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2022年10月15日00:03

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10月15日の日記

今日の出来事:1466年−文正の政変、1652年−承応の変、1862年−幕末天誅事件:宇郷重国暗殺、1945年−スマラン事件

今日は、文正の政変です。文正の政変は、文正元年(1466年)10月15日に室町幕府8代将軍・足利義政の側近、伊勢貞親と季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件です。将軍・足利義政は、将軍の専制政治を確立しようと乳父で政所執事・伊勢貞親と鹿苑院蔭涼軒主・季瓊真蘂を登用し、諸大名の介入を行いました。1454年に畠山持国の息子・義就と甥の政久が争いました。細川勝元と山名宗全が政久を支持し、足利義政は義就を支持しました。畠山義就が上洛し、畠山持国の死去後、家督相続を認めて近臣に取り立てました。また、不知行地還付政策で寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図りました。関東で反抗した古河公方・足利成氏討伐のため、越前・尾張・遠江守護の斯波義敏や奥州の大名に動員を命じました。畠山義就は足利義政の意向と称して政久追討しながら、大和の軍事介入と土地の横領を行ないました。このため、1460年に家督を政久の弟・政長に替えました。細川勝元の支持を受けた畠山政長は、管領に就任しました。斯波義敏と執事・甲斐常治が越前で「長禄合戦」を起こしました。斯波義敏が命令に従わず、越前の甲斐常治派討伐を優先したため、足利義政は斯波義敏を追放し、息子・松王丸を当主に交替させました。1461年、足利義政は斯波氏の家督を交替させて松王丸を廃立、遠縁で渋川氏出身の義廉を当主に据えました。1463年、母・日野重子の死去で大赦を行い、畠山義就と斯波義敏を赦免しました。斯波氏当主の交替に反発した山名宗全は、一色義直や土岐成頼と共に斯波義廉を支持しましたが、足利義政は斯波氏当主となった義敏に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与え、義敏・松王丸父子は出仕しました。しかし、足利義政の弟・義視が細川勝元邸に入り、伊勢貞親が義政に讒言して自分を殺害しようとしていると細川勝元に訴えました。翌日、細川勝元は出仕すると足利義政に申し開きをし、伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則は京都から逃げました。側近を失った足利義政は独自の政治を行えなくなり、諸大名中心の政治へと移行していく事になりました。この「文正の政変」後、斯波氏の家督は義廉に戻され、義敏が3ヶ国守護に任命されました。畠山義就が吉野で挙兵し、畠山政長の領国・河内を攻めました。幕府は畠山義就征討のため、出陣を決めました。しかし、畠山義就は山名宗全と斯波義廉の支援で上洛、翌応仁元年(1467年)に畠山氏当主と認められました。畠山政長が管領を罷免され、斯波義廉が管領に就任します。そして、上御霊神社で畠山義就と畠山政長が激突する「御霊合戦」となり、「応仁の乱」の幕開けとなるのです。

次に、承応の変です。牢人の別木庄左衛門が同士数人とともに、徳川秀忠夫人・崇源院(江)の27回忌が増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪って老中を討ち取ろうと計画しました。主な首謀者は別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門らです。しかし、前年に起こった「慶安の変」と同様に、仲間の1人が老中・松平信綱に密告したため、別木庄左衛門らが捕らえられて処刑されました。備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら幕府に知らせなかったという理由で、ともに磔刑に処せられました。また、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部が別木庄左衛門と交際があったという事で、同僚である松平信綱は阿部忠秋に山本兵部の切腹を命じました。この事件の後、承応元年と改元されたため「承応の変」と呼ばれました。

その次に、幕末天誅事件:宇郷重国暗殺です。宇郷重国は官名・玄蕃頭は前関白九条家の諸大夫でした。「安政の大獄」の際、同じ九条家の侍臣・島田左近と共に志士弾圧を行い、「和宮降嫁」にも関わったために攘夷派志士からの遺恨を買っていました。「島田左近暗殺」以来、身の危険を感じた宇郷重国は居所を転々としていましたが、九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を土佐の岡田以蔵、岡本八之助、村田忠三郎、肥後の堤松左衛門に急襲されました。飛び起きて逃げようとしたところを岡田以蔵に斬り倒され、子息も堤松左衛門によって殺害されました。宇郷重国の首は鴨川河岸に槍に刺し、斬奸状と共に晒されました。

最後に、スマラン事件です。ジャワ島スマランで起きた、旧日本軍とインドネシア独立派の武力衝突事件です。オランダ領東インド(蘭印)は、「太平洋戦争」初期に日本軍が占領した後、日本の統治下にありました。1945年8月に「太平洋戦争」が日本の敗戦に終わると、蘭印ジャワ島駐屯の日本軍も連合国軍によって武装解除される事になりました。一方、8月17日に独立宣言をしたインドネシアの独立派は、予想されるオランダとの戦争に備えるために、日本軍に対して武器の引き渡しを要求しました。しかし、日本軍はこの要求を拒みました。また、日本の第7方面軍司令部は、インドネシア人から成る郷土防衛義勇軍や兵補(日本軍の補助要員)を解散させ、武器も回収するよう命じていました。連合国軍からも、現地人の武器携帯を禁止する事などが命令されていました。インドネシア側の要求は次第に激しくなりました。9月には小部隊や倉庫を襲撃して武器の強奪を狙う者も現れました。連合国軍の進駐が進むにつれ、焦ったインドネシア側の行為はさらに過激化しました。ジャワ島の日本軍第16軍司令官は、指揮下部隊に武器の使用を禁止する命令を発していたため、各部隊は対応に苦慮しました。東部ジャワのスラバヤでは、板挟みとなって困った日本軍東部防衛隊司令官らが、連合国軍が武器を引き取るよう求めました。これを受けてオランダ海軍のフェーエル大佐は、10月3日に日本の提案に同意しました。ところが、フェーエル大佐は、以後の治安維持は現地人警察に委ねるとしたため、東部ジャワの日本軍の所有武器の大半をインドネシア独立派が入手する結果となりました。インドネシア側は、スラバヤでの許可を先例に、他の地域の日本軍にも同様の引き渡しを求めました。ジャワ西部のバンドンでは多数のインドネシア人が武装して集結し、憲兵隊や自動車部隊、飛行場を襲撃しましたが、10月10日に日本軍西部防衛隊が武力出動して鎮圧しました。日本兵3人とインドネシア人十数人が死亡しました。インドネシアでは、この戦闘が以後の武力衝突の発端であるとしています。この他、同じ西部ではガルーで工場の警備をしていた日本兵42人が無抵抗のまま全員殺害される事件や、竹下海軍大佐一行86人がブカシで拉致殺害される事件が起きました。竹下大佐の事件ではスカルノ大統領署名の通行許可証を携帯していましたが、武器提供を拒んできた事を理由に殺害されました。ジャワ中部のスマランには、戦時中は南方軍幹部候補生隊が置かれ、終戦時にはスンダ列島からマレー半島へ移動中の部隊を中心に約600人が滞留していました。マゲランの中部防衛隊司令部(司令官:中村淳次少将)の管下にあり、現地では城戸進一郎少佐が指揮を執っていました。なお、スマラン南方には外国人収容所があり、約3万人のオランダ系民間人が居住していました。10月5日には、ジョグジャカルタ市で日本軍駐屯部隊300人が、武装したインドネシア独立派の攻撃を受けました。日本軍は一旦は応戦したものの、翌朝に日本の民間人100人とともに投降しました。武装解除された日本人は以後4ヵ月間投獄されて、赤痢と栄養失調で多数が死亡しました。スマランでは10月3日にインドネシア人の代表者が城戸少佐を訪ねて、治安回復に用いるためとして武器の引き渡しを求めました。城戸少佐は若干の武器を貸与名目で引き渡しましたが、状況は改善しませんでした。同日夜には飛行場の弾薬が略奪されました。10月12日、インドネシア独立派の群衆がスマランの日本軍駐屯地を訪れ、再び武器の引き渡しを求めましたが、城戸少佐は拒絶しました。14日早朝には武装したインドネシア人の一団が日本軍駐屯地を訪れて、再び武器引き渡しを要求しましたが、これも日本側は拒絶しました。12日には建設中のスマラン製鉄所にいた日本人作業員や軍人ら339人が、人民治安団(BKR)指揮下の現地人警察隊により拘束され、市内の施設に監禁されました。13日には市内各地で、市民や赤十字関係者などの外国人・混血人の拘束が始まりました。日本の民間人や、市内に下宿していた日本軍人も拘束の対象となりました。日本人を含め約2000人の外国人がブル女子刑務所に監禁されました。マゲラン駐屯日本軍も包囲され、司令官の中村少将が応戦を禁じたため、武器を強奪されて、中部防衛隊司令部は全員拉致されました。また、マゲラン憲兵隊の10人は殺害されました。拘束を免れたスマランの日本人市民は、日本軍駐屯地に避難しました。14日夜には、監禁されていたスマラン製鉄所関係者が、見張りの現地人警官を撲殺して脱出を行いました。この際に、日本側も13名が射殺されました。14日夜、外国人の拘束・殺害、マゲラン司令部の制圧などを知った城戸少佐は、武力行使を決断しました。15日に日本軍部隊は、スマラン市内のインドネシア側武装勢力に対して攻撃を開始しました。装備及び練度に勝る日本軍がインドネシア側を圧倒し、市内は日本軍の制圧下となりました。イギリス軍がスマランに上陸しましたが、治安任務の引き継ぎは行われず、戦闘にも加わりませんでした。スマラン事件は、ジャワ島の武器引き渡しを巡る争乱としては最大の惨劇となりました。戦闘の結果、インドネシア側は1000〜2000人が死亡しました。日本軍は28人が戦死、15人が行方不明となりました。また、ブル刑務所に監禁中の日本人は149人が殺害され、30人が行方不明となりました。19日にはカリウングの王子製紙工場が襲撃されて、従業員53人が殺害されました。ジャワ島で終戦後、1947年の復員完了までに日本人が出した死者は、戦死562人、自殺60人、病死・事故死456人の計1078人に上ります。そのうち多くはスマラン事件同様の武器引き渡しを巡る紛争に起因するものでした。武器引き渡しを巡る戦傷者も330人出ています。

今日の誕生日:イザベラ・バード、上野彦馬、フリードリヒ・ニーチェ、野村胡堂、中谷一郎、蜷川幸雄、江波杏子、リチャード・カーペンター(カーペンターズ兄)、清水国明、ヴァヒド・ハリルホジッチ、山川豊、キムラ緑子、法月綸太郎、岡野昭仁(ポルノグラフィティ)、ジャッキーちゃん、川村亜紀、真木よう子、ブルーノ・セナ、太田彩乃、水原希子、仲谷明香(元AKB48),堀未央奈(元乃木坂46)

今日の記念日:世界手洗いの日、農山漁村女性のための国際デー、たすけあいの日、きのこの日、ぞうりの日、人形の日、すき焼き通の日、孫の日、化石の日

今日の「今日訓」:本日は、9月の第3月曜日の「敬老の日」から1ヶ月後の10月の第3日曜日を、おじいちゃん、おばあちゃんから孫にメッセージを伝える日として「孫の日」、感染症の予防のため、石鹸を使った正しい手洗いの方法を広めるための活動が世界各地で行われる「世界手洗いの日」、農山漁村に住む女性の社会的・経済的な貢献を高く評価し、彼女たちの担う役割の重要性を再認識するよう呼びかける「農山漁村女性のための国際デー 」、全国社会福祉協議会が1965年に制定した「たすけあいの日」、10月はきのこ類の需要が高まる月で、その月の真ん中の15日を「きのこの日」、「七五三」や「正月」など、草履を履く行事の多い時期が近い事から「ぞうりの日」、1904年にアンモナイトの一種で日本を代表する化石「ニッポニテス・ミラビリス」が新種として報告された事で「化石の日」、「日本人形協会」と「日本玩具及び人形連盟」が1965年に「人形の日」を制定しましたが、1972年に「抜本的な検討を加える必要がある」として活動を休止しました。しかし、一般に普及したため、全国各地で人形供養や人形感謝祭等が開催される「人形の日」、2008年10月15日に、すき焼きに関する本「すき焼き通」が刊行された事をきっかけに、すき焼き店とすき焼き愛好家で結成された「すきや連」が誕生しました。すき焼きの美味しさと楽しさをアピールする日にと「すき焼き通の日」となりました。
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