました(ニューエスト「高知県都市地図」で確認したのですが詳細は不明です)。出発時に女子ヘルパーさんに「夢工房」のコーヒーサービス券を貰っていたので、国道439号線沿いの店で14時に遅めの昼食となり、大盛りのピラフを完食しました。

「大杉」までの道は少し登り坂でしたが、それ程の距離はありませんでした。南北に分かれた杉の大木は、プラスティックで補修してあるものの樹齢三千年でまだ成長を続けているという存在感は揺るぎません。神社の境内に踏み込んだ途端、説明の音声が回りだし、美空ひばりさんが地方巡業の途中でバス事故に会ったときに大杉によって励まされたというエピソードを繰り返して聞かされます。怪我の程度についての生々しい解剖学的な解説や「杉さん」に呼びかけたセリフの具体的な内容まで含まれています。説明の音声が終わると静かで閑散とした雰囲気が戻りました。

土産物店に隣接した民芸資料館には、ユースの「修行者」に「霊能者」と呼ばれている90代の白髭のお爺さんが座っています。中年男性が捉まって延々と話を聞かされています。「1999年7月」という言葉を何度か聞き取りました。世界の終末について談義していたのでしょうか。三史跡巡りを無事にこなしたので帰路に向かいました。国道32号線を北上しながら、遠くに見る梶が森や手前の山の紅葉はまだ見頃前ですが夕日に映えて秋の気配です。土讃線の土佐穴内駅から大田口駅までの国道を離れて線路に沿った道を走行することにして踏切も何度か横切りました。田舎道で線路と吉野川と山の景色をそれぞれ眺めながらの長閑なサイクリングでノスタルジックな気分に浸ります。

ユースへの帰館はまだ明るい4時半です。この日は女子2名(広島県の福山あたりの出身、一人は水質検査が仕事の公務員)が「京柱峠越え」のサイクリングに挑戦したそうです。新聞記者さんはYHで待ち受けて、修行帰りのホステラーを玄関に集めて住職さんの歓待を受ける光景の「やらせ撮影」を実施しました。

本日の「大豊三大史跡巡り」で定福寺ユースの「五大修行」の達成による「笑い地蔵共和国人間国宝」認定まで「439(よさく)コース」の走破を残すのみとなりました。国道439号線を徳島市からの東コース、または高知県中村市からの西コースの何れかを自家用車、バイク、自転車、徒歩(!)のどれでも構わないので完走(完歩)するという「修行」ですが、山中の曲がりくねった道が続いて車がすれ違ない箇所も多い「酷道」として悪名高く、通行はほとんど命がけに近く、遊び半分の「修行」で達成できるものではなく、相当の覚悟が必要です。二日前に宿泊していた岡山の制服会社のバイクのお姉さんが四万十川方面の「439コース」を踏破して無事に帰ってきました。前日は「下津井ヘルスセンター」にたった一人で宿泊してビールを飲んでいたそうです。体育会系ですが可愛らしい顔のお姉さんが一泊だけ宿泊、天理大学の体育学科の卒業生でバスケットボールの試合で筑波大学に来たこともあり、現在は養護学校の体育の先生だそうです。

(コメントへ続く)
1 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する