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2021年05月14日09:02

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路暁農先生(宜興市)から送られてきた「歴代梁祝史料輯存」(歴代梁祝史料集成)と渡来僧「明極楚俊」

路暁農先生(宜興市)から送られてきた「歴代梁祝史料輯存」(歴代梁祝史料集成)と渡来僧「明極楚俊」
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2021.05.14 Friday

路暁農先生(宜興市)から送られてきた「歴代梁祝史料輯存」
(歴代梁祝史料集成)と渡来僧「明極楚俊」

2019年4月16日上海の周友文経由で宜興の路暁農先生から突然メールが舞い込んだ。
周友文は梁祝会の寧波・上虞表敬訪問の時に同行通訳を引き受けてくれ、今は上海で就職している(湘潭大学の卒業生)で「梁祝会の宜興招待」に関する細々とした連絡調整をしてくれて宜興の路暁農先生と繋がりがあり,その縁で突然呼び出されて、路暁農先生が日本の「五山文学」の本に「梁祝」についての記載があるので調べたいと上海図書館に同行を頼まれた。
路暁農先生は生涯を費やして国内外の典籍の中にある梁祝関連記述を研究している人である。この作業は徒労に終わったようで、周友文から、日本で「五山文学全集」の中にある梁祝の記述、「明極楚俊遺稿」・「義堂周信」という人物について調べてくれとこちらに依頼があった。国会図書館で「古典籍の写本」と「五山文学全集」の梁祝に関する記述を見つけ各種写本のコピーなどを提供した。

今回、路暁農先生から送られてきた著作「歴代梁祝史料輯存」(歴代梁祝史料集成)はその集大成で、本の中でこちらが提供した部分も紹介されている。またこの本には梁祝会が2018年4月宜興に招待されたときの写真が二枚載っている。この一連の流れの中で、知ることになった鎌倉時代後期に中国から来日した禅僧明極楚俊を知った。


見つけた記述は 【重編貞和類聚祖苑聯芳集】
【梁山伯墓】“灯残雪案同床梦、蝶化荒丘几度花。
只为相逢不相识,死生难解者冤家。”
大意試訳⇒ 共に蛍雪の功を積み、蝶となり荒れた丘に花咲く
思いがけず知り合い、死生を共にし相思相愛

【祝英台墓】 “三载同窗读古书,渠瞒汝也汝瞒渠。
罗裙擘碎成飞碟, 依旧男儿不丈夫。”
試訳⇒ 同じ学び舎で三年勉学に励み、お互いの恋情を隠す
絹のスカートの襞は蝶となり舞飛び、悲しきかな男は夫となれず

これは1300年代の限られた僧侶階級の間で「梁祝伝説」が流布していたと言うことではなく,渡来僧、明極楚俊の著作の中にこの文字があり、写本を作った人たちは王羲之などの詩作と同じように,詩の一編として明極楚俊の詩を知っていたということで,民間に「梁祝」が知られていたと言うことではないだろう。
中国や日本の明極楚俊を研究する人が,明極楚俊の遺稿集に「梁祝」の文字があることを見いだしたということだ。

その後、自らも「義堂周信」と「明極楚俊」について興味を持ち,路暁農先生の著作の中にある「复旦大学の査屏球」という方を調べた。いろいろ調べていくうちにネット上に『元朝昌国の禅僧明極楚俊は遙か日本へと赴く』というタイトルの、复旦大学「査屏球教授」の論文のような、【舟山日報】2017年11月の記事を見つけ、自らのために翻訳を試みている。以下は翻訳途中の一部分抜粋である。とても新鮮で興味深い内容なので是非読んで欲しい。

“元朝昌国禅僧明極楚俊曾経遠赴日本”
(元朝昌国の禅僧明極楚俊は遙か日本へと赴く)
复旦大学「査屏球教授」のネット上の論文試訳

東アジアの“海上のシルクロード”は、また“海上の典籍の路”とも言う。唐宋以来、日本に行く多くの商人、僧侶等は、中華文明の各種の典籍や書画を日本に広めるために持っていった。元代(1279-1363)、一人の浙江省舟山籍の高僧が二千数千点余の典籍を日本へと持ち運んだ、彼は日本の五山文化の代表的人物の一人で、後に日本の天皇(後醍醐天皇)から“佛日焰惠禅师”燄慧(えんね)禅師”の称号を賜った。彼がまさに昌国の禅僧明極楚俊である。元朝に日本へ赴いた禅僧の中に、舟山に関係のある禅宗大師が二人いた。その一人は一山一寧(いちざんいちねい)、彼の原籍は台州の臨海で(現・浙江臨海・台州市)、祖印寺、宝蛇寺(現・普済寺)の住持を務めた。またかって江浙(江蘇と浙江)の仏教総統を担当し、元朝の国書を奉呈し使節として日本に行き、“宋の地においては万人に優れ、本朝においては第一の国師”と称された。

もう一人は明極楚俊で、彼は慶元府昌国州(今の浙江省舟山市)の人。一山一寧と異なることは、彼は日本幕府の招きに応えて日本に行ったことである。彼を招くために日本の幕府の執権(北条高時)が使節と船を遣わして、わざわざ中国に迎えに来たことである。彼が住持をつとめた南禅寺は日本では“天下第一の名山、五山の頂点”と尊重され、それで明極楚俊も当時の日本の仏教界の指導的人物の一人であったということができる。

明极楚俊の原籍に关しては、《中国歴史大事典》の编集主幹を担当した歴史学者の鄭天挺(ていてんてい)によれば以下のように绍介されている“明极楚俊は 元の慶元府(けいげんふ》昌国(浙江舟山)の人、禅宗の僧侣。天歴二年(1329)日本の入元僧、物外可什(もつがいかじゅう)、天岸慧广(てんがん えこう)等と一绪に日本に行き、日本の朝廷と幕府の厚遇を受けた。鎌倉の建長寺、南禅寺、建仁寺等に居住して、公卿、武士、多くの学者に至るまでが彼に教えを请い、中日文化交流に对して貢献した。・・・・・・”

《佛日焰惠(燄慧えんね)即ち明極楚俊)等の発見された関係資料を調べてみると、明極楚俊は南宋の末期の景定三年(1262)に生まれ、昌国県の黄氏の家柄の子供で、家庭の暮らし向きは豊かで、両親は小さいときから彼を私塾に行かせて儒家の知識を学んだ。もともとは学者になることができる彼は科挙への路を放棄した。彼の生まれつきの品性は孤高で清廉で俗世の汚れを喜ばず、十二歳で毅然として剃髪し、昌国で出家し仏教に帰依した。

天歴2年、即ち日本の元徳2年(1329)五月、既に68歳の高齢だった明極楚俊は、
弟子の懶牛希融(らんぎゅうきゆう)を連れて、日本の僧侶天岸慧広(てんがんえこう)、物外可什(もつがいかじゅう)、雪村友梅(せっそんゆうばい)、および寧波象山籍の僧侶、竺仙梵僊(じくせんぼんせん)等がこの“明極楚俊招請船”に乗って、日本への路に足を踏み入れた。6月になって、終に日本の博多港に到着した。

東アジアの“海上のシルクロード”は、また“海上陶器の路”“海上の茶葉の路”ともいわれているが、その実はまた東アジアの“海上の典籍の路”とも言える。これは浙江工商大学の王勇教授が首唱する“書籍の路”であり、これは一つの学術上の卓見である。元代、中日両国には正式な政府筋の往来はなかったけれども,民間の往来が日に日に頻繁になるに従って、海上交通の助けを借りて、典籍伝播の路は十分に広かった。

大量に入元した日本の禅僧は商船で輸送することによって、中国の仏教や儒教の経典著作と書画を日本へ持ち帰り、同時に元朝の多くの彫刻師は招きを受けて日本へ行き、日本の印刷出版事業の興隆と仏教や儒教の典籍の印刷流行を促進した。

明極楚俊は“本の虫”で、幼少から記憶力の抜きん出ていた、幾度もそれぞれ大きな寺院で、禅学の経典を熟読し、また広くいろいろな書物を読んで、本を読むことに対しては一種の深く心にとどめる愛があった。明極楚俊はまた志をもっていて努力を惜しまない人で、彼の心の中で,今回の日本行きで、対岸の人(日本人)への最大の贈り物、それは書籍!だと確信した。

それでは、明極楚俊はこの日本行きで、一体どれだけの書籍を持って行ったのか?
北京師範大学の王明兵教授が引用している《大日本仏教全書》の記載によれば、明極楚俊が持って行った典籍は2103巻になる。その中で“律宗経書327巻、天台章疏716巻、華厳章疏175巻、儒学書265巻、雑書463巻”、そのほかにもたくさんの“図画の碑文の拓本の器物”などがまだある。

二千余巻にもなる多くの書籍と資料が、大小に分けられた数多くの梱包を積載輸送し、浙江から一路、荷物は福州に運ばれ、それからこの“明極楚俊招請船”によって日本の国にまで伝播した。王勇教授は“海上の書籍の路”に対して特段の詩趣豊かな評価をしている:“海、船団、東方、東の空に朝日が昇る、運ばれているのは芳香漂う書籍、これは古代の書籍の路だ”。“海上の書籍の路”を通して、中国の典籍は海外にまで広まり、東アジア諸国の文化発展、社会の進歩に対して積極的な作用を産み出した。

多くの漢文の典籍が日本で広まり、当時の日本の“五山禅林”を出現させ“百花斉放”の繁栄を現した。これらの書籍は文明の種子に似通って、日本の大地に蒔かれ、中華文明の精神の創意に富んだアイデアは日本で根を下ろして芽吹いて、日本の文化の発展に対して計り知れない巨大な影響を産み出した。(以上:試訳途中の抜粋)

注:
みんき‐そしゅん【明極楚俊】中国、元代の臨済宗の僧。明極派の祖。勅号は仏日焔慧禅師。虎巖浄伏の法を嗣ぎ径山寺、浄慈寺などに居り、僧録司もつとめた。元徳二年
(1330)招かれて来日し、後醍醐天皇・北条高時の帰依を受け、建長寺、南禅寺、建仁寺などに歴住。著に「九会語録」。(1262−1336) 精選版日本国語大辞典

ござんぶんがく【五山文学】鎌倉末・南北朝時代を中心に行われた、鎌倉および京都の五山の禅僧の漢詩文。広義には同時代の禅林文学を総称。日記・語録・漢文・漢詩があり、虎関師錬・義堂周信ら多数の作家が出、江戸時代の儒学勃興の基をなした。
広辞苑
ぎどう‐しゅうしん【義堂周信】 南北朝時代の臨済宗の学僧。五山文学の代表者。号は空華(くうげ)道人。土佐の人。夢窓疎石・竜山徳見に参じ、建仁寺・南禅寺などに住む。梵・漢の学に通じ、詩文をよくした。詩文集「空華集」(20巻)、日記「空華日用工夫略集」など。(1325〜1388) 広辞苑

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