mixiユーザー(id:1762426)

2020年09月20日07:54

50 view

キリシタン紀行 森本季子ー239 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー97

しかし、主任司祭の保育所運営には実際面でなかなか面倒なこともある。特に殊に、主任司祭が短時間で交替する場合は尚更である。
 バルク師に代わってコニリー師の崎津時代(一九五三〜五五)に、保育所を引き受ける女子修道会を求めることになった。そこで、聖母訪問会への交渉が始まった。僻地布教を使命の一つにしているこの会は神奈川県の鎌倉に本部を設置していた。
 ともかくも下検分をして、ということで、当時の総長・シスター鈴木ふじと古参のシスター衛藤キリが天草へ出かけたのが、昭和三十年(一九五五)。現地で目にしたものは彼女たちをためらわせるに十分だった。
 まず交通の不便。本部との通信は一週間から十日、小包なら一ヶ月以上を要した。今なら外国並である。小さな漁港での信者よ非信者の対立、生活物資の不足。この離島に会員派遣を決めかねて検分者は帰ってきた。
 その後も祈りに祈って神のみ旨を求めた結果、最終的に、崎津保育所の受諾に踏み切ったのだった。
 小川、落合、大瀬良の若いシスター三人がシスター衛藤の引率で本部を出発したのは、昭和三十二年(一九五七)五月。天草五橋以前のことである。熊本県宇土半島の突端、三角港から本渡まで連絡船で二時間半、更に崎津までバスで二時間。ようやく到着したところが、先着しているはずの荷物が未着でふとんもない。教会委員・脇津屋さんの世話で、どうにか食事が間に合う有様だったという。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する