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2021年01月05日20:36

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「蠅の王」序文

※ゴールディング「蠅の王」のE.M.フォースターによる序文を訳してみました(注意:結末に触れているところあり)。きちんと推敲してないので読みにくかったらすいません。しかし、さすがに紹介がうまくて、読んでみたくなる。著作権云々とかあるかもしれないので、ここだけの話で。


序文
E.M.フォースター

 この注目に値する本の序文を記せるのは喜びであり、名誉であるが、また難しくもあって、どうしてかと言えば、本の中に、あるサプライズがあって、読者は自力でそのサプライズに出会うべきだからである。もし、読者が知りすぎてしまったら、その読者は悦に入ってふんぞり返るだろう。そしてその自己満足は、ゴールディング氏が価値あるものと認めているものではない。彼の視点では、世界は、私たちが予期しない何か、おそらく好まない何か、をひっそりと隠し、そしてゴールディング氏は、この本でその世界を、サンゴ礁の島の上の学校の生徒たちの冒険話を装いながら、あらわにするのである。
 始まりは、なんと劇的なことか!数人の少年たちが戦争の間疎開しようとしている。彼らの飛行機は撃墜されるが、彼らが乗っていた「胴体」が投げ出され、島に落ちる。そしてその「胴体」はジャングルの上に少年たちをまき散らして、海の中に滑り込む。彼らのうちの誰もけがをせず、やがて、彼らは集まって、古き良き時代を再現する準備をする。かなりありそうもない始まり方であるが、ゴールディング氏の魔法が既に働いていて、その始まり方を私たちは受け入れてしまう。しかし、状況は起こりそうもないのだけれど、少年たちにとってはそうではない。コールディング氏は、少年たちを理解しつくしている。もともと持っている共感の能力と、彼が費やした長い教職生活から。彼は、私たちに、少年だけれども実在の人間と共にいるという感覚を味わせて、それゆえに、やがて来る恐怖のためのしっかりとした礎石を置いているのである。
 三人の少年たちを紹介しよう。
 ラルフは、12を少し越えたばかりの年齢だ。彼は、品行方正な少年で、しっかりした体つきを持ち、ボクサーになるかもしれないが、決して悪魔にはならない少年だ。と言うのも、彼は明るくて、礼儀正しく、分別があって、思慮深いからである。彼は、多くを理解していないが、二つのことははっきりと心に抱いていた。一番目は、彼らはすぐに助けられるだろう、どうしてかというと彼の父は海軍にいるから!二番目に、彼らが助けられるまで、みんなは団結しなければならない。ほら貝を見つけ、ミーティングがある時はほら貝を持つ彼が話すべきだと手はずを整えたのは彼だ。彼はリーダーに選ばれる。彼は、民主主義者である。ほら貝が残っている間、協調性の見かけだけは存在した。しかし、ほら貝は粉砕される。
 ピギーを紹介しよう。
 ピギーは太って、喘息もちで、近視で、家が裕福でないが利口な少年だ。彼は、一派のブレインとなる。火を起こすのは、彼の眼鏡のレンズである。彼はまた、物事の本質を見極める知識を持っている。彼は、ラルフに忠実であり、ラルフが間違いを犯すのを止めようとする。そういうことができるのも、見知らぬ島で、過ちが行き着く先を彼は理解しているからである。彼は、安全なものはなにもないこと、どんなものも用途が決まっているわけではないことを理解している。彼は人間的である。宇宙が、自分の便宜のために造られてはいないことに気づいていて、ベストを尽くそうとしている。彼が生き残る限り、知性はうわべだけでも存在する。しかし彼は打たれすぎてしまう。彼は野蛮人によって移動させられた岩の下の空間に突進する。彼の頭の骨は割れ、脳がまき散らされる。
 ジャックを紹介しよう。
 ジャックは、聖歌隊のリーダーで、それは彼の運命を考えるのに一風変わった役割である。彼は、みんなを、日差しの強いビーチまで二人ずつ行進させる。彼は冒険を、興奮を愛好しており、グループで食料調達しに行くことを、彼が思い立ったときに命じる。彼は、まだそのことを理解せず、最初はひるみさえするのだが、実は流血を好んでいる。ラルフを彼は一番好んでいて、お互い好きだと感じている。ピギーを彼はひどく嫌っていて、軽蔑している。彼は民主主義に対する独裁制である。政治学的なレベルでこの本を読むことも可能であるし、この本の悲劇的な傾向の中に、大戦間期の悲劇を読み取ることも可能だ。ここで作者がどちらの側に立っているのかは疑いない。作者はラルフの側に立っている。しかし、もしも視点をもっと深いレベル、心理学的レベルまで落としたのなら、彼はピギーの側に立っている。ピギーは、少年たちが何者であるかを自分が知っているゆえに物事がうまくいかないかもしれないということを理解している。そして彼は、島が、うわべの友情だけでは、いかんともしがたいものであることを理解している。
 野蛮への回帰を促すような恐ろしい事件がこの本のほとんどを満たしている。読者は、それらに耐え、それらを甘受し続けなければならない。どうにかして、それらが美にまみれるためである。この本の想像力の大きさは、目に見えるものを超越する。終わりに、少年たちが、整備されたイギリスの巡洋艦によってしかるべく救助されるとき、少年たちの側に私たちがいることに気づく。私たちは、少年たちの経験を共有し、救助してくれた者たちの独善的な陽気さに憤慨するのである。海軍の将校は、彼が見つけたものに少し失望する。みんなが下品で汚らしい格好で、おなかが膨れ上がって、顔は泥だらけで、少なくとも二人が行方不明で、島は燃えている。もっとサンゴ礁の島らしくあるべきだと、彼はそれとなく言う。

「ラルフは無言で彼を見た。しばらくの間、彼はかつてビーチに備わっていたような奇妙な美しさのつかの間のイメージを想像した。しかし、島は死んだ森のように枯れ果ててしまった。サイモンは死に、ジャックは…。涙があふれ始め、体を揺さぶりながらむせび泣いた。彼は、今、島の上で初めて、そのような感情にとらわれることを自分に許した。体全体をねじるような大きな悲しみの発作に震えていた。島の燃えている残骸の前の黒い煙をくぐって彼の声が高く響いた。声に込められた感情が伝染して、他の少年たちも体を震わせ、むせび泣き始めた。そして、彼らの真ん中で、下品な体で、もじゃもじゃの髪で、鼻を拭わないままの、ラルフは、無邪気さの終焉、人間の心の闇、真実の空間の中での墜落、ピギーと呼ばれる利口な友人のために泣いた。」

 この引用は、非常に感傷的であるが、また意味深い。「無邪気さの終焉」と「人間の心の闇」は、それまでにあらわれたものよりももっとはっきりと著者の態度を示す。彼は、”人間の堕落”とおそらく”原罪”を信じている。あるいは、信じ切ってはいないにしても、恐れている。同じ恐れが、彼の二番目の小説、「後継者たち」という名の難解で深い作品、にも影響を与えている。この本では、無邪気な人(いわば少年たち)はネアンデルタール人の男であり、堕落させる者はホモ・サピエンス、つまり私たちの先祖で、他の動物を食べ、酩酊できるものを発見し、破壊を引き起こす生き物である。同様の概念が、彼の他の小説にも現れる。
 このように、彼の姿勢はキリスト教信者に接近している。つまり、我々はみんな罪をもって生まれるか、あるいはみんな罪に陥る。しかし彼は、クリスチャンとしての姿勢が完璧に備わっているわけではない。救い主の観念を決して導入しないのがその理由である。神が現れるなら、それは蠅の王、ベルゼブブである。そして、彼は、自分の前に道を用意するための使いを送ってくる。
 世の終わりは徐々に近づいてくる。少年たちが上陸したとき、大人たちがいないことに気づいて彼らは喜んだ。ラルフは喜んで全力を尽くした。そして彼によってつかの間の幸福がもたらされた。まもなく問題が生じて、仕事が割り当てられて実施されなければならなくなった。そしてラルフはこう感じた。「僕たちはこの仕事を大人たちがするようにうまくやらなければならない、失敗するわけにはいかない」問題は増え、恐るべきものになっていく。自暴自棄になって少年が叫ぶ。「せめて、大人たちが私たちへのメッセージを与えてくれたら、大人たちが私たちに大人向けの何か、サインか何かを送ってくれたらよかったのに」大人たちはそうする。大人向けの何かを送る。死んだ落下傘兵が、彼らが互いに殺しあっている空中から漂いながら落ちてきて、穏やかな風にあちこちと運ばれながら、島の高いところに引っかかる。
 これは、恐怖の終わりではない。しかし、それは、究極の皮肉である。のんきな救助者が近くに着いた時にその恐怖が私たちに残っている。もっと良い場面が置かれなかったのを不思議に思う。
 「蠅の王」は相応に紹介されるべき非常に芸術的な本である。そのような本の序文の危険性は、退屈な本であることを暗示してしまうことであるかもしれない。しかし、この本はそうではない。この本は品位と激しさをもって書かれていて、話の流れは自然で、風景描写は魅惑的だ。確かに、気楽に読めるような本ではない。しかし、この本は、少数の大人が自己満足に陥らず、思いやりをもって、ラルフを支持し、ピギーを尊敬し、ジャックを制御し、人間の心の闇にほんの少し光を当てる助けにはなるかもしれない。ちょうど今(個人的に話してもよいのなら)、最も必要に思えるのはピギーへの尊敬である。私たちのリーダーには見ないものである。

E.M.フォースター
ケンブリッジ大学キングスカレッジ
1962年5月14日
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