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2022年10月25日00:02

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10月25日の日記

今日の出来事:686年−大津皇子の変、1540年−吉田郡山城の戦い:池の内の戦い、1864年−袖解橋の変、1868年−仙台戊辰戦争:旗巻峠の戦い、1868年−戊辰戦争:米沢藩降伏、1944年−レイテ沖海戦:スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦、神風特別攻撃隊の初出撃

今日は、大津皇子の変です。大津皇子は、天武天皇の皇子です。天武天皇が崩御すると、親友・川島皇子の密告により、謀反が発覚したとして一味30余人と共に捕えられました。磐余にある訳語田の自邸で死を賜りました。この時、妃の山辺皇女が殉死しました。享年24でした。大津皇子の謀反は、皇后ら草壁皇子擁立派による謀略の疑いが強いとされています。

次に、吉田郡山城の戦い:池の内の戦いです。尼子軍は本陣を青光山に進出させ、湯原宗綱、湯惟宗らは青山、高尾久友、黒正久澄、吉川興経は光井口に陣取りました。毛利元就はこの期を逃さず、手薄となった風越山の陣を急襲し、焼き払いました。尼子軍の湯原宗綱は1500の兵を率いて坂に進出し、この地に駐留していた小早川興景を攻撃しました。近くにいた大内氏家臣・杉元相は尼子氏の襲撃に備えると、反撃を開始しました。吉田郡山城から粟屋元良らが出撃し、湯原軍は挟撃される形となり壊滅しました。湯原宗綱は深田に馬を乗り入れて進退に窮し、ついに自害しました。現在でも、安芸高田市吉田町池内に湯原宗綱の腹切岩が残っています。

その次に、袖解橋の変です。井上聞多(後の井上馨)は、1863年「御楯組」の一員として高杉晋作や久坂玄瑞らとともに「英国公使館焼き討ち事件」に参加しました。執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願し、伊藤博文・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに「長州五傑」の一人としてイギリスへ密航しました。しかし、留学中に国力の違いを目の当たりにして「開国論」に転じ、「四国艦隊下関砲撃事件」では伊藤博文とともに急遽帰国して和平交渉に尽力しました。「第一次長州征伐」では武備恭順を主張したため「俗論党」に襲われて、瀕死の重傷を負いました。この時、襲撃したのは井上馨の従弟・児玉愛二郎、椋梨藤太の次男・中井栄次郎、周布政之助の長男・周布藤吾の3人でした。中井栄次郎は「権現原事件」で処刑、周布藤吾は「第二次長州征伐」で戦死します。後年、児玉愛二郎が井上馨に全てを自白した事によって明らかになりました。芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、急所を守る事が出来ました。美濃の浪人で医師の所郁太郎に50針を縫う手術を受けて、一命を取り留めました。この時、あまりの重傷に井上聞多は兄・五郎三郎に介錯を頼みました。しかし、母親が血だらけの井上聞多を抱き、兄に対して介錯を思いとどまらせました。この日の夜に、周布政之助は椋梨藤太ら「俗論党」に実権を奪われた事の責任を感じて、山口矢原にて切腹します。その後、別府に逃れて若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏し、別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養しました。そして、高杉晋作らと「功山寺決起」し、再び藩論を「開国攘夷」に統一します。

その次の次に、仙台戊辰戦争:旗巻峠の戦いです。駒ヶ嶺を制圧した新政府軍には、続々と援軍が到着しました。館林藩兵220名、御親兵第三大隊250名と佐倉藩兵285名、福岡藩第二陣144名が増援し、四条隆謌総督は仙台藩攻略を目指す事にしました。旗巻峠西の福島藩が列藩同盟側でまだ健在で、後顧の憂いを断つために仙台藩兵1200名が籠る旗巻峠へ兵を送る事を決定しました。新政府軍は兵を3隊に分けて旗巻峠に攻め込む戦略を立てました。右に長州藩2中隊と相馬中村藩1小隊を配し、本道を進む中央には館林藩220名と相馬中村藩1小隊、左の部隊には鳥取藩6小隊と砲兵、御親兵、広島藩、相馬中村藩1小隊を配しました。右部隊は長州藩兵に旗巻峠北東の陣地2箇所を攻略させ、中央部隊は旗巻峠からの出撃を押さえ、大兵力となる左の部隊は旗巻峠の南にある羽黒山に向かわせ、稜線を伝って高低の不利なく旗巻峠に攻め込む作戦でした。旗巻峠の仙台藩兵は16小隊であり、アームストロング砲に加え、ようやく後装銃が揃いつつありました。また、陣地は本道に幾重にも張られ、左右の山頂にも側面を押さえる陣地を構築して守備にあたっていました。新政府軍右翼を担う長州藩2中隊は二手に別れ、長州藩「良城隊(民兵部隊)」は単独で旗巻北東の敵陣地を目指し、残る長州3番隊と相馬中村藩1小隊は北に迂回して旗巻峠の北口を目指しました。北東陣地を目指した「良城隊」は哨戒する仙台藩兵を蹴散らして前進しましたが、そのために居場所を察知されて高地からの射撃を集中されました。仙台藩の装備もこの時点になると整い、戦術もこれまでの戦闘経験から学んでいたため、「良城隊」は前進できずに山中に隠れて迂回しました。だが安全のために大きく迂回したため、気がついた時には旗巻峠の北東陣地のはるか北方の大内村(旗巻峠の北北西4km)にまで達していました。長州3番隊と相馬中村藩1小隊は標高200mの山頂にある旗巻峠北口の陣地を目指していましたが、山頂からの仙台藩の銃撃が激しく、歴戦の長州藩も進む事ができませんでした。中央本道を進んでいた館林藩220名と相馬中村藩1小隊も、仙台藩の激しい抵抗の前に立ち往生していました。砲撃の援護を受けて両側の高地に回りこもうとしましたが、特に正面の守りは強固で一向に効果的な攻撃ができずにいました。二方面で優位に戦いを進めていた仙台藩兵でしたが、北と東に引きつけられていました。この隙に左翼の大軍、鳥取藩6小隊と砲兵、御親兵、広島藩、相馬中村藩1小隊は南に回って羽黒山の山頂に上っていました。羽黒山から旗巻峠は北へ2kmで、稜線の上を行くために標高差も少なく、その行軍を妨げるものはありませんでした。左翼隊は北へ前進を始めると仙台藩は戦力を北と北東にとられていたため、南側の山頂陣地を抗戦できずに奪われました。仙台藩は突然山頂を埋めた新政府軍に驚きながら戦力の配置転換を実行しようとしましたが、左翼隊はその隙を与えませんでした。新政府軍は一斉に旗巻峠陣地になだれ込み、午前11時、仙台藩は総崩れで敗走を始めました。仙台藩兵は北西にある阿武隈川沿いの金山へと逃げ込みました。旗巻峠を占拠した新政府軍は西の青葉と北西の大内村を押さえ、そこではぐれていた長州藩「良城隊」と合流しました。こうして新政府軍は旗巻峠を制圧しました。

そのまた次に、戊辰戦争:米沢藩降伏です。米沢藩は「榎峠攻防戦」で敗れ、遂に藩境まで追い詰められました。新政府軍は米沢藩を恭順させる工作を始めました。二本松の東山道先鋒総督府の谷干城・片岡健吉・伴権太夫の土佐藩幹部3人の連盟による恭順を勧める書状が、届けられました。戦況が絶望的になった事もあり、米沢藩は新政府軍に恭順へと傾き始めました。その後、下関の新政府軍からも恭順を勧める書状が届けられました。二本松方面の新政府軍と、下関方面の新政府軍の双方から恭順を勧めれた米沢藩庁は、会議で正式に新政府軍への降伏を決定しました。大滝新蔵と杉山盛之進の両名に恭順したい旨の書状を持たせ、二本松の総督府へ向かわせました。これにより、新政府軍とこれ以上無意味な戦闘を行わないよう玉川本陣に、降伏に決した旨の書状を送りました。そして新政府軍に降伏すると決した米沢藩庁は、会津藩との藩境を封鎖しました。二本松で参謀・渡辺清と面会し、米沢藩の恭順を認めてほしい旨の嘆願書を差し出しました。米沢藩主・上杉斉憲は本丸を出て、三の丸に入り謹慎しました。世子・上杉茂憲が家老・竹俣美作等を伴って、新発田総督府で謝罪を行って嘆願書を提出した事により、正式に米沢藩の降伏が総督府に認められました。こうして新政府軍に謝罪降伏した米沢藩に対し、新発田総督府は直ちに会津藩と庄内藩討伐の為の先鋒軍を出兵させる事を命令しました。更に新発田総督府は、この米沢藩を会津藩及び庄内藩討伐の拠点にする為に、新発田総督府に駐留する戦力と、下関村等の米沢藩討伐の為に下越地方に展開する新政府軍に、米沢藩への進軍を命令しました。新政府軍は米沢に進軍し、参謀・黒田清隆が率いる大部隊が米沢城城下に到着しました。黒田清隆は米沢到着後、軍を二つに分けました。一方を会津鶴ヶ城を包囲する新政府軍(会津追討白河口軍・同平潟口軍・同越後口軍)の援軍に向かわせ、残りを庄内藩討伐に向かわせる事を米沢方面軍に指示しました。戦後、米沢藩主・上杉斉憲は長子・茂憲に家督を譲って隠居します。新政府は藩から4万石を召し上げ、一連の戦犯について調査を命じた結果、新潟で戦死した越後口総督で家老・色部長門を戦犯として届け出ました。そして、上杉茂憲が自らが東京に出頭して軍資金3万両を献納するなど運動した結果、改易を免れました。米沢藩は色部長門に責任を転嫁した事によって処刑者を出しませんでした。

最後に、レイテ沖海戦:スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦、神風特別攻撃隊の初出撃です。
スリガオ海峡海戦:ブルネイを出撃した西村祥治中将が率いる西村艦隊は、スールー海に入りスリガオ海峡へ向かいました。栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定でしたが、栗田艦隊が一時反転した事により予定より遅れました。同時に突入してアメリカ軍の邀撃戦力を分散するという計画は崩れましたが、西村祥治中将は夜戦を企図し、西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断しました。一方、アメリカ軍第7艦隊司令長官・キンケイド中将は西村艦隊の接近を察知し、オルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入しました。オルデンドルフ少将は西村艦隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行う事にしました。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻でした。マッカーサーは軽巡「ナッシュビル」で観戦する事を望みましたが押し留められました。10月25日2時58分、西村艦隊がレイテ湾入り口にさしかかり、米駆逐艦部隊は日本艦隊を視認しました。米第10駆逐艦隊は魚雷を発射しました。戦艦「扶桑」が駆逐艦「メルヴィン」の魚雷4本を受けて弾薬庫に引火、大爆発を起こして艦体が真っ二つに折れて前後の部分が漂流しました。「扶桑」の船体は直ぐに沈没せずそのまま炎上し続けました。「扶桑」艦前半部分は午前4時20分頃に沈没し、転覆して浮いていた艦尾後半部分は、午前5時20分頃に重巡洋艦「ルイスビル」が砲撃して沈めました。艦長の阪匡身少将を含む1637名全員が戦死し、生存者は1人もいませんでした。続いて、駆逐艦「マクデルマット」、「モンセン」、「リメイ」が魚雷27本を発射しました。駆逐艦「山雲」が轟沈し、乗組員全員が戦死しました。駆逐艦「満潮」も沈没し、230名が戦死、「朝雲」も被雷して沈没し、200名が戦死しました。戦艦「山城」にも駆逐艦「モンセン」の発射した魚雷1本が命中しました。西村艦隊は3隻になりましたが北上を続けました。3時23分、米駆逐隊第2小隊が魚雷14本を発射しました。このうち1本が戦艦「山城」に命中しましたが、重巡「最上」、駆逐艦「時雨」と共に突進を続けました。3時40分、西村中将が「山城」から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と最後の命令を下しました。3時51分、米戦艦、米巡洋艦は「丁字陣形」で西村艦隊を迎え、レーダー照射による砲撃を開始しました。大口径弾300発、小口径弾4000発の砲撃を打ち込まれた艦隊に命中弾が相次ぎました。「山城」は駆逐艦からの雷撃を受け、大爆発を起こしました。それでも「山城」は1、2番主砲から反撃の砲撃を行いましたが、4時19分に艦尾より転覆して沈没しました。艦長・篠田勝清以下1400名が戦死し、生存者は2名のみでした。最後尾にいた駆逐艦「時雨」は反転離脱しました。「最上」は微速航行で戦場を脱出しました。西村艦隊は駆逐艦「時雨」を残して壊滅状態に陥り、西村祥治中将も戦死し、レイテ湾への突入は失敗しました。後に続いて突入する筈だった志摩清英中将が率いる志摩艦隊は、西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着しました。4時33分、パナオン島付近で魚雷艇隊の攻撃を受け、軽巡「阿武隈」が被雷しました。必死の応急処置によりなんとか浮かんでいましたが、発射管の魚雷が火災により誘爆して艦体に亀裂が生じ、重油が流出しました。総員退去命令が下されて生存者は艦首より退艦、3時間後に艦首を立てた状態でネグロス島沖に沈みました。戦死者512名でした。「最上」は、艦橋への直撃弾により艦長・藤間良、副長、航海長、艦橋にいた将兵が戦死しました。志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始しましたが、旗艦「那智」が「最上」を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで退避中の「最上」と衝突しました。航行不能となり、駆逐艦「曙」により雷撃処分となりました。志摩清英中将は突入を断念し、海峡外で様子を見る事にして退避をしました。海面を漂っていた生存者の多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため、殆どが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて10数人でした。特に戦艦「扶桑」・「山城」の両艦で乗組員3000余名中、生存者がたったの2名、まさに全滅でした。米軍は魚雷艇1隻沈没、駆逐艦1隻損傷、魚雷艇9隻が損傷、37名が戦死し、114名が負傷しました。
エンガノ岬沖海戦:小沢治三郎中将が率いる小沢艦隊は、砲撃戦を試みるため南下をはじめました。小沢艦隊は、空母「瑞鶴」、軽空母「瑞鳳」、航空戦艦「伊勢」、軽巡洋艦「大淀」、駆逐艦4隻の第1群と、軽空母「千歳」、軽空母「千代田」、航空戦艦「日向」、軽巡洋艦「多摩」、軽巡洋艦「五十鈴」、駆逐艦4隻からなる第2群に分かれていました。8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲しました。軽空母「千歳」は被爆し、沈没艦長・岸良幸以下が戦死、駆逐艦「秋月」も被爆し沈没、183名が戦死、軽巡「多摩」は魚雷1本が命中、大破しました。空母「瑞鶴」も被雷して速度が低下しました。さらに、10時ごろ第2次攻撃隊36機が来襲しました。この攻撃で軽空母「千代田」が被爆、大破炎上して航行不能になりました。小沢中将は旗艦を「大淀」に移し、連合艦隊司令部と栗田中将宛てに、「大淀に移乗して作戦を続行」と打電しました。その後、「瑞鶴」と「瑞鳳」が被爆し、14時14分に「瑞鶴」は沈没、艦長・貝塚武男以下、士官49名、下士官兵794名が戦死しました。「五十鈴」も被弾して操舵不能となりました。15時27分、「瑞鳳」が沈没しました。航行不能になっていた「千代田」も、第38任務部隊から分派されたデュボーズ少将指揮の巡洋艦部隊の攻撃で16時55分に撃沈され、艦長・城英一郎大佐以下、乗組員全員が戦死しました。これで、小沢機動部隊は空母4隻全てを失いました。その後、「初月」が沈没し、艦長・橋本金松中佐以下290名が戦死しました。「五十鈴」と「若月」は戦場を離脱できましたが、大破した「多摩」は単艦で退避中に米潜水艦「ジャラオ」の雷撃を受けて沈没、艦長・山本岩多以下全員が戦死しました。
サマール沖海戦:反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は、サマール島沖に差し掛かっていました。スプレイグ少将指揮下の米駆逐艦は、少しでも時間を稼ぐため栗田艦隊に肉薄し、魚雷を発射しました。日本軍巡洋艦部隊は、米空母から発進した艦載機の攻撃で被害を出しました。第七戦隊では、「熊野」が駆逐艦の雷撃を艦首に受けて落伍し、「鈴谷」も被弾して三軸運転となって落伍し、大破して沈没しました。654名が戦死しました。第五戦隊では「鳥海」が被爆して落伍し、「筑摩」が被雷して航行不能となりました。残る「羽黒」と「利根」は米空母群への攻撃を続行しました。「羽黒」は、正規空母1隻撃沈を報告したのち、二番砲塔に直撃弾を受けました。「鳥海」は爆弾が1発命中して航行不能となり、駆逐艦「藤波」の魚雷で処分されました。乗組員は「藤波」に移乗しましたが、その後の空襲で撃沈されたため、「鳥海」艦長・田中穣、「藤波」艦長・松崎辰治以下、1人の生存者もいませんでした。「筑摩」も魚雷が1本命中して舵を損傷、航行不能に陥りました。海面を漂っていた生存者120名余が駆逐艦「野分」に救助されましたが、「野分」も米艦隊の砲撃により撃沈されました。「野分」艦長・守屋節司以下、272名全員が戦死、救助された「筑摩」艦長・則満宰次以下120名余が全員戦死しました。「熊野」は駆逐艦「ジョンストン」の雷撃により落伍し、「羽黒」も爆撃により第二主砲搭を失いましたが、誘爆と火災は防げました。水雷部隊を率いていた「矢矧」も駆逐艦の砲撃と空襲で50名近い死傷者を出しました。この戦いで栗田艦隊通算3回目の艦隊針路反転がありました。これが今日まで議論が続くいわゆる「栗田艦隊謎の反転問題」の始まりです。
神風特別攻撃隊の初出撃:レイテ沖海戦から第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将が呼んだ、神風特別攻撃隊(通称「特攻隊」)とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施されました。護衛空母「セント・ロー」に特攻機1機が命中し、爆弾、魚雷の誘爆で沈没しました。これらの攻撃により護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破しました。これは「台湾沖航空戦」により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で、栗田艦隊のレイテ湾突入援護を行わなければならなかった大西中将が、苦肉の策として発令したものでした。特攻反対論者であった大西瀧治郎中将が、どのようにして特攻戦術導入に至ったのかは、彼が終戦直後に何も語らずに自決した事により未だに謎に包まれています。特攻の威力を過大視した日本軍は、終戦までこの戦法を正規の戦術として作戦展開していく事になります。
この「レイテ沖海戦」で、日本海軍は残された軍艦ほぼすべての投入をするなど総力を挙げました。後の戦闘を見越して陸軍も多数の部隊を配置しました。アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力を投じて戦ったため、その規模の大きさ、戦域が広大になりました。日本軍は、戦艦3隻、航空母艦4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦11隻、航空機100余機を失い、戦死者7475名を出しました。日本海軍の艦隊戦力は、この海戦での敗北を最後に事実上壊滅、以後は組織的活動が不可能となりました。

今日の誕生日:平沼騏一郎(第35代内閣総理大臣)、パブロ・ピカソ、土門拳、上島忠雄、野沢雅子、日野皓正、キートン山田、山本浩二、大和田伸也、新田たつお、金沢明子、宇都宮隆(TM NETWORK)、大仁田厚、ラッキィ池田、チャド・スミス(RED HOT CHILI PEPPERS)、恩田陸、崎山龍男(スピッツ)、松本大洋、ピーター・アーツ、小笠原道大、北野正人(元day after tomorrow)、秋元優里、渡辺志穂(元AKB48)、薬丸翔

今日の記念日:世界パスタデー、民間航空記念日、産業観光の日、新潟米の日

今日の「今日訓」:本日は1951年10月25日に、戦後最初の国内民間航空会社として設立された「日本航空」が一番機の「ど星号」で東京 - 大阪 - 福岡間の運航を開始した事を記念して「民間航空記念日」、2001年に名古屋で産業観光サミットが開催されたことを記念して「産業観光の日」、1995年にイタリアで「世界パスタ会議」が開催された事で「世界パスタデー」、「いい(1)お米(0)にいがた(2)コシヒカリ(5)」の語呂合わせで「新潟米の日」となりました。
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