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2023年08月30日00:14

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08月30日の日記

今日の出来事:1615年−江戸幕府が武家諸法度を発布、1868年−磐城戊辰戦争:第三次磐城平攻防戦、1868年−秋田戊辰戦争:舟形の戦い、第一次三崎峠の戦い、1970年−植村直己がマッキンリーに登頂、日本人初の五大陸最高峰登頂、1974年−三菱重工爆破事件(8人死亡、376人負傷)、1989年−堀江謙一が超小型ヨットでアメリカから日本への太平洋横断に成功、2122年−ドラえもん、ネズミに耳をかじられる

今日は、江戸幕府が武家諸法度を発布です。武家諸法度は、江戸幕府が武家から誓紙を取り付けた3ヶ条に、黒衣の宰相・金地院崇伝が起草した10ヶ条を付け加えたもので、2代将軍の徳川秀忠が伏見城で武家に発布しました「元和令」。法度は大名、徳川家家臣など武家を対象として、当初は13ヶ条でしたが、将軍の交代とともに改訂され、3代将軍の徳川家光が参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文を加え、19ヶ条の定型となりました「寛永令」。5代将軍の徳川綱吉は諸士法度と統合して「天和令」を制定しました。後に、8代将軍・徳川吉宗が6代将軍・徳川家宣の定めた(実際には新井白石が改訂)「正徳令」を破棄して、「天和令」を永く伝えていく事を宣言しました「享保令」。以後、武家諸法度の改訂は行われなくなりました。

次に、磐城戊辰戦争:第三次磐城平攻防戦です。磐城平城が健在である事は、白河方面軍にとって後背の不安要素でした。棚倉城を落とした棚倉支軍の行動にも掣肘を与えていました。白河方面軍から棚倉支軍司令官の板垣退助と牧野群馬、中島茶太郎、大山巌らが督促のため来訪しました。平潟軍を率いていた木梨精一郎、渡辺清、そして先日の増援で新たに加わった河田景与との合議の結果、夜明けに攻略を開始する事を定めました。倍増した兵力を生かし、新政府軍は磐城平城包囲をしようとしました。午前5時、沼ノ内から出撃する右翼の薩摩藩3隊が東方面へ、小名浜からは薩摩藩、大村藩、鳥取藩が中央隊として渡辺清に率いられて平城南へ、湯長谷からは佐土原藩、岡山藩に鳥取藩の3小隊が加わった左翼隊が平城西へ向けて進軍しました。北方面はあえて兵をつけずに、逃走経路として残しました。これは、新政府軍が殲滅ではなく拠点の確保を目的としていたためです。後方の平潟には後方支援部隊の郡山藩兵が入ったため、それまで平潟守備についていた笠間藩200名は列藩同盟軍に占拠されていた自らの飛領・神谷村へと向かいました。神谷村は平城の北東にあり、そのさらに北東には相馬藩、米沢藩、仙台藩の増援が陣を構えていた四ッ倉がありました。このため、笠間藩兵は同盟軍増援の真正面に立つ事になりました。左翼隊は兵を三分し、先日の攻防戦で苦しめられた稲荷台陣地へと攻勢を強め、中央隊、右翼隊は稲荷台が混乱している隙に平城下町になだれ込みました。左翼隊の奮闘により、ついに稲荷台の列藩同盟軍も撤退し、新政府軍は平城の三面包囲を完成させました。当日の空模様は雷雨となり、火縄銃主体の仙台藩、中村藩の火力は著しく減退していました。また、先日の攻防戦で、元込銃での防衛力を発揮した米沢藩3小隊は不在で、四ッ倉へ引き上げていました。平城に残された兵力は、旧幕臣直参を中心とする渡辺綱之助が率いる「純義隊」と、平藩の一大隊でした。藩主に変わって平城の城主となっていた安藤信正は家臣団に説得されて脱出を決意し、新政府軍が故意に開けていた北へ向けて「純義隊」とともに逃走しました。仙台藩兵も仙台まで安藤信正を護送するため退避しました。残されたのは磐城平藩兵とわずかな相馬中村藩兵のみとなりました。しかし、後に残された磐城平藩家老・上坂助太夫と中村藩の相馬将監胤眞は、なおも戦意を失わずに城内の銃器を役目、身分を問わず配布し、4小隊200名ほどを編成して装備も優れた3000名の新政府軍と対峙しました。新政府軍は門を破るため砲撃を重ね、ついに山砲の一弾が内門に命中、衝撃で貫木をへし折るに至りました。新政府軍は歩兵の突入によって一気の制圧をはかりましたが、砲兵と歩兵の連携が上手くいかず、駆けつけた守備側に米俵を積み上げられて門を封じられてしまいました。攻防は休息なく続き、次第に日が落ちていきました。平城はついに午後の攻勢を凌ぎきって、夜を迎えようとしていました。新政府軍参謀部では夜戦を避け、翌日攻撃を再開する決定を下し、宿営地までの引き上げを各藩に通達しました。しかし、薩摩藩は命令を無視し、東門にはりついたまま、夜陰が下りても攻撃の手を休めませんでした。磐城平城側は少数のため交代人員も立てられず、休む暇のない薩摩藩の猛攻に次第に限界が迫っていました。銃弾、兵糧はまだ余裕がありましたが、砲弾はすでに欠乏をきたして反撃もまばらでした。しかし、補給しようにも薩摩藩が攻勢を止めないために外部から運びこむ事ができず、継戦はもはや不可能な状況でした。上坂助太夫は城を枕に戦死する覚悟を決め、後は磐城平藩のみで守るので退去するよう相馬将監胤眞に促しましたが、相馬将監はこの一敗をもってすべての敗北としてはならないと説得しました。ついに上坂助太夫も退去する方針に改めました。深夜0時、城内に火を放って守備隊は全軍引き上げを開始しました。火の手をみるや、薩摩藩はすぐさま城内に侵入し、ここに磐城平城は落城しました。この戦闘における新政府軍の死者は16名。一方、列藩同盟軍の死者は相馬中村藩が25名、仙台藩が7名、磐城平藩は58名でした。深夜の落城の報を受け、四ッ倉の列藩同盟軍は相馬中村藩領で体勢の立て直しを期して、同地を去りました。こうして、浜通りは相馬中村藩を除き、新政府軍の支配するところとなりました。

最後に、秋田戊辰戦争:舟形の戦い、第一次三崎峠の戦いです。
舟形の戦い:新庄藩の裏切りにより、「金山峠の戦い」で列藩同盟軍が敗退しました。これを聞いた庄内藩は、「白河口の戦い」の応援に向かっていた庄内藩二番大隊を、久保田藩と新政府軍と戦うために、楯岡を出発させて舟形に宿陣しました。一番大隊は天童で二番大隊の使者に会い、列藩同盟軍が大敗して新庄藩が裏切った事を聞きました。そこで、一番隊も援軍のために北上しました。庄内藩二番隊長・酒井吉之丞は軍議を開き、二番隊だけで攻撃を行う事を決定すると、小国川をはさんで新政府軍と砲撃戦を行いました。しかし、庄内藩の一番隊の背後よりの奇襲により形成が逆転し、庄内軍は新政府軍の本営の四ツ屋を占領しました。
第一次三崎峠の戦い:庄内藩三番大隊と四番大隊は、別の海道口を進撃しました。秋田藩、亀田藩、本荘藩、佐賀藩兵は、塩越に到着すると鳥海山中腹の三崎峠を踏破して、小砂川にある庄内軍を攻撃しました。正面を亀田兵が攻めあぐねていたので、佐賀兵が側面砲撃したところ、庄内兵は三崎峠に退却しました。しかし、庄内軍に援軍が到着して、地の利もあって優勢となり、新政府軍は小砂川に退却しました。

今日の誕生日:林則徐、堀田正睦、国木田独歩、野川由美子、井上陽水、大野豊、室山真弓(室山まゆみ・姉)、所十三、神野美伽、羽海野チカ、小谷実可子、布川智子(元おニャン子クラブ)、キャメロン・ディアス、パベル・ネドベド、佐藤敦啓(元光GENJI)、内藤大助、吉沢悠、松本潤(嵐)、NAOTO(EXILE、三代目J SOUL Brothers)、歌広場淳(ゴールデンボンバー)、紅蘭、まひる(ガンバレルーヤ)、登坂絵莉、西矢椛、浜野タタミ

今日の記念日:国際失踪者デー、富士山測候所記念日、マッカーサー進駐記念日、冒険家の日、ハッピーサンシャインデー、ニキビケアの日、矢沢の日、柴田純(ジーパン刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、失踪しどこかに監禁されている人々の境遇への関心を引くための記念日で「国際失踪者デー」、1895年に大日本気象学会員の野中至が私財を投じて、富士山頂の測候所の工事の完成を中央気象台に連絡してきました。これが、現在の気象庁富士山測候所の前身となりました。この事から「富士山測候所記念日」、1945年、GHQ最高司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した事を記念して「マッカーサー進駐記念日」、1965年に同志社大学南米アンデス・アマゾン遠征隊が、アマゾン川の源流から130kmを世界で初めてボートで川下り、1970年に植村直巳がマッキンリーに単独登頂、1989年に堀江謙一が小型ヨットで太平洋の単独往復を達成、これらの事があったため「冒険家の日」、「ハッピー(8)サンシャイン(30)」の語呂合わせで「ハッピーサンシャインデー」、「しっかりと(7)ニキビを(2)なくそう(7)」の語呂合わせで「ニキビケアの日」、「ヤ(8)ザワ(30)」の語呂合わせで「矢沢(永吉)の日」なりました。
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