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2021年10月19日17:18

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エスタニスラウ神父の臨死体験

Maria Llopart
El monjo, l’ermità
MARCEL CAPELLADES RÀFOLS
Publicacions de l’Abadia de Montserrat

第8章 死の扉で
修道院でのエスタニスラウ神父の生活のリズムは非常に激しいものでした。腎不全のために重病になるまで彼の健康は悪化しました。医者は完全に萎縮した腎臓を取り除くために手術することに決めました。しかし、執刀医はエスタニスラウ神父がその手術に耐えられないと確信し、彼に知らせました。彼の死の時が来ました。それにもかかわらず、手術することが決定されました。修道院長エスカレと何人かの修道士は別れを告げるためにバルセロナの病院に行きました。
―「さようならエスタニスラウ神父。天国へ!」修道院長は言いました。
「いいえ、ファーザー・修道院長、私はまず隠修士でなければなりません」と彼は答えました。
修道士の死に備えて祈りが捧げられ、エスタニスラウ神父は完全にリラックスしました。さて、看護師が担架で彼を連れて来たとき、エスタニスラウ神父が自分で身を起こしたので、彼が手術を受けるのに最も深刻な状態の患者であるとは信じられませんでした。担架でも同じです。 看護師は患者を間違っていないか確認しなければなりませんでした。
彼は手術室に入り、麻酔科医は彼に次のように説明しました。少し注射します。すると、口の中が苦くなり、ピンク色になり、手術から目覚めるまで何も感じなくなります。では、私にあなたの腕をください。」 「どうぞ、それはあなたのものです」とエスタニスラウ神父は答えました。
「麻酔科医が言ったようにすべてが進みました」とエスタニスラウ神父は私に説明しました。「しかし、ピンク色は白くなりました。それからトンネルに入ると、電車の警笛が鋭くなりました。トンネルの終わりに、私は自分が底なしの深淵に突っ込んでいるのを感じました、そして私は無限のめまいを感じました。しかし、それから大きな沈黙があり、私は無限の平和を経験しました。白色光が金色になりました。私は純粋に幸せでした。」
この意識状態は、手術中持続しました。彼らはエスタニスラウ神父を彼の部屋に戻し、神父は目覚めたとき、彼らが自分にこう言うのを聞きました。「エスタニスラウ神父、動かないでください、それは非常に危険です!」そして、それは彼が現実に戻るために、できる限りの動きをしたということでした。「そうしなかったら、私はその状態から抜け出せなかったでしょう。できる限りの努力をしたので、それは私のパジャマが汗浸しになるほど、負担がかかりました。」
これは死でしょうか?死とは何でしょうか?エスタニスラウ神父は本当に死んだのでしょうか?現実は彼がモンセラートに戻ったということです。腎臓が取り除かれました。これから、彼は残りの人生を一つの腎臓で生きます。彼は45歳でした。一旦回復すると、彼は徐々に通常の修道院生活を再開しました。 1961年4月のある日、修道院長エスカレはエスタニスラウ神父の部屋に入りました。彼はタイプライターの前にいて、修道士の博士論文をレビューしていました。
「エスタニスラウ神父」と修道院長は言います。「少し休息したい場合は、聖なる洞窟[Santa Cova]に行ってしばらく休むことを許可します。 エスタニスラウ神父は黙っていました。彼はすぐにすべてを残して洞窟に行きました。夕方、修道院長はこれを修道士たちに伝え、「心配しないように。3日後には耐えられず、またここに来るでしょう」と言いました。しかし、エスタニスラウ神父は戻って来ませんでした。それは1961年5月1日、モンセラートでの彼の隠修生活の始まりでした。

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エスタニスラウ神父と共に来日されたミリアムさんによると、最初に隠修生活を修道院長に申し出たとき断られたそうですが、神父様は修道院長に「あなたの方から私に隠修生活をするようにお願いすることになるでしょう」と言って、それを聞いた修道院長は「それはないよ」と笑ったそうです。(記憶に基づいて書いているので若干違うかもしれません)
ミリアムさんの作成した略歴によると腎臓の手術は1961年2月7日、隠遁生活の許可を得たのはここでは「1961年4月のある日」とありますが、略歴に1961年4月27日と記されています。

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