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2022年10月13日00:24

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10月13日の日記

今日の出来事:1574年−第三次長島侵攻、1862年−幕末天誅事件:本間精一郎暗殺、1868年−秋田戊辰戦争:角館の戦い、生保内口の戦い、1868年−東京奠都

今日は、第三次長島侵攻です。1574年、織田信長は美濃から尾張国津島に移り、三度目の長島攻めの為に大動員令を発し、織田領の全域から兵を集めました。そして、陸と海からの長島への侵攻作戦が開始されました。陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは織田信長本体の三隊が、さらに海からは九鬼嘉隆などが動員され、畿内で政務にあたる明智光秀や越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など、一部を除いて主要な将の殆どが参陣し、7〜8万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれました。まず、陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴しました。早尾口の織田本隊も小木江村を固めていた一揆勢を破り、篠橋砦を羽柴秀長・浅井政貞に攻めさせました。こだみ崎に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢を丹羽長秀が撃破し、前ヶ洲・海老江島・加路戸・いくいら島の一揆拠点を焼き払って五明へと移動し、ここに野営しました。翌日には、九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着しました。蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸など尾張から集められた兵を乗せて一揆を攻め立てました。また、織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井など伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされました。海陸、東西南北の四方から織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込みました。大鳥居城・篠橋城は、織田信雄・信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきましたが、信長は断固として許さずに干殺(兵糧攻め)にしました。夜中、大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを攻撃して男女1000人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落しました。篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきたので、長島城へと追い入れました。しかし、長島城に何の動きも起こらず、籠城戦が続いたため城中で多くの者が餓死しました。兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、10月13日に降伏を申し出て長島から船で退去しようとしましたが、信長は許さずに鉄砲で攻撃しました。この時、顕忍や証栄、下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、または斬り捨てられました。一揆衆の一部は、織田軍の手薄な箇所へ裸になって抜刀するという捨て身で、反撃を仕掛けました。これにより、織田信長の庶兄・織田信広や弟・織田秀成など多くの織田一族が戦死し、1000人の被害が出ました。ここで包囲を突破した者は、北伊勢方面経由で大坂へ逃亡しました。これを受けて、織田信長は残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにしました。城中の20000の男女が焼け死にました。こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊し、長島城は滝川一益に与えられました。この戦いで討死した織田軍の武将は、小瀬清長(菅屋長頼・兄)、織田信次(織田信秀・弟)、織田信直(織田信張・子)、織田信広(織田信長・庶兄)、織田信成(織田信光・長男)、織田信昌(織田信光・次男)、織田秀成(織田信秀・8男)、佐々松千代丸(佐々成政・長男)、佐治信方(織田信長・義弟)、平手久秀(平手政秀・嫡男)、山田勝盛(織田信長・家臣)、和田定利(和田惟政・弟)

次に、幕末天誅事件:本間精一郎暗殺です。本間精一郎は越後国出身の勤皇の志士です。本間精一郎は故郷の越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結びました。清河八郎より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説きました。特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていました。そこへ青蓮院宮と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間精一郎と後者を推す「土佐勤王党」の間で対立が起き、本間精一郎が幕府と通じているのではないかと疑われました。この日、本間精一郎は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘しました。数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところを止めをさされて斬首されました。本間精一郎は殺害された後、高瀬川へと投げ込まれました。実行犯は土佐の岡田以蔵をはじめ、平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・弘瀬健太・田辺豪次郎、そして薩摩の人斬り・田中新兵衛でした。

その次に、秋田戊辰戦争:角館の戦いです。庄内藩二番大隊の酒井吉之丞と一番大隊参謀・長坂右近助が相談して、角館攻略を決定しました。庄内藩二番大隊は、一関藩兵を押さえに残して南楯岡を出発し、角間川の渡しを超えて大曲に入りました。入れ違いで一番大隊が出発して、四ツ屋の浅瀬に向かいましたが渡河の最中に夜が明け、対岸の新政府軍の攻撃を受けて渡河を中止しました。川端より引き返し、角館を仙台藩兵と共に攻撃する事に決めて、横堀に宿陣しました。その時、盛岡藩より大館城を攻略したという知らせを受けました。これに対して庄内一番大隊より、角館攻撃に際して盛岡藩には背後より攻撃の要請がありました。その後、国見で仙台藩兵と合流し、仙台藩兵が先鋒を努めました。仙台藩兵が鶯野に到達すると、一斉に新政府軍の攻撃を受けました。仙台藩兵は散兵になって反撃しました。庄内一番大隊と松山藩兵も攻撃に参加しました。しかし、新政府軍が時間をかけて構築した強固な土塁陣地による攻撃が続き、近寄れませんでした。一番大隊の猪太夫隊が付近の民家を壊して筏を作り、渡河しようとしましたが、新政府軍の激しい反撃で撤退しました。その後、撤退の命令があり、白岩へ戻り野営しました。庄内一番大隊は攻撃を続行しましたが、新政府軍の守備を攻略できませんでした。雨で玉川が増水したため、一番大隊は角館攻略を断念して撤退しました。

その次の次に、秋田戊辰戦争:生保内口の戦いです。盛岡藩は、橋場村に兵力を集結して生保内口攻撃を決行しました。生保内は、現在の秋田県仙北市田沢湖生保内です。生保内御番所関守・高階囚獄は、密かに盛岡藩の情勢を探り、雫石付近に大勢の兵士が集結している事を知りました。このため、高階囚獄は久保田藩に増援を要求し、援軍が到着しました。1868年10月6日、源治郎台の足軽兵は盛岡兵の攻撃を受けて防ぎきれず、番屋に火をつけて葭谷地に撤退しました。源治郎台が占領されたため、久保田藩は柳台に台場を作って兵士15名を配置しました。10月9日、柳台に盛岡藩兵の攻撃がありましたが久保田藩はこれを撃退しました。10月12日、盛岡藩の家老・野々村真澄が橋場村に到着しました。野々村真澄は500の兵を2手に分けました。一隊は野々村真澄が指揮を執って国見峠から間道を進み、他の一隊はお目付役・毛馬内柞太郎が指揮をして本街道を進んで生保内を挟撃しようとしました。両部隊は10月13日午前4時、国見峠のヒヤ潟の陣屋を出発しました。本道を進んだ一隊は、大木が切り倒されていたため、道を横切る事ができずに柳台の台場を威嚇射撃しました。間道を進んだ一隊は、午後4時に生保内を眼下に見下ろす雨滝峠に到着し、一気に下って柳沢に本陣を構築すると直ちに攻撃を開始しました。斥候の一隊は、八幡堂林を占拠しました。生保内陣地は、この八幡堂林の西わずか300mの高階囚獄宅にありました。生保内本陣にいた約150名の兵士は、発砲を聞くと急いで出陣しました。この時、八幡堂林付近にいた盛岡藩の斥候2名が狙撃されて戦死しました。久保田藩兵は、3方から反撃して八幡堂林を奪還しました。その後、一進一退の交戦が続きましたが日暮れになると盛岡藩兵は柳沢に兵を退きました。翌14日の午前5時に戦闘が再び始まりました。久保田藩側は、盛岡藩兵を武蔵野に引き寄せて3方から攻撃しようとする作戦でした。午前10時頃、横堰林を進んだ渋江隊は50mほどの近距離から銃撃を受けて後退を始めました。それを受けて盛岡藩兵は、松林の中を進撃しました。この時、3方に布陣していた久保田藩兵は一斉射撃を開始しました。不意に3方から攻撃を受けた盛岡藩兵は、混乱に陥って後退を始めました。盛岡藩兵は、これ以上の戦いは不利と判断し、残っている食料を焼き捨てて帰陣しました。

最後に、東京奠都です。幕末の京都は、「大政奉還」や「王政復古」により、政治の中心地となっていました。しかし、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行なうにあたって遷都を行おうという声があがっていました。「鳥羽・伏見の戦い」の直後、大久保利通は総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣後、大坂行幸を行なって、その後も引き続き大坂に滞在する事を提言しました。そして、太政官の会議で浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出しました。しかし、遷都を行えば千年の都である京都を放棄する事になるとして、抵抗の大きい公卿ら保守派の激しい反対を受けて廃案となりました。続いて大久保利通は、副総裁・岩倉具視を通して、親征のための一時的な大坂行幸を提案し、決定しました。大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まりました。そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられました。そして、天皇が京都を出発し副総裁・三条実美ら1655人を伴い、大坂の本願寺津村別院に到着し、行在所としました。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、京都に還幸しました。この間、遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市の一つであり、帝都にしなければ市民が離散して寂れてしまう、江戸のほうに遷都すべきだとする前島密による「江戸遷都論」が大久保に届けられました。この時、江戸城が無血開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていました。軍務官判事・大木喬任と東征大総督府監軍・江藤新平が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉具視に提出しました。これは、東日本を治めるため江戸を「東京」とし、ここを拠点にして人心を捉える事が重要であるとし、東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものでした。徳川氏が江戸から駿府70万石に移される事が決まると、大木喬任・江藤新平の東西両都案が決定され、政府は参与・木戸孝允と大木喬任に江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせました。2人は有栖川宮熾仁親王・三条実美・大久保利通・江藤新平らと協議の上、京都へ戻って「奠都」が可能である事を報告しました。これを受けて、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられました。この詔書では、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治をみる事と、そのために江戸を東京と称する事が発表されました。保守派や京都市民への配慮から、東京奠都を明確にはしなかったものの、東西両都の方針通り「東京」が誕生しました。天皇は、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、京都を出発して東京に行幸しました。岩倉具視、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、岡山藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3300人にも及びました。天皇は江戸城へ到着すると、その日のうちに東幸の皇居と定められ、「東京城」と改称されました。続いて、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決する事を宣言する詔を発しました。そして東京の市民はこの東幸を盛大に祝いました。

今日の誕生日:マーガレット・サッチャー、森本哲郎、ポール・サイモン(サイモン&ガーファンクル)、樋口久子、サミー・ヘイガー(元ヴァン・ヘイレン)、大和田獏、金田明夫、まつもと泉、森昌子、津久井克行(元Class)、生瀬勝久、吉本多香美、松嶋菜々子、海保知里、鳥羽潤、イアン・ソープ、misono(元day after tomorrow)、益若つばさ、Fukase(SEKAI NO OWARI)、佐野ひなこ、山本舞香、松田里奈(櫻坂46)

今日の記念日:世界血栓症デー、サツマイモの日、引越しの日、麻酔の日、豆の日、ペットの健康診断の日

今日の「今日訓」:本日は、「血栓症」という用語を作り出し、その主要な原因を提唱したドイツの病理学者のルドルフ・ウィルヒョウの1821年10月13日の誕生日で「世界血栓症デー」、江戸から川越までの距離が約13里なので、サツマイモに「栗(九里)より(四里)うまい十三里」という異名があった事から「サツマイモ」の日、明治天皇が京都の御所から江戸城に引越した事にちなんで「引越しの日」、旧暦10月13日、華岡青州が世界で初めて全身麻酔による手術を成功させた事により「麻酔の日」、「十三夜」として名月に豆をお供えし、ゆでた豆を食べる「豆名月」という風習があった事で「豆の日」、「獣(10)医(1)さん(3)」の語呂合わせで「ペットの健康診断の日」となりました。
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