走れなくなったのは、視界がなくなったからです。雨雲のまっただ中に入ってしまったらしく、眼鏡をぬぐってもぬぐっても水滴がつき、すぐに見えなくなります。しばし立ち止まって眼鏡を外し、雨具の上着のかくしに入れました。
眼鏡を外せば、そこには視力０．０８の５６歳になったばかりの男がいるばかり。ほとんど足下しか見えません。
御殿場口下山道（大砂走り）は、通路の両端に白いビニール紐が貼ってあり、とにかくそれさえ外れなければ、道を失ってあらぬ方角に降りてしまうことはないということになっています。
この考えが甘いことにはすぐに気がつきました。黒褐色の砂礫の上では見えやすいはずの白い紐ですが、白い雲に完全に囲まれてしまうと、白い紐は極めて見にくくなってしまうのです。視界のない中ではまっすぐに歩けないことは、皆様もよくご存じだろうと思います。
紐から踏み出す前に気づくように、できるだけ足を上げないようにしてすり足で降りてゆきます。標高を下げれば下げるほど、風雨は弱まるはずなのですが、なんだかどんどん強くなるようです。
新しい乾電池に交換したヘッドランプは十分明るいのですが、その光はすべて雨雲に反射されてしまい、周りは真っ白にしか見えません。まるで豆腐の中に踏み込んでしまったようです。ズルズルとすり足で降りていくうちに、ますます雲は濃くなって、光が当たる向こう側がずいぶん暗く感じられ、樹林帯でもないのに樹林の中の一本道を下っているような錯覚に陥ります。
ひときわ強い風が吹き下ろし、帽子とそこにつけてあったヘッドランプを吹き飛ばしました。ヘッドランプはすぐに拾いましたが、帽子はそのままどこかに飛んでいきました。あとからわかったことですが、ちょうどこのとき九州地方北部と山口県ではとんでもない豪雨になっていたとのことです。
大きくバランスを崩して、転びそうになりました。大砂走りで転ぶとそのまま顔から砂礫に突っ込みますので、もうその場で下るのをやめました。携帯電話のアプリケーションソフトウェア「ヤマップ」で確認すると標高は約２７５０ｍ。砂走館から大して降りていませんが、登り返す気力はありません。
リュックサックをおろして、絶対に風に飛ばされないようにしてツェルトを出し、割れ底から体を入れて、ツェルトの裾を全部体の下にたくし込みました。１４回目の富士登山で初めてのツェルトビバークです。
（注）「ツェルトって何ですか」というレベルの質問はやめてください。カメラマンに「レンズってなんですか」と質問するようなものです。
これで何も見えなくなりましたが、もう今夜は動かなくていいのです。雨が入る心配なくリュックサックの雨蓋を開けて、食料と飲料をチェック。
ナビスコのリッツクラッカーが２パック、ねじり塩せんべい１袋、板チョコレート１枚、カロリーメイト１箱、５００ｃｃのおーいお茶１本、５００ｃｃの三ツ矢サイダー１本、塩飴１袋、５００ｃｃのミネラルウォーター１本。懐中汁粉一袋。
今夜と明朝の食事には十分です。リッツクラッカー１パックと塩せんべいをバリバリと食べ、三ツ矢サイダーをごくごくと飲みました。板チョコを半分と、おーいお茶を一口。これだけ食っておけば、このまま体を横たえて寝てしまっても凍死することはあありません。
映画「八甲田山」の内容を本気で信じている困った人もいますが、「眠るなぁ！眠ったら死ぬぞぉ！」というのは、精魂使い果たして何も食べずに低温下で寝てしまえば凍死することを意味します。食べてさえいれば、体内に熱源が蓄積されるのです。
ぐっしょり濡れた手袋を乾いたものに交換し、フリースセーターを着ました。靴下は乾いているようですので、靴は脱がずにそのまま。
バババババッ！
ツェルトをたたく雨音がまた激しくなりました。体の下にたくしこんだ裾が少しでも出てしまうとバタバタとすごい音がします。
細かいスコリアが背中に当たれば、少しは痛いですが、もうそんなのは放っておいて体を横たえ、寝てしまいました。
ろくでもない夢を見ました。
私は自動車の運転席に乗り込んでいます。後部席には駿台の講師連中が３人乗り込んでいます。ニホンオオカミ捜索に当初は参加していた連中です。フットブレーキペダルを踏んでサイドブレーキを解除すると、上り坂に停まっていたらしい自動車が突然後退を始めました。あっあっあーっ！と叫びながらハンドルを切り、何とか自動車の先頭部を下に向けることに成功したところで、現実の自分の体がスコリア上をズルズルと滑り落ちて、ツェルトの裾がはだけ、ツェルト内に烈風が吹き込んできて目が覚めました。
あわてて体を止めて裾をもう一度たくし込み、ヘッドランプで腕時計を照らすと午前２時少し前。リュックサックの雨蓋ファスナーにキーホルダーのようにつけてある小さな温度計を見ると摂氏４℃。気がつくと体に震えが来ており、さすがに寒さを感じます。ツェルトの中で体を起こし、砂を削ってごくわずかな（１００平方センチほどの）平地をつくり、ガスコンロで湯を沸かして懐中汁粉を作り、ゆっくり飲んで体を温めました。
外はあいかわらず豆腐のように真っ白で、月も星も見えません。もう一度体を横たえ、寝てしまいました。
次に目覚めたのは４時半。ツェルトの生地を通してかなり明るくなってきたのがわかります。イチニノサンでツェルトを畳み、ぐしゃぐしゃに丸めてリュックサックに詰め込んで、残った食料を腹に詰めて下山開始。
気がつくと、風は相変わらずですが雨はやみ、六合目の標識。下山道は外しませんでした。
山岳駅伝の選手が練習に上がってきました。
「どこまで登るの？上は嵐だよ」
「もう、この四合目でおしまいにします。ここで下ります」
だいぶ雲が薄くなって視界が開けてきたので、また眼鏡をかけました。あたりまえですが急に視界が広がった気がします。もう駆け下りる気もしないので、ゆっくりブラブラ降りてゆきます。二合五勺の標識あたりまで降りると、新五合の駐車場を今朝出発したらしい人々が登ってきます。
皆さん「上はどうでしたか？」と心配そうに聞いてきますから、正直に昨夜のことを伝え、上に行くなら今夜は本六合に昨年新しく開業した山小屋に入るようアドバイス。
午前九時、無事に御殿場口新五合目の駐車場に停めた、カローラフィールダーにたどりつきました。
トレッキングシューズ、靴下二枚、股引、ぜんぶ脱いで着替えます。上半身も全部脱いで新しいポロシャツに。残っていたおーいお茶と三ツ矢サイダーを飲み干して、カローラフィールダーの運転席に乗り込んで、背もたれを倒して、一時間ほど眠りました。
近年は高速道路がずいぶん便利になって、東富士五湖道路と新東名高速道路がつながっていましたが、山中湖や忍野（おしの）村をドライブして大月インターチェンジから中央高速に乗り、談合坂ドライブインでカツカレー。八王子手前で圏央道に入って鶴ヶ島ジャンクションンで関越道に。そのまま練馬ＩＣで目白通りに入り練馬豊玉陸橋下をくぐって環状七号線経由で帰宅しました。
八王子から首都高速に入るよりも千円ほど安くなりました。
もう御殿場口から富士山に登るのはやめにします。
私は、すっかり老いて、御殿場口から日帰りで劍ヶ峰を往復するだけの体力が無くなったのです。来年は、富士宮口か須走口からの登山にします。
もう３５年も山登りをやっていますが、豆腐の海を泳ぐような感覚ははじめてでした。
さんざんな、五六歳の誕生日でした。
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