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2021年09月15日18:06

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千々和ミゲル・・・

 一昨夜、ネットのニュースを見ていたら、
 天正遣欧少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの可能性が高い遺骨が
 長崎県諫早市で見付かったとの記事がありました。
 天正遣欧少年使節については、微かに名称が記憶に残っている程度でした。
 ヨーロッパへの派遣は、
 伊達政宗が支倉常長を派遣した慶長遣欧使節団もありますが、
 天正遣欧少年使節の方が前ですね。

 そのような次第で、天正遣欧少年使節や千々石ミゲルについて少し調べてみました。
 この使節は、1582(天正10)年に、九州のキリシタン大名の、
 大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代として、
 千々石ミゲルの外に伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンが派遣されました。
 一行はポルトガルを経てスペインに入り、国王フェリペ2世に会っています。
 その後イタリアに入り、ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しています。
 ちなみに、グレゴリウス13世はグレゴリオ暦を定めた教皇です。
 一行は1590年(天正18年)に帰国しますが、
 この時には、大村純忠と大友宗麟は既に死亡していました。
 翌年豊臣秀吉に会って、西洋音楽を披露したとの事です。
 4人は、イエズス会に入り、司祭になるために修練院に入りますが、
 千々石ミゲルだけは、途中でイエズス会を抜け棄教したとされています。
 その後、千々石清左衛門と名を改め、
 大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出されますが、
 まだ藩内では、キリスト教の布教が行われていたため、
 キリスト教の裏切り者として襲われたりした事もあったようで、
 長崎に逃れ、そこで生涯を閉じたとされていますが、
 詳細は分かっていないようです。

 調査をしている墓所はミゲルのかつての領有地にあり、
 2003年に見つかったものです。
 江戸時代に大村藩家老を務めた浅田家の所有地で、
 浅田家にはミゲルの四男千々石玄蕃の娘が嫁いでいるとの事です。
 調査は2014年、2016年、2017年に行われ、
 第4次調査になる今回は夫妻の墓のうち、
 ミゲルが埋葬されたと推定される南側の墓が対象です。
 調査は、子孫の浅田昌彦さん(68)が立ち上げたプロジェクトで、
 クラウドファンディングで資金を集めて発掘調査を実施しているとの事ですが、
 調査は、大学教授などによる本格的なもので、
 費用もかなり掛かるのだろうと思います。
 これまでの調査経過などは、
 「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」のHPに詳細に載っています。
 https://migel-project.jp/

 2017年の調査では、
 妻の墓からロザリオの一部と見られるガラス玉類が出土しました。
 谷川章雄・早稲田大人間科学学術院教授を委員長とする
 考古学の専門家による調査指導委員会が開かれ、
 谷川教授は2017年の調査で
 ロザリオと見られるガラス玉類が見つかっていることを踏まえ、
 「潜伏期のキリシタン墓の構成要素である
  墓碑、埋葬施設、人骨、副葬品がそろった稀有な事例で、
  文化財としての価値は高い」と評価していますが、
 ミゲルの墓かどうかについては
 「現状では断定できない。
  今後、人骨から性別や年齢を鑑定することが大事だ」と
 述べたとの事です。

 ミゲルの遺骨だとすると、
 棄教したミゲルが、何故潜伏キリシタンの埋葬の仕方で葬られたのか、
 ミゲルの棄教とは、何だったのか、その辺が問題になってくるような気がします。

 面白いニュースを見て、勉強してしまいました。


【今日の一句】
 鍋のまま 出されて レンゲ どこにある?


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